劇場公開日 2021年10月17日

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「語る を信じること」桜桃の味 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0語る を信じること

2022年1月14日
iPhoneアプリから投稿

自殺の協力者を探すバディは道行く人々に声をかける。しかし人々は彼の願いの内実を知るなり踵を返してしまう。なぜ彼の願いは聞き入れられないのだろうか?

もちろん、そこには倫理的な抵抗感という素朴な理由がある。自殺幇助もまた部分的には殺人と大差がなく、できればそんなことには加担したくないのが人情というものだろう。

しかしそれだけではないと私は考える。思うに、バディにはある決定的な欠陥がある。それは語りへの不信だ。彼は協力者候補たちに「君しかいないんだ」とさも必然や運命があるかのように語りかけるが、もちろんそれは急場凌ぎの方便に過ぎない。

バディは自身の抱えた苦痛や絶望について何一つ語ろうとしない。スクリーンの中の登場人物に対してだけでなく、それを見ている我々に対してさえ何も教えてくれない。漠然と物悲しげな雰囲気を漂わせているだけだ。

また、彼のコミュニケーションには概してプロセスが欠如している。バディが自殺を仄めかすと、協力者候補たちはさまざまな観点からそれを否定するが、彼は「御託はいい」とそれを遮る。聞こうともしない。

なぜ彼は自分のことを語ろうとしないのか?他者の話を聞こうとしないのか?語りの力を軽視しているからだ。自分が何事も語らないことと、他者に何も語らせないことは表裏一体の行為である。

しかし語りとは人間の本質の一つだといっていい。語りが、物語がなければ人は人として生きていくことができない。協力者候補たちが彼の申し出を断ったのは、彼が人としての精彩を欠いた冷血漢に思えたからなのではないか。

平たく言えば、バディは人間をナメている。そういう人の手助けをしようと思えるかといえば、それは難しい。いくらお金を積まれても。いや、むしろお金を積まれるからこそ。

しかし最後には彼に救いの手が差し伸べられる。博物館で働く老父だ。彼はバディを見捨てることなく、語りの持つ力を彼に再び示そうとする。彼の語りはどこまでも恣意的で個人的だが、力強さがある。バディは彼の話を無視し続けるが、それでも彼は語ることをやめない。すると論理を超えた何かー「何か」としか形容できないーが二人の間に立ち現れる。そして実際、バディの心境には変化が兆しはじめる。

バディの変調に沿うように、きらびやかな夕日が画面いちめんを満たしていく。無味恬淡に思えた農村の光景が、実はドラマチックな精彩を秘めていたことが判明する。バディもまた老父やそれまでの登場人物たちと同様に、どうしようもなく「人間」なのだということが、情景描写を通じて示される。

この辺りのシーンの何がすごいかといえば、ラストカットに至るまでBGMが一切流れないことだ。そんなもので映像を糊塗する必要はまったくないのだという、監督の人間に対する信頼の強さが表れている。

バディが結局どのような選択をしたかについては最後まで明かされない。そこに本質はないのだから、こういうオープンエンドな終わり方でいいと私は思う。

ラストカットのメタ描写(この映画の撮影班のオフショット)には短絡的との批判もあるだろうが、私はもう少し肯定的に捉えたい。

誰も彼もがのびのびと雑談に耽っているさまは、バディが映画内で絶えず味わわされる緊張とは真逆のものだ。つまりラストカットは今際の際に彼が空想した儚い夢だと解釈することができる。しかしそれはこの映画を見ている我々にとってはむしろ現実の光景である。バディはスクリーンの外側にいる我々を羨んでいるのだ。

こういう描写は監督の才智が勝ちすぎていると一気に興が醒めるものだが、アッバス・キアロスタミの場合はあくまでヒューマニズムが万物の底流を成しているからそういう感じがしない。彼の映画においては、トリッキーな演出もまたヒューマニズムの一形態なのだ。

因果