インテリアのレビュー・感想・評価
全4件を表示
教訓と共に感覚的に焼き付く
随分前に一度観て以来、好きとか嫌いとか言うより、とにかく忘れられない映画。
白基調の洗練されたインテリアや、波の音、陶器の割れる音、イヴの上品で美しい立ち姿、ジョーイの無表情な陰気臭い白い顔、外部から突然持ち込まれる「赤」という色の鮮烈さなど、感覚に焼き付くからだと思う。
ストーリーは人間のスキを突きつけられたような複雑な印象だった。
イヴは、どこがいけなかったのか。自分の理想とするかたちにこだわりすぎるあまり、柔軟性や愛情が欠如していたということらしいが、寂しいと涙を流す姿には、罪がなさそうな単純さと、かわいささえ感じて、なんだか気の毒になった。
アーサーが、もっと早くからイヴとよい関係を作るため、何かできたのではないか。晩年になってからの拒否は、ひどいのではないか?
娘たちにしても、成長する家庭でイヴともっと本音でやり合っていれば、もう少し違う家庭になっていたのではないか。
このひとたちは結局イヴには引きづられてきただけ…。
それでもジョーイは、母のことを他人事として割り切れなかったのだと思う。でも遅かった。
悪循環のループに陥ってしまうと簡単には仕切り直せない。前へ向かっているようにみえて実は下に向かってしまっている。
上昇志向、理想、完璧主義…そういったものの落とし穴を見せつけられた感。
居心地のいいインテリア?近所のニトリで十分なのかも知れません
インテリアとは何かを辞書で引くと、こうあります
英語で内面を意味する単語であり、転じて、日本語で室内装飾品という意味であり、部屋や乗り物の室内の装飾やそれに付随する照明、装飾家具("Decorative arts")を表す
エクステリアの対義
溜め息がでるようなインテリアが全編に渡って登場します
昔、銀座にあった洋書店イエナの3階だったかの外国雑誌のコーナーで憧れを持って、米国のインテリア雑誌を立ち読みしていたことを思い出します
インテリアにも流行があって、昔ページを飾っていたとのと寸分違わぬ室内セットのオンパレードです
独身の頃、外国のインテリア雑誌に影響されて住んでいた1DK のマンションの部屋に百貨店でイノベーターの椅子やら北欧風の白いユニット家具を買い込んで、カーペットもモノトーンに統一して、グレーのブラインドをベランダのサッシ全面に取り付けたりしたものでした
ブランドの隙間から高層ビルの灯りが見えてNYみたいでとってもお洒落だと独り悦に入っていたものでした
家はくつろぐたためにあるもの
だからインテリアは家を居心地の良いスペースにするためのもののはずです
ところが本作ではそうではないのです
義母が著名なインテリアコーディネーターであるからです
一体どうして?
長女の新婚家庭は、過干渉な彼女のセンスで統一され、流行が変わればインテリアも変更されるのです
こんな家でくつろげるものでしょうか?
例え家が四畳半のボロアパートで、近所のスーパーの2階かホームセンターで適当に買って来た変な色目の三段ボックスや安いカーテン、百均で買ってきた小物に囲まれていても、自分がその時これだと思って買ったものに囲まれていたなら、くつろげるものです
他人の好みで満たされた部屋で暮らす
それはその人の支配を受け入れなければ苦痛でしかないのです
ならば夫婦の妻ならば?
考えても見て下さい
余りに神経を張り詰めてコーディネートされた部屋に仕事に疲れて帰ってくるのですよ
背広はすぐにぬいで、パジャマで過ごしたいものです
風呂にはいってパジャマに着替えて、ビール飲んで、だらしなく寝そべっていたい
それが男の考える楽で、くつろぐ家です
男と女が求めるくつろぐ家の違いがそこにあるのかも知れません
女だって、楽で居心地のいい家を作りたいはず
それは男よりとても強いのだと思います
でも子供が生まれたらそれこそインテリアコーディネートなんてどこへやら、部屋はもうむちゃくちゃになるものです
それなのにイヴの夫アーサーは家庭でも未だに背広姿を強制されているのです
何故って?
インテリアにそぐわないからです
お洒落じゃないからです
子供達にも小さな頃からそう強制して来たようです
そりゃあ、別居して逃げ出したくもなります
子供達が独立するまでよく辛抱したものです
アーサーを誉めてやりたいくらいです
アーサーが、パールのようながさつでも明るい気の晴れるような性格の女性と再婚したいと言い出すのはものすごく分かります
とにかく楽なのです
結局、男にはインテリアなんてどうでも良いのです
居心地のいい、心が休まる家が欲しいだけなのです
それが無ければ、仕事に全身全霊を傾けて働けなぞできはしません
24時間、気を張り詰めていたなら発狂してしまいます
もちろん、お洒落な家は素敵です
憧れがあります
好みのテイストで統一したインテリアの家で暮らしたいと思います
自分の好みのコーディネートでなくてもそうです
でもそれを強制されたなら?
息がつまる、窒息しそうだ
それがアーサーであり、長女ジョーイの夫マイクです、次女レナータの夫フレデリックもインテリアでなくともイヴと似たレナータに息が詰まる思いをしていたのです
三女フリンは、それに気がついてハリウッドに逃げ出したのです
それでもイヴは、インテリアを完璧にする事が愛を表現する事だと思いこんでいるのです
イヴは立派な巣作り=インテリアをする事こそが愛情の表現であると思いこでいて、それしか表現方法を持たなかったのです
やがて破局が訪れて、三姉妹はイヴの支配から逃れます
大西洋の大海原の大波が、これまでのそれぞれの生き方を洗い流していくようです
男と女がひとつ屋根の下で暮らしていくのです
四六時中、神経を張り詰めいたら、ギスギスして角突き合わせて疲れるだけです
居心地のいいインテリア?
近所のニトリで十分なのかも知れません
誰が悪いわけでも
現代でも広告や女性ファッション誌にありますよね。ワーキングマザーでありながら、家も美しく容姿も美しく頭は良くて家事は完璧。この息苦しさよ。
この『パーフェクトマザー』を女性に求める風潮は、アメリカの方が早かったのでしょうか?私が幼い時は、こんな感じじゃなかったと思うのですが、真面目な女性はノイローゼになりますよね。人の気持ちも環境も変わるものだし、決して母親が悪いわけではないのですが。『パーフェクト』を求められる女性の生きづらさを感じました。
インテリアはそこに「住む人」のためにあるもの。
都会派コメディーを製作して来たアレン監督が、敬愛する巨匠ベルイマン監督にオマージュを捧げた心理ドラマ。精神を病んだ母親と3姉妹の確執は、ベルイマンの『秋のソナタ』や『叫びとささやき』を想起させる。表面的には互いを気遣いあう「家族」だが、その心底には、それぞれの愛憎が凝っており、その「怒りや哀しみ」を、モノクロに近い抑えた色調と、音楽の変わりに波の音をBGMにした静かかつ哀しくも美しい画面で表現されている(余談だが、アレン監督は登場人物のアングルもこだわり、ベルイマン監督の『仮面 ペルソナ』のアングルそのままを使っている)。
完璧主義の母親に脅威を感じながら育った3姉妹は、母が精神を病んでからも、独裁下から抜け出せない。それでも、長女は「才能」に恵まれたため、「個人」としての存在を認めることができているし、才能はないが、「家族」から遠く離れたところで暮すことによって、「家族」の「呪縛」から逃れている三女は、かろうじて自分を見失わずに済んでいる。しかし、近くに住んで母の面倒を見ている次女には逃げ場がない・・・。完璧な人生を歩んでいたはずの母に、唐突に訪れた夫との別居。夫が自分から離れていった理由が「解らない(解りたくない)」母は精神のバランスを崩す。その母に、まるで腫れ物にさわるように接する家族たち。この家族の「危うさ」が、個人の「危うさ」へと繋がるのだ。本音では付き合えない関係なのに、家族であるという矛盾。いや、家族だからこそ本音を言い合えない。姉妹が不幸である故に、姉妹のパートナーも不幸になる。ここに登場する人々は不幸の連鎖で繋がっている。その鎖を断ち切れるのは自分自身の「意識」だということを誰も気づかないままだ。
父の再婚という新たな出来事によって、ついに爆発する家族たちの「叫び」。娘が心情を吐露することによって、結果的に母は「死」という逃げ道を選んでしまう。しかし、この悲劇のラストシーンと重いテーマの中、私はある「希望」を見出せた。ベルイマン作品では、「呪縛」を解き放つのは「自分自身」なのだが、アレン作品では「人の優しさ」がキーポイントになっている。まずは、三女の無邪気さ。三女は長女の夫に対していつも親しげに接していたため、妻との仲がギクシャクしていた夫(デキル妻をもった男のコンプレックス)は、三女を自分のものにしようとする。確かに男に「ブーツを脱がせてくれ」などと頼むあたり、”誘っている”と思われても致し方ない。男を非難することはできない。しかし三女に関しては、それらの行為は純粋に義兄としての愛情表現にすぎなかった。私は、長女の夫が三女をレイプしようとして未遂に終わったことを心からよかったと思う。このレイプ(いや、レイプではなくて、たとえ合意の上でのセックスでも)が実際に起こってしまっていたら、この一家は、ますます深い呪縛にがんじがらめにされてしまったことだろう。
さて、本作で、この家族(特に次女)に救いの手を差し伸べるのが、父の再婚相手。ただでさえ、病気の母を見捨てて、父が再婚することにショックを受けている次女だが、この再婚相手というのがおよそ納得できる人物ではなかった。完璧だった母に比べて、それほど美人でも若くもなく、ガサツで下品で教養もない。何故母より数段も劣っているこの女を、父は選んだのか?さらにこの女は、インテリアデザイナーである母が選んだ完璧な(無機質な)部屋のインテリアを変えようとしたり、不注意で花瓶を割ったりする。しかし、次女が、海へ入った母を引き止めようとして、溺れた時、必死で人工呼吸をして助けてくれたのは、彼女が蔑み、思わず意地悪を言ってしまったこの女だったのだ。
この「溺れた人を助ける」という、人間としてあたりまえの行為の力強さに改めて感動を覚えた。自分を嫌っている相手に対しても、迷うことなく行なえる「本能」の力強さ。この「プラスのパワー」は、家族の呪縛によって、自分自身や、周囲の人間の心までも見えなくなってしまっている次女の「マイナスのパワー」を大きく上回るものだ。深く傷つき、悩み、混乱した彼女の心は、こんな「当たり前」のことで救われるのだ。
完璧に整えられた高級なインテリアは美しい・・・、しかし、インテリアはその部屋に「住む人」がいて初めてその役割を果たす。自分の完璧なインテリア(世界)だけを整えて、「他人の優しさ」を住まわすことができなかった母より、外の世界のゴタゴタを招きいれ、とっちらかって掃除が行きとどいてなくても、温かくて和める住処を持つ女を選んだ父の人間臭さを姉妹たちは理解し、やがては自分自身もそんな住処を持つようになるだろう
全4件を表示