桜桃の味のレビュー・感想・評価
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少し開いた車の窓。
〇作品全体
自殺の手助けを探し続ける主人公・バディと、それを断る同乗者たち。砂埃が舞う禿げた山を運転しながら手助けを求め続けるバディの姿が、もはや絶望的な風景だ。なぜ自殺したいのかを語らない時点で同乗者たちになんの力もないことがわかってしまって、一刻も早く車から降りたいと考える同乗者たちの気持ちと、必死に手助けを願うバディの乖離が長々と続く。このやりとりの閉塞感とシンクロさせた演出が「車の窓」だったように感じた。
ファーストカットから車の窓は印象的に映る。バディ越しに運転手側の窓を映したり助手席側の窓を映し、人を吟味するバディの目線を表現する。とても小さく映る外の世界と外の人物。車内の景色が大きく映る分、外の世界と隔絶された雰囲気やバディの感情的な視野狭窄を感じさせる。
ドライブしながらの同乗者との会話も人物と奥の窓を映すカットが多くの時間を割いている。窓の外で流れていく景色と、停滞した社内の空気感。同乗者の「関わらなければよかった」という感情とバディの陰鬱な感情に支配された車内の息苦しさを強調しているように見えた。
最後に同乗した剥製師の男は、一つの動機から死を望んだ結果、他にある人生のさまざまなものを味わえなくなってしまうことを語る。ここでもバディはなにも語らず、剥製師の男の話を聞いているだけだ。しかし男と別れてすぐ、バディは再び男に会いに行き、もはや自殺はやめたと言わんばかりに明朝の行動に追加オーダーを出していく。
同乗していたときには車の窓の映し方に変化はなかったが、男が降りた後に変化がある。観光客の女性に記念撮影をお願いされ、バディは少しだけ窓を開ける。外の空気が入り込んできた車内と、剥製師の男の話によりバディの心の中に差し込んできた希望の空気がここで重なって見えた。
その後、バディは穴から夜空を見上げる。雲が流れ、時折月が見える。雲しか見えないときは真っ暗だが、月が見えれば光も差す。時間の移ろいとともに変化する光のように、人生も時間と共に光陰が異なる。そんな印象を受けた。
最後は映画の撮影風景で作品が終わる。草花が生い茂った山と登場人物の笑顔が印象的だ。フィクションの世界では陰鬱に見えるバディや禿山も、映画という世界から抜け出せば違うものになる。そこには「一点だけを見つめ続けるな」というメッセージがあるような気がした。
〇カメラワークとか
・定点的な車内のカメラと山の頂上のほうから車をフォローパンするカメラが印象的。車内のカットはやはり停滞のイメージを感じる。フォローパンするカメラは車とかなり距離感がある。明確ではないものの徐々に変わりつつあるバディの心象風景のようにも見えた。
◯その他
・キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ?』では人物の心の機微を目線や環境音で表現していたけれど、本作はそういう部分をあえて隠しているような気がした。バディが死を望む理由を隠しているからだろうか。
・中東の景色ってニュースで見る戦争中の景色の印象が強いから、平穏な景色を見せられるだけで興味をそそられてしまう。当たり前なことだけど、そこで生活している人がいて、生活する空間があることを認識させられた。
最後まで見れなかった。
感想メモ
良い話だった
また見たい
自殺を考えている男バディ、お金を渡す代わりに自殺を手伝って欲しいと道行く人に声をかける
自殺の方法が独特、睡眠薬を飲んで穴の中に入り、翌朝穴の中に呼びかけ、返事があれば穴から出るのを助ける、返事がなければそのまま土をかけるというもの
自殺するなら方法はいくらでもあると思うが、こういうまどろっこしい方法をとる時点で死ぬのを止めて欲しいのかな、と感じる
自分を殺すのは罪?
不幸なことは罪?不幸故に周りの人を傷つける
剥製士の男、死に意味を成す仕事
私は桑の実を取ってきて、死を置き忘れた
体中の何処を触っても痛い、それは指を怪我しているから、考え方を変えろ
イランにも四季はあるのか
最初の方文字が訳されていなくて分からなかった
土から全てが生まれる、穴の中に入るのは生まれ変わりの儀式的な意味を持つ?
映画の素晴らしさ
アッバス監督独特の、会話で成り立つ映画
神の教えに背いて自殺を図る主人公が、その協力者を求めていく寓話的物語
若者は、そんな内容の仕事は受けられない、嫌だ、と断り
神学生は、神の教えに背くことに協力する事はできない
そのような事は神は望んでいない、と自殺を辞めるよう解く
老人は、息子の治療のために報酬が欲しいので応じる、と言いながら、自分の過去の経験から、人生でやりたいことを見つけ、明日の朝を迎えるために生きるべきだと解く
自殺の意思の硬かった主人公だが、少し、老人の話には共感したのだろう
そして通りすがりのカップルにフィルムカメラのシャッターを押すように頼まれて。。。その後に自殺を踏みとどまる方向に気が向いていく
人の喜びを撮影する喜びを得たのだろう
自殺の計画は実行されたように見えたが、未遂に終わったのだろう
ラストシーンでは、彼が自殺しようとした地で、映画を撮っているシーンで終わる
監督自身が映画を撮ることに生きる価値を見出しているのだ、というメッセージを受け取った用に感じ、とても暖かい気持ちになった
映画って、いいよね。。。
タイトルなし(ネタバレ)
劇伴がなく環境音のみが響き、車がイラン郊外を走る風景と車内の会話が中心。
死にたがりの主人公は、自殺を手伝ってくれる人を探すが怖がられたり諭されたりして断られる。
最終的に出会った老人は、それまで車に乗せた人たち違って画面が変わって気がついたら車に乗っているので、主人公の妄想の都合の良い夢や幻想の人物の様にも見える。最後まで見ると、主人公は死にたいのではなく人生に意味を見出すための物語が欲しかったのかと思った。人生に意味などないのが真実かも知れないが、今は人生が無意味に見えたり絶望に苛まれているかもしれないないが、生きていれば案外良いことが起こるかもしれない。と語りかけてくる様な映画。
最後のシーンは映画撮影のドキュメンタリー映像が突然流れ出し行進していた兵士達も主人公もにこやかな雰囲気でくつろぐ姿が写っていて
人生が映画だとしたら、もし終わらせたいと思ったタイミングがあっても続きを撮って欲しい。
あとで観たら良い映画になるかも知れないよと言わんばかりだ。
目の前で自ら人生を終わらせたいと思っている人がいたとすれば、親しくない人でも
できれば生きてほしいと思う一方で突き詰めて考えるとその人が心の底から死を願うのを止める権利はあるのだろうかと思ってしまう私にとって
この映画のできれば生きてみてほしいとゆう控えめな願いが優しく見えた。
イラン映画といえば、今ことごとく
社会問題を扱った作品を撮った制作チームが国外へ逃げているイメージがある。
この作品は、社会問題や政府の批判を描いていないので監督は国内で活躍できているのかもしれないが
この物語の背景にはイランで生きる人々の生活が写されていて、人々を描くことでイランの社会が写しだされているように思った。
配信で鑑賞
人それぞれの「桜桃の味」
「桜桃の味」はイラン映画だ。だからどうした、と言われればそれまでなのだが、まだ血気盛んな生意気盛りの頃、イラン映画を観て「何だかよくわからなかった…」と意気消沈した記憶がある。というか、そんな記憶しかない。
そんな私だから「桜桃の味」を観よう、という運びになって感じたプレッシャーは並大抵のことじゃない。趣味なんだから、重圧を感じるくらいなら観なきゃいいのに、おかしな話ではある。
結果から書くと普通に、いや思ってた以上に面白かった。そしてそれは「桜桃の味」という映画が持つメッセージともシンクロした体験だった。
自殺を助けてくれる人物を求め彷徨うバディ。狭い車中と土埃の立つ剥き出しの山道。閉ざされた世界と荒れ果てた風景。
最初に車に乗せたクルド人兵士は逃亡し、次に乗せたアフガニスタン人神学生とは山中の小屋で別れた。二人に協力を断られた後、どうやらトルコ人の老人が手伝いをしてくれるらしく、バディの車は彼を送り届ける為に街へと向かう。
このゲバリという老人が登場して、映画は大きく転換する。
有り体に言えば、ゲバリの話を聞くうちバディの心に変化が訪れるのだが、その演出が良い。
乾いた不毛の世界から生命力溢れる街へとナビゲートする道のり。
二人を乗せた車は樹のある方へ、花のある方へ、家のある方へと進んでいく。全面荒れ果てた世界だと思っていたのに、よく見れば世界は枯れてなどいなかった。
カップルに写真を頼まれたバディは、運転席の窓ガラスを5センチほど更に開ける。たった5センチ広げるだけで二人の笑顔が、満開の花壇をバックにはっきりと目の前に現れるのだ。
ほんのちょっと視野を広げただけで、世界は美しい事に気づくことが出来る。
映画に対する心構えも同じ。「難解だ」という色眼鏡を外して、ほんの少しおおらかな心で臨めば、見えていなかった美しい映像が物語の世界に連れていってくれる。
私にとっての「桜桃の味」とは、どうせわからないからと諦めていた映画に、本来の映画を観る楽しみを思い出させてくれた体験なのだ。
蛇足な上に掘り下げきれないのだが、イラン映画には「政府批判」が織り込まれていることが多い。冒頭の職を求める働き盛りの男性の多さは、イランが抱える問題をさりげなく写し込んでいるのだろう。
バディにイラン男性の証とも言える「髭」がないのは、完璧を求める事への疲弊や、イランの現状が完璧たり得ていないことの現れのようにも思える。
クルド人やアフガニスタン人に協力してもらえない、というのもイランにイスラム国家の盟主としての魅力がない、という批判のようでもある。
「桜桃の味」の裏テーマを読み解けるようになるためには、もっと視野を広げる必要がありそうだ。
オラの理解の枠外だ
レンタル110
いつもの映画館でこの監督の特集上映をしていたことがあって
タイトルを覚えていた 一定レベル以上の内容だとの推測で手に取った
でその通りではあった タイトルの意味もちゃんと描かれていて共感できる
しかし… 暗闇から転じたラストシーン ん オラの理解の枠外だ
それまでと異なるビデオのようなざらついた画面
主人公らしき人物が映りこんでいる 兵士の行進 テレビ撮影
主人公はテレビのディレクターなのか
暗闇と雨までのくだりはその後起こったことなのか
ちょっと何言ってるかわからない レビューに頼ろう
単調な画面に引き込まれたことは間違いない
何の予備知識も持たずにこの作品に出会えたとは思えないが
友だちのうちはどこ も観てみたい
清水義範のエッセイで紹介されていたと思う
合わなかった
穴の中から見上げる月
テーマは、「宗教倫理」と「金」と言うか、恐らく「資本主義社会の価値観」。イスラムの教えに縛られて身動きが取れない穴の中から見上げる空に浮かぶ月が象徴するもの。
1997年のパルムドール受賞作で巨匠キアロスタミの脚本&監督作品。無駄な演出無し、リアルタイムな時間感覚と言う作風は変わらず。
でも、これは、かなり詰まらないw
ある男が自殺を踏みとどまるまでの数時間の物語り。原題は「神の名の下に」と言う意味らしく。登場人物は、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人、とイラン人。キアロスタミの意図を感じます。コーランが禁じる自殺を誰も手伝いたがりません。
仕事を頼みたい、の言葉は、どんな秘密を抱えているのかと興味を引きます。自殺を手伝う者を探すパートでは、穴に何かの秘密が?と、コレまた謎かけになってて、興味を引きます。
ところがですね。
ネタバレて行く過程で、どんどんテンションが下がって行く自分がいます。男に自殺を踏み留まらせる件などは、そんだけで?って思いました、正直なところ。ラストも中途半端だし。老トルコ人は、あの穴まで本当に向かうと思う?
少なくとも、これはキアロスタミにとってピークじゃ無い、ってのは思いました。
語る を信じること
自殺の協力者を探すバディは道行く人々に声をかける。しかし人々は彼の願いの内実を知るなり踵を返してしまう。なぜ彼の願いは聞き入れられないのだろうか?
もちろん、そこには倫理的な抵抗感という素朴な理由がある。自殺幇助もまた部分的には殺人と大差がなく、できればそんなことには加担したくないのが人情というものだろう。
しかしそれだけではないと私は考える。思うに、バディにはある決定的な欠陥がある。それは語りへの不信だ。彼は協力者候補たちに「君しかいないんだ」とさも必然や運命があるかのように語りかけるが、もちろんそれは急場凌ぎの方便に過ぎない。
バディは自身の抱えた苦痛や絶望について何一つ語ろうとしない。スクリーンの中の登場人物に対してだけでなく、それを見ている我々に対してさえ何も教えてくれない。漠然と物悲しげな雰囲気を漂わせているだけだ。
また、彼のコミュニケーションには概してプロセスが欠如している。バディが自殺を仄めかすと、協力者候補たちはさまざまな観点からそれを否定するが、彼は「御託はいい」とそれを遮る。聞こうともしない。
なぜ彼は自分のことを語ろうとしないのか?他者の話を聞こうとしないのか?語りの力を軽視しているからだ。自分が何事も語らないことと、他者に何も語らせないことは表裏一体の行為である。
しかし語りとは人間の本質の一つだといっていい。語りが、物語がなければ人は人として生きていくことができない。協力者候補たちが彼の申し出を断ったのは、彼が人としての精彩を欠いた冷血漢に思えたからなのではないか。
平たく言えば、バディは人間をナメている。そういう人の手助けをしようと思えるかといえば、それは難しい。いくらお金を積まれても。いや、むしろお金を積まれるからこそ。
しかし最後には彼に救いの手が差し伸べられる。博物館で働く老父だ。彼はバディを見捨てることなく、語りの持つ力を彼に再び示そうとする。彼の語りはどこまでも恣意的で個人的だが、力強さがある。バディは彼の話を無視し続けるが、それでも彼は語ることをやめない。すると論理を超えた何かー「何か」としか形容できないーが二人の間に立ち現れる。そして実際、バディの心境には変化が兆しはじめる。
バディの変調に沿うように、きらびやかな夕日が画面いちめんを満たしていく。無味恬淡に思えた農村の光景が、実はドラマチックな精彩を秘めていたことが判明する。バディもまた老父やそれまでの登場人物たちと同様に、どうしようもなく「人間」なのだということが、情景描写を通じて示される。
この辺りのシーンの何がすごいかといえば、ラストカットに至るまでBGMが一切流れないことだ。そんなもので映像を糊塗する必要はまったくないのだという、監督の人間に対する信頼の強さが表れている。
バディが結局どのような選択をしたかについては最後まで明かされない。そこに本質はないのだから、こういうオープンエンドな終わり方でいいと私は思う。
ラストカットのメタ描写(この映画の撮影班のオフショット)には短絡的との批判もあるだろうが、私はもう少し肯定的に捉えたい。
誰も彼もがのびのびと雑談に耽っているさまは、バディが映画内で絶えず味わわされる緊張とは真逆のものだ。つまりラストカットは今際の際に彼が空想した儚い夢だと解釈することができる。しかしそれはこの映画を見ている我々にとってはむしろ現実の光景である。バディはスクリーンの外側にいる我々を羨んでいるのだ。
こういう描写は監督の才智が勝ちすぎていると一気に興が醒めるものだが、アッバス・キアロスタミの場合はあくまでヒューマニズムが万物の底流を成しているからそういう感じがしない。彼の映画においては、トリッキーな演出もまたヒューマニズムの一形態なのだ。
ラスト寸前までは、完璧!
本当にラスト寸前まで、何もかもが全て完璧だった。
もう本当に挙げ出したらキリがないほど素晴らしい要素で溢れていた。
構図、カメラの動き、役者のタイム感、あまりに自然な芝居、素晴らしい台詞の数々、少しずつ徐々に出口へと向かって行く無駄のない的確なプロット、そして台詞の無いシーンも映像それ自体が充分と語りかけてくる。
特に自殺願望ゆえに、近視眼的なカメラワークがずっと続いていた後、主人公に心境の変化が訪れた直後、あの青い空に白い飛行機雲が現れ(その前の天国の門のような学校のゲートから予感はあったが)まさに心の視界がフワーと広がった瞬間は、
「これは今、本当にとんでもない映画を観てしまっているぞ」という感慨で一杯になってしまった。
いつでも死という出口(あるいは来世への入口?)を自分で選択する事が本当に実現可能となると、今度は生きるという選択の可能性も、急に広がってしまうという、まさにこの逆説。
これをここまで見事に表現できた映画があっただろうか?
一体どんなラストが待っているのか?
もう否応もなく、久々に相当ハードルが上がってしまったのだが……
しかし、アレはチョットねえ……
かなり意表を突くラストということは、最初からわかってはいたが……
それにしてもねえ……
いやあ〜 いやあ、わかるよ。わかる。監督の言いたいことは良くわかる。
「所詮これは映画。俺たちは撮影で春を満喫しているぜ。今これを観ている君達はどうなんだ?生きるのか?死ぬのか?どっちなんだ?」と突然ボールをこちらへ投げてみたくなったのは良くわかる。
でもなあ、そういうの妙に説教っぽく、チョットなんとも引いてしまったなあ。
まあ、おそらく検閲が厳しいイラン当局(自殺モノは特に)へのカモフラージュというか「イヤ、イヤ、イヤ、これタダの映画ですから」という作戦でもあったとも思うが。
実際、キアロスタミ自身、インタビューにおいても、観客が完全に受動的になるようなストーリーの映画には全く関心がなく、映画とは観客が能動的に関わって完成するものだから、そのための仕掛けも作っておく必要があるというような事を言っていたが、しかしそれは、あまりに観客の映画リテラシーを軽視しているようにも思える。
どんなストーリーの映画にも(単純でも複雑でも典型的でも)そこで観客が発見するリアルは100人が観れば、100通りのリアルがある訳だし、共通項は有るにせよ、まずそこに全く同じ真実は無く、そこには必ず何らかの能動的な心の動きがあるのだから。
その部分まで、作家が敢えてワザワザと介入してくるというのも、おせっかいが過ぎると思う。
観客が自由に解釈できる余白を作ること自体は良いと思うが、今回のような所謂「第4の壁」を破るようなフッテージは蛇足だったと思う。
まあ、こればっかりは、観る人次第か。
ちなみにイランの春には、雨が良く降るらしく、どうしてもラストにおける春のイメージには雨が必要だったみたいで、それで主人公は夜空を見上げ、雷を聞きながら、春の雨に打たれラストを迎えた訳だが、
そんなん言われなきゃ、外国の人間にはわからんよな。
せっかく夕方の飛行機雲の登場で、心の視界は広がっていたのだから、雲の隙間から現れる月の光は車から降りた直後に見せて、寝転がって見る夜空は、雷雨が去った後、すっかり晴れ渡った大宇宙に広がる星空にして欲しかったな。
そっちの方がずっと普遍的だし。
そして、その状況で主人公は、死ぬことも生きることも、どちらも自由に好きな方を選択できることに深い感銘を覚え、
そこで、改めて満天の星空を見上げて、
「なんて、生きるということは、自由な選択と可能性で溢れているんだ…」といったような余韻(勿論イメージだけで台詞は無し)でもって、やはりオープンエンド&ミニマムに終わって欲しかったな。
この映画の公開時、かつて「鬼火」を撮ったルイ・マルは、もう亡くなっていたと思うが、観ていたら、何とコメントしただろう?気になるところだ。
あと、開始10分ほどから真っ黒い画面に赤いペルシャ語が暫く続いたが、字幕が全く入らなかった。たぶんスタッフのクレジットだと思うが、あそこで字幕を全く入れないのは不親切というものだ。
ストーリーに関わるキャプションかも?と思えたので、アレは未だにモヤモヤ気になってしょうがない。
とまあ、あまりに意表を突かれ過ぎて、本当に色々と考えさせられてしまった。
これも監督の作戦?
とにかく、この映画、また何度も観たくなるだろうし、これから歳を重ねて行くごとに、間違いなくボディブロウのように深く効いてくる作品だと思う。
う〜ん、時間泥棒か?
「友だちのうちはどこ?」も、たかだか2、3㎞の村や森の中を行ったり来たり・・・
こちらも、ひたすら(多分)2、3㎞の風景の中を行ったり来たり・・・
見終わって、しばし、いや、これからもずっと、言葉がない・・・
う〜ん、これは、私の時間泥棒か・・・
クルド人の若い兵士の運転席側からの横顔が美しい。
アフガン人の神学生の、黒い瞳と、黒い眉と、黒々とした髭が美しい。
友だちのうちを探す少年の瞳が美しい。
みんな死ぬことの、本当の怖さを知らない若さ、というか、それこそが、美しい。
生の頂点から、死に向かう坂道を転げ落ちるような頃から、美しさは、それこそ、死の怖さと引き換えのように、はがれとられていく。
あえて言えば、そんな感じか、私にとっては・・・
美しいものは、やっぱり美しい。
それにしても、やはり、アッバス・キアロスタミ監督は、馬鹿な私のような人間には、非常に意地悪で、狡猾な、時間泥棒としか言いようがない。
土埃
【”君はもう美しい夜明け、星空、夕陽を見ないのか。泉の水を飲まないのか。桜桃の味を忘れてしまうのか・・。”命の大切さを淡々と、けれども心に染み入るトーンで観る側に問いかけてくる、見事な映画である。】
ー 序盤から、中年男は砂埃舞う九十九折の山道を、独り車を走らせる。
そして、3人の男を次々に車に乗せ、”ある願い事”をする。ー
<Caution ! 以下、内容に触れています。>
1.クルド人少年兵に男が言った言葉
”20万トマン渡すから、朝、穴の中の私に”バディさん、バディさん。朝が来た・・”と、呼びかけて欲しい。応えなかったら、シャベルで土を掛けて欲しい・・。”
”銃とシャベルと何が違うんだ。”
男の奇妙な問いかけに戸惑い、逃げ出す少年兵。
ー 会話の中で、クルド人問題にも、やんわりと触れている・・。ー
2.アフガン戦争から逃れてきた、アフガン人の神学生の青年との会話
自殺について語るバディ。だが、その理由には言及しない。
答える神学生。”コーランには、自殺は誤りだ、と書かれています。”
ー 現在、アフガニスタンを再び支配したタリバンは、多くのアフガニスタンの民に何を強いてきたか。自爆テロは、”ジハード”と言う名を借りた自殺教唆ではないのか!
そして、バディが自殺の理由を口にしないのは、故アッバス・キアロスタミ監督がどのような理由であろうとも、自殺全般を否定しているからではないか?ー
3.トルコ人の老人、バゲリとの会話
老人は、且つて、自分も、自殺を考えていたと話し出す。
”縄を掛けようとした木に成っていた熟れた桑の実の美味さ。美しい夜明けの太陽、夕暮れを又見たくはないか。泉の水を飲みたくはないか・・。桜桃の味を忘れてしまうのか!”
ー 老人が自らの経験を基に語る、自然や人生の美しさを表現した、言葉のセンスの素晴らしさに唸る。そして、直接的に、自殺を止めるのではなく、間接的に自殺を止めようとする姿にも。ー
4.老人の話を聞いて、腕を組んで沈みゆく夕陽を見つめるバディの姿。
<ラスト、バディは”何故か”タクシーに乗って、九十九折の山道を登って行く・・・。
そして、画のトーンが変わり、故アッバス・キアロスタミ監督がスタッフたちに、撮影の指示をするシーンや、バディを演じた役者が映るシーンに切り替わる・・。
何とも、見事な作品である。>
人生の味
全29件中、1~20件目を表示