「台湾、日本、アメリカ」台北ストーリー 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
台湾、日本、アメリカ
アリョンは大いなる外部としてのアメリカに憧憬を抱いている。無機質で陰鬱とした台湾を抜け出すことが、自身の人生に何らかの好転をもたらすのではないかと考えたのだ。
一方で主人公のガールフレンドであるアジンは台湾から離れようとしない。経済成長の真っ只中にある当時の台湾においてはまだまだプリミティブな差別意識も根強く、彼女もまたその犠牲者の一人だった。しかし彼女は地理的な横移動に解決を求めようとせず、あくまで内部からの変革を目指し続けた。
とはいえアリョンとアジンの関係は単純な二項対立に終始しない。というのも、アリョンの心境には大きな揺らぎがあるからだ。
彼は国外逃亡を画策する一方で、友人や親族といった土着的価値を完全に捨て去ることができない。貧乏な友人にお金を渡したり、アジンの父親に多額の融資をしたり、内輪的なものに対してはやけに寛容な態度をみせる(そしてそのせいで経済的に破綻する)。
アリョンにとってアメリカとは、おそらく理想の終着駅である。そこではすべてが思い通りになる。彼の義兄が白人専用居住地に一軒家を構えたように。
しかしそこへ辿り着くためには、非アメリカ的なものは一切合切放棄する必要がある。けれど彼にはそれができない。どっちつかずな彼の態度は、彷徨の果てに日本へと不時着する。
80年代といえば、日本が世界で最も存在感を誇示できていた時代だ。アメリカの次に勢力のある国はどこかと問われれば、おおかた「日本」という答えが返ってきたことだろう。
アメリカに次ぐものとしての日本。このとき台湾は日本よりさらに下位に置かれることとなる。そして台湾がアメリカに肉薄しようと思えば、日本を超越しなければならない。土着的価値を捨てきれないアリョンは、したがってアメリカまでは手が届かず、日本で行き詰まる。
富士フイルムの巨大な電光掲示板、テレビに映る日本のCM、演歌の流れるカラオケボックス。それらの光の彼方にはアメリカの影が投射されている。アリョンはそれを追い求める。しかしそれはしょせん幻だ。日本はどこまでもアメリカの未完成形であり、経由地点に過ぎないのだ。
話は逸れるが、台湾・香港は自国がサイバーパンク的なある種のオリエンタリズムによって消費されていることにきわめて自覚的な国だと思う。日本の『AKIRA』『Ghost in the shell』はアジア=サイバーパンクのイメージを全世界に根付かせた元凶であるし、アメリカがそういった単純なイメージを消費・再生産する側であることは『ブラック・レイン』『オンリー・ゴッド』などからも明白だ。
一方でエドワード・ヤン『恐怖分子』、あるいはウォン・カーウァイ『恋する惑星』『天使の涙』、ツァイ・ミンリャン『楽日』あたりは自分たちが世界からどう消費されているのかを自覚したうえでサイバーパンク的文脈を展開している感じがある。
殊に本作はその傾向が強く、なおかつそれが作品の主張とも繋がる。アリョンが夢見るアメリカが幻想であるようにアメリカが夢見るサイバーパンク都市「アジア」もまた幻想に過ぎないのである、ということを、本作は台北の過度なサイバーパンク的描画によってアイロニカルに暗示しているのだ。
話が逸れてごめんなさい。
そういえばアリョンが少年期に野球チームのエースだったという設定も、アメリカ→日本→台湾というヒエラルキーを如実に喩えている。野球というスポーツにおける最終地点もまたアメリカのメジャーリーグだ。
結局、アメリカに辿り着くことが経済的にも精神的にも不可能であると悟ったアリョン。浮気相手と日本で落ち合うくらいが関の山だと悟ってしまったアリョン。彼が誰もいない路上で恋敵に刺され、そのまま命を落としたことは物語的必然といえるだろう。
一方でガールフレンドのアジンは、当時の台湾に内在的な諸問題(差別、リストラ等)に悩まされつつも、最終的には女上司と共に新たな会社を興す。台湾という土地に絶望しながらも、最後まで逃避という選択肢を選ばなかった彼女の粘り勝ち、といったところか。(そういえばソン・インシン『幸福路のチー』も同様のテーマだったことを思い出した。)
ただ、アジンのこれから先の人生に明るい展望が拓けているかといえば、そうとは言い切れない気がする。アジンが曇天の摩天楼から眼下の道路を見下ろすラストシーンに、私は強烈な不安のイメージを感じた。そしてその道路はたぶん、アリョンが事切れたあの峠道にも続いているはずだ。