桜桃の味のレビュー・感想・評価
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人それぞれの「桜桃の味」
「桜桃の味」はイラン映画だ。だからどうした、と言われればそれまでなのだが、まだ血気盛んな生意気盛りの頃、イラン映画を観て「何だかよくわからなかった…」と意気消沈した記憶がある。というか、そんな記憶しかない。
そんな私だから「桜桃の味」を観よう、という運びになって感じたプレッシャーは並大抵のことじゃない。趣味なんだから、重圧を感じるくらいなら観なきゃいいのに、おかしな話ではある。
結果から書くと普通に、いや思ってた以上に面白かった。そしてそれは「桜桃の味」という映画が持つメッセージともシンクロした体験だった。
自殺を助けてくれる人物を求め彷徨うバディ。狭い車中と土埃の立つ剥き出しの山道。閉ざされた世界と荒れ果てた風景。
最初に車に乗せたクルド人兵士は逃亡し、次に乗せたアフガニスタン人神学生とは山中の小屋で別れた。二人に協力を断られた後、どうやらトルコ人の老人が手伝いをしてくれるらしく、バディの車は彼を送り届ける為に街へと向かう。
このゲバリという老人が登場して、映画は大きく転換する。
有り体に言えば、ゲバリの話を聞くうちバディの心に変化が訪れるのだが、その演出が良い。
乾いた不毛の世界から生命力溢れる街へとナビゲートする道のり。
二人を乗せた車は樹のある方へ、花のある方へ、家のある方へと進んでいく。全面荒れ果てた世界だと思っていたのに、よく見れば世界は枯れてなどいなかった。
カップルに写真を頼まれたバディは、運転席の窓ガラスを5センチほど更に開ける。たった5センチ広げるだけで二人の笑顔が、満開の花壇をバックにはっきりと目の前に現れるのだ。
ほんのちょっと視野を広げただけで、世界は美しい事に気づくことが出来る。
映画に対する心構えも同じ。「難解だ」という色眼鏡を外して、ほんの少しおおらかな心で臨めば、見えていなかった美しい映像が物語の世界に連れていってくれる。
私にとっての「桜桃の味」とは、どうせわからないからと諦めていた映画に、本来の映画を観る楽しみを思い出させてくれた体験なのだ。
蛇足な上に掘り下げきれないのだが、イラン映画には「政府批判」が織り込まれていることが多い。冒頭の職を求める働き盛りの男性の多さは、イランが抱える問題をさりげなく写し込んでいるのだろう。
バディにイラン男性の証とも言える「髭」がないのは、完璧を求める事への疲弊や、イランの現状が完璧たり得ていないことの現れのようにも思える。
クルド人やアフガニスタン人に協力してもらえない、というのもイランにイスラム国家の盟主としての魅力がない、という批判のようでもある。
「桜桃の味」の裏テーマを読み解けるようになるためには、もっと視野を広げる必要がありそうだ。
オラの理解の枠外だ
レンタル110
いつもの映画館でこの監督の特集上映をしていたことがあって
タイトルを覚えていた 一定レベル以上の内容だとの推測で手に取った
でその通りではあった タイトルの意味もちゃんと描かれていて共感できる
しかし… 暗闇から転じたラストシーン ん オラの理解の枠外だ
それまでと異なるビデオのようなざらついた画面
主人公らしき人物が映りこんでいる 兵士の行進 テレビ撮影
主人公はテレビのディレクターなのか
暗闇と雨までのくだりはその後起こったことなのか
ちょっと何言ってるかわからない レビューに頼ろう
単調な画面に引き込まれたことは間違いない
何の予備知識も持たずにこの作品に出会えたとは思えないが
友だちのうちはどこ も観てみたい
清水義範のエッセイで紹介されていたと思う
合わなかった
土埃が舞う道を運転してるバディは、人々に声をかけては、自殺を手伝って欲しいと依頼していた。クルド人の兵士もアフガニスタン出身の神学生も拒絶するが、老人バゲリは依頼を承知の上で、自分の過去についてバディに語り、てな話。
ここの評価は高いから私の感受性が低すぎるのだろうと思う。
訳わからず眠かっただけ。合わなかった。
穴の中から見上げる月
テーマは、「宗教倫理」と「金」と言うか、恐らく「資本主義社会の価値観」。イスラムの教えに縛られて身動きが取れない穴の中から見上げる空に浮かぶ月が象徴するもの。
1997年のパルムドール受賞作で巨匠キアロスタミの脚本&監督作品。無駄な演出無し、リアルタイムな時間感覚と言う作風は変わらず。
でも、これは、かなり詰まらないw
ある男が自殺を踏みとどまるまでの数時間の物語り。原題は「神の名の下に」と言う意味らしく。登場人物は、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人、とイラン人。キアロスタミの意図を感じます。コーランが禁じる自殺を誰も手伝いたがりません。
仕事を頼みたい、の言葉は、どんな秘密を抱えているのかと興味を引きます。自殺を手伝う者を探すパートでは、穴に何かの秘密が?と、コレまた謎かけになってて、興味を引きます。
ところがですね。
ネタバレて行く過程で、どんどんテンションが下がって行く自分がいます。男に自殺を踏み留まらせる件などは、そんだけで?って思いました、正直なところ。ラストも中途半端だし。老トルコ人は、あの穴まで本当に向かうと思う?
少なくとも、これはキアロスタミにとってピークじゃ無い、ってのは思いました。
語る を信じること
自殺の協力者を探すバディは道行く人々に声をかける。しかし人々は彼の願いの内実を知るなり踵を返してしまう。なぜ彼の願いは聞き入れられないのだろうか?
もちろん、そこには倫理的な抵抗感という素朴な理由がある。自殺幇助もまた部分的には殺人と大差がなく、できればそんなことには加担したくないのが人情というものだろう。
しかしそれだけではないと私は考える。思うに、バディにはある決定的な欠陥がある。それは語りへの不信だ。彼は協力者候補たちに「君しかいないんだ」とさも必然や運命があるかのように語りかけるが、もちろんそれは急場凌ぎの方便に過ぎない。
バディは自身の抱えた苦痛や絶望について何一つ語ろうとしない。スクリーンの中の登場人物に対してだけでなく、それを見ている我々に対してさえ何も教えてくれない。漠然と物悲しげな雰囲気を漂わせているだけだ。
また、彼のコミュニケーションには概してプロセスが欠如している。バディが自殺を仄めかすと、協力者候補たちはさまざまな観点からそれを否定するが、彼は「御託はいい」とそれを遮る。聞こうともしない。
なぜ彼は自分のことを語ろうとしないのか?他者の話を聞こうとしないのか?語りの力を軽視しているからだ。自分が何事も語らないことと、他者に何も語らせないことは表裏一体の行為である。
しかし語りとは人間の本質の一つだといっていい。語りが、物語がなければ人は人として生きていくことができない。協力者候補たちが彼の申し出を断ったのは、彼が人としての精彩を欠いた冷血漢に思えたからなのではないか。
平たく言えば、バディは人間をナメている。そういう人の手助けをしようと思えるかといえば、それは難しい。いくらお金を積まれても。いや、むしろお金を積まれるからこそ。
しかし最後には彼に救いの手が差し伸べられる。博物館で働く老父だ。彼はバディを見捨てることなく、語りの持つ力を彼に再び示そうとする。彼の語りはどこまでも恣意的で個人的だが、力強さがある。バディは彼の話を無視し続けるが、それでも彼は語ることをやめない。すると論理を超えた何かー「何か」としか形容できないーが二人の間に立ち現れる。そして実際、バディの心境には変化が兆しはじめる。
バディの変調に沿うように、きらびやかな夕日が画面いちめんを満たしていく。無味恬淡に思えた農村の光景が、実はドラマチックな精彩を秘めていたことが判明する。バディもまた老父やそれまでの登場人物たちと同様に、どうしようもなく「人間」なのだということが、情景描写を通じて示される。
この辺りのシーンの何がすごいかといえば、ラストカットに至るまでBGMが一切流れないことだ。そんなもので映像を糊塗する必要はまったくないのだという、監督の人間に対する信頼の強さが表れている。
バディが結局どのような選択をしたかについては最後まで明かされない。そこに本質はないのだから、こういうオープンエンドな終わり方でいいと私は思う。
ラストカットのメタ描写(この映画の撮影班のオフショット)には短絡的との批判もあるだろうが、私はもう少し肯定的に捉えたい。
誰も彼もがのびのびと雑談に耽っているさまは、バディが映画内で絶えず味わわされる緊張とは真逆のものだ。つまりラストカットは今際の際に彼が空想した儚い夢だと解釈することができる。しかしそれはこの映画を見ている我々にとってはむしろ現実の光景である。バディはスクリーンの外側にいる我々を羨んでいるのだ。
こういう描写は監督の才智が勝ちすぎていると一気に興が醒めるものだが、アッバス・キアロスタミの場合はあくまでヒューマニズムが万物の底流を成しているからそういう感じがしない。彼の映画においては、トリッキーな演出もまたヒューマニズムの一形態なのだ。
セント・ジェームズ病院
アッバス・キアロスタミの作品は1つのテーマがあるので、分かりやすい。兎に角、シャレている!
アームストロングよりも、カウント・ベイシーとディジー・ガレスピーの方が凄く良いと思います。
見てのお楽しみ!
ラスト寸前までは、完璧!
本当にラスト寸前まで、何もかもが全て完璧だった。
もう本当に挙げ出したらキリがないほど素晴らしい要素で溢れていた。
構図、カメラの動き、役者のタイム感、あまりに自然な芝居、素晴らしい台詞の数々、少しずつ徐々に出口へと向かって行く無駄のない的確なプロット、そして台詞の無いシーンも映像それ自体が充分と語りかけてくる。
特に自殺願望ゆえに、近視眼的なカメラワークがずっと続いていた後、主人公に心境の変化が訪れた直後、あの青い空に白い飛行機雲が現れ(その前の天国の門のような学校のゲートから予感はあったが)まさに心の視界がフワーと広がった瞬間は、
「これは今、本当にとんでもない映画を観てしまっているぞ」という感慨で一杯になってしまった。
いつでも死という出口(あるいは来世への入口?)を自分で選択する事が本当に実現可能となると、今度は生きるという選択の可能性も、急に広がってしまうという、まさにこの逆説。
これをここまで見事に表現できた映画があっただろうか?
一体どんなラストが待っているのか?
もう否応もなく、久々に相当ハードルが上がってしまったのだが……
しかし、アレはチョットねえ……
かなり意表を突くラストということは、最初からわかってはいたが……
それにしてもねえ……
いやあ〜 いやあ、わかるよ。わかる。監督の言いたいことは良くわかる。
「所詮これは映画。俺たちは撮影で春を満喫しているぜ。今これを観ている君達はどうなんだ?生きるのか?死ぬのか?どっちなんだ?」と突然ボールをこちらへ投げてみたくなったのは良くわかる。
でもなあ、そういうの妙に説教っぽく、チョットなんとも引いてしまったなあ。
まあ、おそらく検閲が厳しいイラン当局(自殺モノは特に)へのカモフラージュというか「イヤ、イヤ、イヤ、これタダの映画ですから」という作戦でもあったとも思うが。
実際、キアロスタミ自身、インタビューにおいても、観客が完全に受動的になるようなストーリーの映画には全く関心がなく、映画とは観客が能動的に関わって完成するものだから、そのための仕掛けも作っておく必要があるというような事を言っていたが、しかしそれは、あまりに観客の映画リテラシーを軽視しているようにも思える。
どんなストーリーの映画にも(単純でも複雑でも典型的でも)そこで観客が発見するリアルは100人が観れば、100通りのリアルがある訳だし、共通項は有るにせよ、まずそこに全く同じ真実は無く、そこには必ず何らかの能動的な心の動きがあるのだから。
その部分まで、作家が敢えてワザワザと介入してくるというのも、おせっかいが過ぎると思う。
観客が自由に解釈できる余白を作ること自体は良いと思うが、今回のような所謂「第4の壁」を破るようなフッテージは蛇足だったと思う。
まあ、こればっかりは、観る人次第か。
ちなみにイランの春には、雨が良く降るらしく、どうしてもラストにおける春のイメージには雨が必要だったみたいで、それで主人公は夜空を見上げ、雷を聞きながら、春の雨に打たれラストを迎えた訳だが、
そんなん言われなきゃ、外国の人間にはわからんよな。
せっかく夕方の飛行機雲の登場で、心の視界は広がっていたのだから、雲の隙間から現れる月の光は車から降りた直後に見せて、寝転がって見る夜空は、雷雨が去った後、すっかり晴れ渡った大宇宙に広がる星空にして欲しかったな。
そっちの方がずっと普遍的だし。
そして、その状況で主人公は、死ぬことも生きることも、どちらも自由に好きな方を選択できることに深い感銘を覚え、
そこで、改めて満天の星空を見上げて、
「なんて、生きるということは、自由な選択と可能性で溢れているんだ…」といったような余韻(勿論イメージだけで台詞は無し)でもって、やはりオープンエンド&ミニマムに終わって欲しかったな。
この映画の公開時、かつて「鬼火」を撮ったルイ・マルは、もう亡くなっていたと思うが、観ていたら、何とコメントしただろう?気になるところだ。
あと、開始10分ほどから真っ黒い画面に赤いペルシャ語が暫く続いたが、字幕が全く入らなかった。たぶんスタッフのクレジットだと思うが、あそこで字幕を全く入れないのは不親切というものだ。
ストーリーに関わるキャプションかも?と思えたので、アレは未だにモヤモヤ気になってしょうがない。
とまあ、あまりに意表を突かれ過ぎて、本当に色々と考えさせられてしまった。
これも監督の作戦?
とにかく、この映画、また何度も観たくなるだろうし、これから歳を重ねて行くごとに、間違いなくボディブロウのように深く効いてくる作品だと思う。
う〜ん、時間泥棒か?
「友だちのうちはどこ?」も、たかだか2、3㎞の村や森の中を行ったり来たり・・・
こちらも、ひたすら(多分)2、3㎞の風景の中を行ったり来たり・・・
見終わって、しばし、いや、これからもずっと、言葉がない・・・
う〜ん、これは、私の時間泥棒か・・・
クルド人の若い兵士の運転席側からの横顔が美しい。
アフガン人の神学生の、黒い瞳と、黒い眉と、黒々とした髭が美しい。
友だちのうちを探す少年の瞳が美しい。
みんな死ぬことの、本当の怖さを知らない若さ、というか、それこそが、美しい。
生の頂点から、死に向かう坂道を転げ落ちるような頃から、美しさは、それこそ、死の怖さと引き換えのように、はがれとられていく。
あえて言えば、そんな感じか、私にとっては・・・
美しいものは、やっぱり美しい。
それにしても、やはり、アッバス・キアロスタミ監督は、馬鹿な私のような人間には、非常に意地悪で、狡猾な、時間泥棒としか言いようがない。
土埃
イランはずっと、土埃舞うこの映画のイメージ。いま見ると、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人と、イランにいる多様な人たちが出ていることに気づく。
季節は紅葉の秋、桃は夏の果物だから、また来年の夏も生きてみない?って意味かなあ。老人の話を聞いた後は、紅葉が鮮やかに映し出される。ぐるぐると赤茶けた道を走る。ちょっと道を変えただけで、景色は変わる。
アフガン風オムレツ見たかったな。美味しそう。
公開当時見に行きそびれてようやく観られました。シネマライズに行列できたんだよねえ。いまは映画に並ばないから、大ヒットしてもわからない。
【”君はもう美しい夜明け、星空、夕陽を見ないのか。泉の水を飲まないのか。桜桃の味を忘れてしまうのか・・。”命の大切さを淡々と、けれども心に染み入るトーンで観る側に問いかけてくる、見事な映画である。】
ー 序盤から、中年男は砂埃舞う九十九折の山道を、独り車を走らせる。
そして、3人の男を次々に車に乗せ、”ある願い事”をする。ー
<Caution ! 以下、内容に触れています。>
1.クルド人少年兵に男が言った言葉
”20万トマン渡すから、朝、穴の中の私に”バディさん、バディさん。朝が来た・・”と、呼びかけて欲しい。応えなかったら、シャベルで土を掛けて欲しい・・。”
”銃とシャベルと何が違うんだ。”
男の奇妙な問いかけに戸惑い、逃げ出す少年兵。
ー 会話の中で、クルド人問題にも、やんわりと触れている・・。ー
2.アフガン戦争から逃れてきた、アフガン人の神学生の青年との会話
自殺について語るバディ。だが、その理由には言及しない。
答える神学生。”コーランには、自殺は誤りだ、と書かれています。”
ー 現在、アフガニスタンを再び支配したタリバンは、多くのアフガニスタンの民に何を強いてきたか。自爆テロは、”ジハード”と言う名を借りた自殺教唆ではないのか!
そして、バディが自殺の理由を口にしないのは、故アッバス・キアロスタミ監督がどのような理由であろうとも、自殺全般を否定しているからではないか?ー
3.トルコ人の老人、バゲリとの会話
老人は、且つて、自分も、自殺を考えていたと話し出す。
”縄を掛けようとした木に成っていた熟れた桑の実の美味さ。美しい夜明けの太陽、夕暮れを又見たくはないか。泉の水を飲みたくはないか・・。桜桃の味を忘れてしまうのか!”
ー 老人が自らの経験を基に語る、自然や人生の美しさを表現した、言葉のセンスの素晴らしさに唸る。そして、直接的に、自殺を止めるのではなく、間接的に自殺を止めようとする姿にも。ー
4.老人の話を聞いて、腕を組んで沈みゆく夕陽を見つめるバディの姿。
<ラスト、バディは”何故か”タクシーに乗って、九十九折の山道を登って行く・・・。
そして、画のトーンが変わり、故アッバス・キアロスタミ監督がスタッフたちに、撮影の指示をするシーンや、バディを演じた役者が映るシーンに切り替わる・・。
何とも、見事な作品である。>
人生の味
緊急事態宣言の下、自宅で約20年ぶりに鑑賞。
生きていれば高確率でなんらかの困難にぶち当たる。
人間にとって不変のテーマ。
3人目のお爺ちゃんが全部言ってくれました。
砂煙の舞い上がる道をくねくねと上がったり下がったりして進む様子は、まさに人生そのものにも見えた。
その道は行ったことのない道かもしれないが、行ってみたら新しい発見があるかもしれない、考えが変わるかもしれない。
生命ある限り、甘くても酸っぱくても苦くても、その味を味わいたいものだ。
ゴールは必ず向こうからやってくるのだから。
……にしても最後のおまけみたいなのんはなんだ?イラン人のセンス?俺たちもこうやって生きてるんだよってことなのかな……。
芸術活動の勉強のために観る
アッパス・キアロスタミ?イラン…まったく不勉強エリア
こういう乾いた土地の砂埃舞う映画
見てて喘息出そうで得意じゃない、西部劇とか
だけど面白いんだよね、ノマドランドもそう
自殺を看取ってくれる人を探して
乾いた道路を彷徨う
神が与えた命を捨てる男に
さくらんぼの味を思い出させる
ものの見方で人生は変わるよ。
最後まで観ないとアッバス・キアロスタミ監督の凄さがわからない。彼の主な作品は最初の20分は何を言いたいのか、これはなんなんだと試行錯誤する。途中でやめてしまう人も出てくるだろう。なぜ、こんな深く話を追求できて最後にオチを上手に持ってくるのか?
アヤトラ ホメイニの死後の作品だが、イスラム宗教色は強く引き継がれ、勝手に解釈して申し訳ないが、監督としてはイランで生きていく上において、自殺や自殺の幇助は宗教上ご法度だし、検閲も厳しいから、この最後のシーンに工夫を凝らさなければならないと考えて、『笑い』に変えたと思う。あとで、この映画のインタビューがあったら、聞いてみて補足する。これはあくまでも主観。
アッバス・キアロスタミ監督って、先へ先へと意味のある追及力が持続する。博物館で剥製の仕事に携わっている、Bagheri バックグヘリという高齢者の言葉で例えると、『映画(人生)は汽車のようだ、最後の字幕まで(終着駅)まで走り続ける。終着駅は死だ。途中で話が止まらず、次から次へと続く。(追求する)これだけ、私の好奇心やモーチベーションを下げない監督は数少ない。今となっては、彼の功績を振り返って、作品に思いをはせるしかないが、私の心の深淵に響くかれの才能に感謝している。
それに、不思議なことには登場人物で、主人公Badii を除いてはイラン人じゃなく、クルド人、アフガニスタン人、トルコ人(アザバジャン)。この三人の選択にしても、イランに住んでいる移民、難民、少数民族を取り入れて、テヘランの北ダラバッドDarabadから歩いてきたというグルド兵士、ある青年はアフガニスタンのマザリシャリフからで、戦争で学べないためイラン(イラク?)にイマンになる勉強に来た学生、最後は自殺しようと試みた老人と、アッバス・キアロスタミ監督は多様性のある取り組みをしている。
後半で、ブルトーザーが砂や石を落としているが、影となって主人公Badiiに石や砂が降ってくる状態を写しているのがかっこいい。主人公は地に埋まっていく自分を想像して圧迫恐怖感をもっているところで、 バックグヘリに会う。 バックグヘリはその後、時間はかかるが美しい景色が見えるところを通って、自然歴史博物館まで乗せてくれる。
道中の会話は圧巻で、私はこの バックグヘリの話に集中した。首吊り自殺をしようと思って、何度もロープを木にかけたが、できず、最終的に木に登りロープをかけようとしたところ、柔らかいものに触った。それが、桑のみ(?)一口食べたら美味しくて、次から次へと、、、食べてるうちに、朝日が上り、この美しい光景に心が打たたれる。学校にいく子供たちがそこを通り、木の枝を揺すってくれと。子供たちも学校に行く前、熟れた桑の実をたくさん食べる。ー彼が死んでいたなら、子供たちはこの実を食べられなかった。死のうとしている人が子供を幸せにしている。
そして、家族にも持って行こうと桑の実を拾い集めたという話。そしたら、Badiiは『家族が木の実を食べて幸せだったでしょ』と。深くないなと私は思った。そうすると、バックグヘリは
『たかが普通の桑の実、全然大事じゃない桑の実、この桑の実が私を変えた』と。そして、ものの見方で人生は変わると。結局、神の創造した、自然の恵に救われたという自殺をしようとした個人の経験談は力強い。
その後、カメラアングルはバックグヘリの話した経験をだどるようにBadiiの目に自然や子供などを追わせる。一見、生きる希望が湧いてきたようにみえる。生に未練を持つようになる。
でも、彼は、夜、死のうとしている洞穴に戻っていく。
問題を抱えている人に会って話しかけられると、兵士のように人の話を聞くのが怖かったりしたり、関わりたくなかったりで、逃げていくものもいる。また、それとは逆に説得をする人もいる。イマン志望の学生は、Badiiを友達の小屋に呼び寄せ一緒に食事をして多分コーランの話をしようとする。しかし、自分の経験談を話すだけことがいかにパワーがあるか改めて知らされる。これがアッバス・キアロスタミ監督の言いたいことだと思う。
自殺埋葬人
街中を離れイランの荒れ地をレンジローバーが只管走り回る、殺漠とした風景ばかりだ。
何やら助っ人を探しているらしいが30分たっても何のための人探しか分からない、二、三人に声を掛けるが胡散臭いと思われて儲け話にも乗ってこない。車に誘ったクルド人の若い兵士に頼み込む、20万(貨幣単位不明)やるから自殺を助けろという突拍子もない話、荒れ地の木の下の穴に睡眠薬を飲んで眠るから翌朝来てみて死んでいたら土をかけて欲しいと言う。若い兵士はドン引きで逃げてしまう。次はアフガン人の神学生、当然拒否。何故死にたいのか、何故そんな荒れ地で土に還りたいのか、動機の説明は無い。「話したところで同情はしても私の心の痛みは共有できない」と突っぱねる。
最後に話にのったトルコ人の老人は自分も自殺しかけたがロープを掛けた木の実を偶然口にして考えを変えたと言う、サクランボかと思ったら桑の実という、後半のセリフでは果物は神の恵み、桜桃の味を忘れたかと言うが桑の実を桜桃に置き換える必然性、ましてタイトルにする意味は何故だろう、桑の実では一般的に味が伝わらないとの配慮なのか、だとすると作風と合わない気もする。引受人の設定が博物館の剥製職人、ウズラの標本を作っているらしい、なるほど、死体処理には打って付けだ、病気の子供の治療費とか主人公と打って変わって動機説明は妙に饒舌。
男は念願(?)かなって穴に入って眠るところまでで画面は暗転、突然メイキング映像に変わる・・。結末まで観客に委ねるとは、ほぼ丸投げ状態。
冒頭の職にあぶれた街中の若者なら二つ返事で請け負ったろうになぜ埋葬人に拘るのか、実は妙な設定を借りて、登場人物に正論を語らせることで狂信的ととられているイスラム教徒の汚名を雪ぎたかったのかもしれないと邪推したくなる。
内容を知っていたら敬遠していたのだが「初恋が来た道」のチャン・イーモウ監督が影響を受けたイラン映画と言っていたので鑑賞、確かに哲学的テーマ風、撮り方も独特、音楽も無いミニマリズム、玄人受けするのは分かるが本音としては作家性が強すぎてどうにも意味不明、観るに堪えなかった。
少し眠かった
・あんまり絵が変わらず、静かなシーンが大半だった事もあり、少し眠かった。
・最後に自分を埋めてくれと頼んだ剥製を作ってる?おじいさんとのやり取りの所だけ面白かった。タイトルの通り、絶望したら桜桃の味しかり明日の朝日を見たくないか?とか。後は、自分に三度か声をかけて無反応だったら土をかけてくれと言った後に、もしかしたら寝てるだけかもしれないから肩をさすってくれとか、迷った所が良かった。穴に入って空を見上げて、結果、彼はどうしたのだろう。
・ラストのオフショットシーンの意味が全くわからなかった。
じわじわボディブローのように効いてくる作品。
じわじわボディブローのように効いてくる作品。
序盤から基本は車での会話。それが至近距離の圧迫感のある画の連続なので、結構疲れる。そして、荒涼とした大地や砂埃ばかり。おもしろくもなんともない。主人公の表情もそれらと同じく。
しかし、終盤のじいさんのあたりから変化が出始める。走っている車を遠くから撮りつつ、じいさんの話が乗っかるのだが、これが見ている側へ話しているような感覚になる。そして、映像もそれまで映さなかった空や鳥、グランドを走る人、木、夕暮れ、と開放的なものを映していく。説明もなにもないが、それが主人公の視線、心境の移ろいを表現している。
ずいぶん前に読んだのでうろ覚えだが、漱石を思い出した。死のうかと相談に来た男。話を聞き終え沈黙のあと、夜空の月を示して漱石が「あの月を見て美しいと思うか」とたずねる。男は月を見上げ「はい」と答える。漱石は言う「それでは生きていなさい」。
どういうことか、は言っていなかった。この映画もそう。でも、桜桃の味はどんなに絶望していようが美味しいと思えるだろう。じゃあ生きていたら、ていう。
でも最後はどういうこと?
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