劇場公開日 2021年6月4日

「試される信仰、苦悩する若き司祭。とはいえ、こんな司祭、俺なら嫌だなあ。」田舎司祭の日記 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0試される信仰、苦悩する若き司祭。とはいえ、こんな司祭、俺なら嫌だなあ。

2021年6月28日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

この春に同じシネマカリテで、ロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』(66)と『少女ムシェット』(67)を観て、その演出および演技を出来る限り排した特異な作風(監督自身の命名によればシネマトグラフというらしい)と、主人公をとことん追い込む地獄めぐりのような内容に感銘を受けた。

監督の第三長篇となる『田舎司祭の日記』(51)もまた、主人公を酷薄なまでに追い詰め、逃げ道をふさいでゆくような「受難劇」としての構造は、先に挙げた二作と変わらない。
シネマトグラフとしても、本作が彼独自の流儀を確立した最初の一作とされているようだ。

ただし、たとえば『少女ムシェット』で見られたような、人形に振りつけをして「型」をこなさせている類の「異様なまでに禁欲的な」スタイルにまでは至っていないし、司祭役の青年は素人とはいえ演技がナチュラルに上手なので、たとえ監督の要請を受けて、抑え目で最小限の演技しかしていなかったとしても、違和感なく観られる仕上がりだった。

内容は、僕にとっては、『バルタザール』『ムシェット』と比べても格段にとっつきにくいものだった。
全編、神の存在と恩寵をめぐるモノローグとダイアローグで形成されているのだが、これが字幕だけ追っていても正直よくわからない。
前二者は「絵」さえ観ていれば、相応になにが起こっているかはつかめたが、今回はほぼすべての情報は「会話・独白」から提供されるので、どうしても内容の把握を字幕に頼ることになる。で、これがどうにも難しいうえに「ほんとにこんな訳文なのかな」みたいな感じで……。浅学の私には、今一つ歯が立ちませんでした(ネイティヴからすれば「音」で入ってくるので、まだつかみやすいのかもしれないし、英語セリフなら多少は補佐的に原語情報も脳内で使えるんだけど、仏語はまったくわからないもので)。いや、一応なんの話をしているかくらいは充分わかったんだけど、司祭と周囲の人物が語る内容に立ちいって言及、考察するほど厚顔にはなれないというか。
さらにいうと、作りがとにかく「ちょっとしたことが起きる」「対話」「独白&日記つけ」の単調な繰り返しのうえ、ひたすらダウナーな司祭のダウナーな語りで訥々と進行するため、猛烈な睡魔に何度も襲われまして……(笑)。抗しがたくなって一瞬意識を手放すと、とたんにいま展開されている議論が追えなくなる(音じゃなくて文字で追ってるから)。もちろん100%僕が悪いんだけど、たぶんこの物理的・生理的現象は僕だけに起こっている現象ではないと思いたい……。

宗教観の違いも、やはり映画を無心に享受するには、どうしても障害になってくる。
自分もまた、多くの一般的日本人同様、麻雀で「ツキ」がある(幸運の神)とか、お盆にはお墓参りしなきゃ(祖霊信仰)といった部分を超えた、人格神としての神の存在を信じることはとても難しく、司祭のいっていることに正直共感しがたいところがあるのは、どうにも否めない。
自分の息子が死んで悲しみに暮れていたとして、あんな若造にとうとうと「少しのあいだ離れているだけなのです」とかのたまわれたら、俺だったら水ぶっかけて箒で追い出すね。

そもそも、田舎司祭ってのは、日本人からすれば村の住職みたいなもんでしょう?
それが、あんなに根暗でダウナーで胃痛でいつも蒼白な顔した若者が来たら、どうなんだろう。
村民の無駄話や愚痴をまずは「きいてやる」のが、一番の仕事だと思うんだけど。
それを、なんか怖い顔して「ちがいます」「神はそうではない」とか言い返してくるような子に、居場所とか端からないんじゃないだろうか。

けっきょく終盤に明かされる病名だって、ずっと神経性の胃炎を放置してたからそうなったわけで、こういっちゃなんだが自業自得だし、肉と野菜が食えないからってパンと葡萄酒しか食べてなかったら、そりゃアルコール依存にだってなる。だいたい、彼が最初から暗くてしんどくて苦しいのって、神がどうとか信徒がどうとか以前に、「単純に体調が悪いから気鬱になってる」「酒量が増えて頭が回らないからよけいに混乱してきてる」ってのが真実なのでは? もっと早く病院いけよ。

ていうか、この「肉と野菜」が「一般的な人の生活や青春の快楽」の象徴で、「パンと葡萄酒」が「イエス・キリスト」の象徴なんだろうというのは、なんとなくわかる。若気の至りで世俗から距離をとりすぎて、神のみに依存して内にこもって神さま神さまいってたら、ふつうにアウトサイダーになっちゃうし、ふつうに死ぬよって話ですね。

この主人公の内向性や、非社交性、独善性を、我がこととして共感できたら印象もずいぶん違うのだろうけど、僕は基本的にこういういじいじ、うじうじしたタイプの主人公は概して苦手で(ウェルテルとか)、一事が万事、先輩司祭のいうとおり、もう少し気楽にやっていれば、ぜんぜんこんなことにはならなかったろうに、としか言いようがない。

あとやっぱり、『バルタザール』の「ロバ」や『ムシェット』の「少女」がまごうことなき「社会的弱者」であるのに対して、主人公の属性「司祭」が必ずしもそうではないという点は、僕のなかで作品への共感度に大きな差が生じている要因かもしれない。
ロバや少女は、受難に巻き込まれても、立ち向かう手段をもたないし、サンドバッグになるしかない存在だ。だから、苦しんでいれば相応に可哀想に思うし、応援もする(もちろん、見た目が愛くるしいってのも大きいんだけど。こっちの司祭は若いころの苫米地英人みたいだし)。
しかし、「司祭」は違う。元来、司祭はたとえ若輩であっても、「権力の側に立つ」人間なのだ。
しかも、神という絶対的な後ろ盾がいて、一般の神学を学んでいない信徒には抗弁する余地のない存在である。もちろん本人にだって信仰の苦しみくらいあるだろう。それでも、村の住人を相手にするときは、神の威光を借りる存在だからこそ、とことん謙虚に、聞き役にまわり、太っ腹で鷹揚なところを見せ、愛されるようにふるまう「義務」があると僕は思う。彼にそれができていない以上は、まずはそこからやってこうよ、あるいは対人商売がそこまで苦手っていうんなら、修道院とかで研究に没頭してるほうがあんたのためにもいいじゃないの、というのが、僕の偽らざる感想だ。

とまあ、さんざん苦言を呈しておいて、なんなのだが。

この陰鬱で重苦しい映画のなかで、司祭がたしかな笑みを浮かべるシーンがある。
ちょうど『少女ムシェット』のゴーカートのシーンに相当するような、「一瞬の解放」。
町の病院に行くと決めて駅まで向かう道すがら、バイク乗りの青年に出会って後ろに乗せてもらうシーンだ。
風を浴び、道路を疾駆するバイク。
相手の腰に手を廻して、体と命を預ける感覚。
肩の力が抜ける。背負っていた何かがふっと消える。
つい、ほころぶ表情。快活な笑顔。
この瞬間、司祭は、ひとりの年若い青年にもどる。
駅でバイク乗りの青年はいう。「ずっと、あなたと友達になりたかったのに」
困惑する司祭。
本当は、抱える問題も、胸を燃やす苦しみも、ぜんぶ「内から」来たものではなかったのか。
実は、その解決のいとぐちは、とても簡単なことだったのではなかったか。
青春を「忌避」した彼の短い人生に、救いはほんとうに「神の恩寵」しかなかったのか。

そう考えると、今更ちょっと可哀想になってきた。
上映中、気鬱の司祭の苦悩にまるで寄り添えなかった自分の不明を恥じたい。

じゃい