劇場公開日 2021年10月16日

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「「人間の認知のズレ」を  虚構と現実の境界で描く」オリーブの林をぬけて neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5 「人間の認知のズレ」を  虚構と現実の境界で描く

2025年11月15日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

アッバス・キアロスタミ監督による“コケール三部作”の最終作である『オリーブの林を抜けて』は、三部作の中でももっとも軽やかで、そしてもっとも複雑なメタ構造を持った作品だと感じました。前作『そして人生はつづく』に続き、今回も“映画の中で映画を撮る”という二重構造が採用されており、何が現実で何が演出なのか、観客の認識が揺らぎ続ける独特の映画体験になります。

まず印象的なのは、1作目『友だちのうちはどこ?』の主人公アハマドくんが、本人役のまま“ちょい役”で登場する点です。前作では地震後の村でアハマドくんを探し続ける物語が描かれましたが、その中では彼の安否は明確に示されないまま終わりました。しかし本作では、あっさりとアハマドくんが撮影を手伝う姿が映し出されます。つまり、2作目を撮っている時点で彼はすでに無事だったという後知恵的な事実が提示され、虚構と現実の境界線がさらに曖昧になります。前作の“裏側”が一部見えてしまうような構造であり、ほんの数秒のカットが三部作の解釈を大きく揺さぶるところに、この監督の仕掛けの巧妙さを感じました。

物語の中心となるのは、前作で「震災の翌日に結婚した」と語っていた青年ホセイン(ホセイン本人が本人役で出演)です。ホセインは今回、撮影の相手役としてキャスティングされた少女に本気で恋をしていて、撮影のたびに求婚を繰り返します。しかし少女は終始ホセインを無視し続け、一切の返事をしません。観客には早い段階で「彼女はホセインに興味がない」という事実が見えているのですが、当のホセインはその“沈黙”を理解せず、理由を貧しさや社会的条件に求め続けます。

彼は「自分は家がないから結婚できない」「文字が読めないから相手にされない」と考えますが、本当の問題はそこにはありません。それでも彼は、その事実を直視しないまま、撮影の合間にも少女の祖母に結婚の許可を求めに行ったり、監督役に相談したりと、とにかく自分の思いだけを暴走させていきます。この“都合の悪い現実を認識しない”という構造は、まさに自己欺瞞そのものです。若い男性が恋愛の場面で陥りがちな思い込みの典型であり、滑稽でありながら痛々しくもある姿です。

興味深いのは、キアロスタミがこうしたホセインの自己欺瞞を“悲劇”として描かず、むしろコントのような軽やかさで笑いに変換している点です。撮影が何度も止まって同じ台詞が繰り返され、ホセインは延々と求婚を続け、少女は沈黙を保ち続ける。このループが、人生の不器用さと滑稽さを見事に映し出します。貧困や婚姻制度といった社会的背景も作品に深さを与えます。イランの田舎では「家がなければ一人前と見なされず結婚できない」という制度があり、ホセインもその価値観を当然のものとして受け止めています。しかし、彼の論理はどこか素朴で、「貧乏な男と金持ちの女が結婚すれば家が持てるのだから、それが一番いいんじゃないか」と真剣に語り、監督に軽く笑われる場面さえあります。

そしてラストのロングテイク。撮影が終わり、少女が林の向こうへ帰っていく姿をホセインが追いかけるシーンは、本作で最も美しく、最も切ない瞬間です。遠景で映されるふたりの距離は縮まらず、やがてホセインは諦めて引き返します。これは“叶わない恋”という以上に、私たちが持つ認識と現実の間の距離、すなわち「他者の心には永遠に届かない」という普遍的な真実を静かに語っているように思いました。

全体として、本作は“虚構と現実”“恋と沈黙”“自己欺瞞と軽やかな笑い”というキアロスタミらしいテーマが美しく融合した作品です。貧しい青年の不器用な恋は滑稽でありながら、どこか愛おしくもあります。人生の哀しみと可笑しみを、ここまで優しく、ここまで自然に描ける監督はほとんどいないと思います。三部作の中でも特に味わい深い一作でした。

鑑賞方法: シネフィルWOWOWの録画

評価: 88点

neonrg
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