カビリアの夜のレビュー・感想・評価
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天使の迎え
ちょうど俺にもカビリアと似たような女友達がいて、会うたびに違う男の話をしてくる。恋愛感情とかは全然ないから!そのへん割り切ってるから!と自己催眠のように強調するのでじゃあ会わなきゃよくね?と言うとちょっと嫌な顔をされる。しかし2〜3週間後には結局LINEをブロックされていたり面と向かって嫌なことを言われたりで失恋。そのときの落ち込みようったら。そのたびにもう恋愛とかやめるわと勢いよく引退宣言してみせるのだが、しばらく経つとねーちょっと聞いてよ…と来る。
お前かなり愚かだな〜と毎回笑っているのだが、一方で俺は彼女のことがけっこう好きというか、ある意味じゃ敬意を抱いている。俺だったら恋愛などという一喜一憂のジェットコースターに立て続けに乗ろうという気がそもそも起こらない。第一に疲れてしまうだろうし、それに何度も何度も乗っているうちに生の感動みたいなものが薄れていくような気がして怖い。だからそこを恐れずに飛び込めるのはすごい、女友達もカビリアも本当にすごい。彼女らにとっては恋愛のあらゆる瞬間が強い電撃のように感じられるんだろう。いつまでも。打ちのめされることにビビってはじめから何もしない俺は本当にダメ。
しかし彼女らのような強く実直な信念で恋愛に臨む者たちに待ち受けるのは、往々にしてリアリズムの汚泥がこびりついた偽物の愛ばかりだ。カビリアはのっけから恋人に土手から川へ突き落とされ、あまつさえ死にかける。人工呼吸でようやく目を覚ました彼女が周囲への感謝より先に逃げ去った男を必死になって探している姿が切ない。
その次は有名な映画俳優。彼は自分の女と喧嘩別れした腹いせにカビリアを誘い出し、かりそめの夢を見せる。いや、最後までやることやってんならいいんだけど、風呂場に一晩放置というのはあんまりにもむごい。それでも文句一つ言わないで豪邸を後にするカビリアの愚直さ。
このあたりからカビリアもだんだん自分の生活に嫌気が差してきて、娼婦仲間と共にマリア様に嘆願しに行ったりもするのだが、叫びも涙もその場限りのもので誰もが週末になればそれまでの微温的生活に戻っていく。カビリアは半ば自己嫌悪のようにマリアなんかが何をしてくれるんだい?と叫び散らす。
貧乏クジばかりの人生だったが、遂に彼女にも転機が訪れる。彼女は見世物小屋で出会った紳士に熱烈な求愛を受け、幾度かのデートを経て結婚を申し入れられる。舞い上がったカビリアは意気揚々と自分の家を売り払い、教会の牧師様に謝辞を並べ立てる。神様はやっぱりいたんだ!と彼女はバスに乗って村を去る。
結婚直前のデートに浮き足立つカビリアとは対照的に、相手の男の雰囲気がどうやらおかしい。明らかに温度差がある。カビリアはそれには気づかず(いや、きっと気づいていたんだろう)散歩に出かけた男についていく。鬱蒼とした森を抜けるとそこには真っ赤な夕焼けと広い広い川が。男、デート、川…カビリアの脳裏を嫌な思い出が掠める。ここへ来た真意を問い詰めるも無言を貫く男にカビリアはすべてを悟り、諦める。大金の入ったカバンを男の前に放り出し、その代わりに自分を殺してくれと懇願する。しかしこの男がそんな責任感のある行動を取れるはずもない。男はカバンを持って逃走し、やがて夜が来る。
舗装路まで戻ってきたカビリアはそこで不思議な人々に囲まれる。皆一様に楽器を持ち、パーティー用の帽子をかぶっている。彼らは失意のカビリアの周りを取り囲み、彼女に福音をもたらすかのように音楽を奏でる。俺にはそれが天使の迎えのように見えた。数多の絶望を生き抜いてきた彼女を肯定できるものは、もう現世の理を超越したあの世の使い、あるいは神のほかに存在しないんじゃないか。そして天使たちに囲まれたカビリアの表情もまた、恐ろしいほどに一点の穢れもない微笑へと変わっていく。それにしたって神様はやっぱり残酷だと思う。こんな風になる前にもっとどうにかしてやれなかったのかと悔恨ばかりが尾を引く。俺の女友達もいつかこんな風に迎えがきてしまうのだろうかと思うと背筋が凍る思いだ。だから俺はバスに乗り込むカビリアを見送ってしまったあの娼婦友達とは違って、頼む戻ってきてくれ!と無様に懇願したいと思う。まあ、でもたぶん行っちゃうんだろうな。それ以外の何もかもがどうでもよく見える恋を知らない俺にはたぶん説得力がない。
この映画をものすごく雑にまとめるなら「バカな女がひたすら可哀想な目に遭う話」に尽きるのだが、しかし決して単純な「悲劇フェチズム」には陥っていない。本作には受け手を映画の中の悲しみに否応なく引きずり込んでしまうような仕掛けがところどころに施されている。たとえば見世物小屋でカビリアが観衆に嘲笑されるシーン。我々はカビリアの視点を通じて観客席の下品な哄笑を目の当たりにする。フェリーニは馬鹿笑いに興じるこいつらは実のところお前ら観客なんだぞと鋭く釘を刺すのだ。そしてあのラストシーン。カビリアは人間ならざる神聖な微笑を明確にカメラへ、つまり我々へ向ける。登場人物の人生を都合よく覗き見する天窓としてのカメラは彼女の聖性によって決定的に見破られる。スクリーンの中のカビリアと目が遭ってしまったあの瞬間の胸のざわめき。己の冷笑的な映画鑑賞スタイルを暗に非難されているようで居心地が悪かった。本当にすごい映画だった。
カビリアだってダメ人間
カビリアは気の毒だった。さすがに、騙される方が悪いなどということはないでしょう。このオスカーという人には、正直私だって騙されそう(でも少しくらいの疑いは最後まで捨てないだろうけれど)。
ても、カビリアって、川に落とされた自分を助けてくれた人々にきちんとした感謝の言葉は返せないし、自分を心配して現実的アドバイスをしてくれる女友達に悪態をつく。彼女は、悪い人間じゃないけれど、心がけが良い人とは言えない。
まぁ、そんなところがこの映画の興味深いところでもあるけれど。登場人物たちは欠点も弱い面も持つわけで。
教会での場面でも、彼女も人々も雰囲気に呑まれ、いつの間にかひれ伏してしまっている。弱く、単純な人間たち。
そんな不完全な人間たちが悲劇を織りなす。
最後にカビリアが見せる笑顔は、何なのだろう?
もしかしたら、騙されたのではなく、言わば愛情を持って人を助けたのだ、というような心境になれたのか?(私には到底なれないと思うけれど)彼女は精神的には前とは別の次元に登りつつあるのか。
とりあえず、そういうことにしておこうと思う。
フェリーニ監督は薄幸の女性を描くのがうまい
天真爛漫な性格の娼婦を、「道」のジュリエッタ・マシーナが演じているが、性格の異なる役柄を上手くこなしている。
騙されても騙されても信用してしまう主人公、最後も結局は騙されてしまうのは観ているほとんどの人は想像できたと思う。フェリーニ監督のすごいところはその後である。若者たちの集団に出会ったことと、それを見た主人公は騙されても明るく?楽しく生きていこうという決意のやや微笑みかけた表情のアップである。人生、嫌なことがあっても、楽しいこともあるさ・・・とでも言っているような表情だ。
あと気になったのが、途中のエピソード・・・有名俳優の豪邸に招かれたり、慈善活動家や托鉢をしている神父との出会いがあったが、その後にまた登場するのではないかと思ったが、結局それっきりだった。特にそのエピソードがなくても話の流れには直接関係はなかった。何の意味があったのだろうか?人と人との出会いは一期一会ということか。人にはそれぞれの生き方があるということだろうか。
あと興味深かったのは、主人公の家がまだ未舗装道路が多い開発途中の広々としたところにポツンと立っていて、この映画が作成された1957年当時の都市郊外の様子がよくわかる。多分、日本も同じような状況だったのだろう。そういう視点で観ても面白かった。
ただ、名作ではあるが、「道」のような感情を大きく揺さぶられるような感動とまではいかなかった。
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