居酒屋(1956)のレビュー・感想・評価
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エミール・ゾラの自然主義文学の重厚で明快な映画化の、ルネ・クレマンの代表作の一本
「禁じられた遊び」一作によって映画史上に名を遺すであろうルネ・クレマンは、「雨の訪問者」以降娯楽サスペンスものに作風が変化していった。初期のドキュメンタリー映画から出発したクレマンには、一貫した作風が感じられないし、特にこの様な文芸映画の成功作を観ると、この時の演出力と創造性は何処へ行ってしまったのかと惜しまれる。自然主義文学のエミール・ゾラの代表作『居酒屋』を高度な映画芸術に成し遂げた成果は、名作小説の映画化が困難である通説を思うと貴重であると思う。ジョン・フォードの「怒りの葡萄」やルキノ・ヴィスコンティの「ベニスに死す」と、成功例は少ない。
クレマンの演出は、原作のパリの下町の市井の生活描写を的確に再現し、ロベール・ジュイヤールの撮影は役者の演技を追うよにカットを少なく移動させている。それでいて混乱した経済状態の中の労働者階級の悲惨な生活を細微に至り描き、緻密な映像作りが成されていた。これが、この作品を人生ドラマとしての重厚さと明快さ併せ持った秀作に仕上げた最大要因である。そして、興味深いことは、主人公ジェルヴェーズを客観視する原作の冷静さを、クレマンの通俗的な社会生活志向によって楽しく観られることだ。冒頭の夫の浮気相手の姉と大喧嘩するシーンを盛大に撮ったり、クポーとの幸せに満ちた結婚式の場面では、仲間たちとルーブル美術館を見学するのをユーモラスに描いて、ジェルヴェーズ主催のパーティーでは、人々の食欲旺盛な人間の本能を晒し見せる演出と、クレマン監督らしい面白さであった。
物語は、男運に恵まれない女性ジェルヴェーズの悲運を追いながら、その子供たちの置かれた境遇を暗示させる。貧しさが連鎖する社会を問題視する、作家の視点がここにある。たった一人の善良な男グジェは、ストライキ運動をする社会派の理想主義者として現れ、ジェルヴェーズを助け、彼女の長男を引き取り去っていく。唯一救われるシーンだ。そして、ラストシーンを締めくくる少女ナナの、どうなるか分からない未来で映画は終わる。「禁じられた遊び」の雑踏の中に消えゆくポーレットの描写と似て、これは印象的な終わり方であった。
1852年から60年にかけての、日本では幕末の時代のフランス・パリの社会状況を映し出した演出と、当時のある女性の生き様を切なくも力強く演じたマリア・シェルの名演が素晴らしい。ゾラの自然主義文学の特徴を映画で実感できる、貴重な文芸映画の秀作である。
1978年 6月12日 フィルムセンター
ルネ・クレマン監督は、「禁じられた遊び」「居酒屋」「太陽がいっぱい」の三作品が代表作に挙げられるだろう。初期の「鉄路の斗い」「海の牙」「鉄格子の彼方」が未見のままで、残念ながら今日まで来てしまった。他に「生きる歓び」「パリは燃えているか」「雨の訪問者」が佳作として印象に残る。「危険がいっぱい」「パリは霧にぬれて」には、今一つの感想を持った。晩年は商業映画に特化した傾向が強く、いくら過去に名作を生み出しても採算が合わない題材には挑戦できなかったのではないかと想像する。映画監督の宿命の一つを象徴していると思う。
洗濯女、ジェルヴェーズ、三人の男、一人の悪女と物語を紡ぐ。
物語を通じて、日常的な幸せが訪れるたびに結局はひもに金をむしられ困窮し苦しむ洗濯女ジェルヴェーズのお話。
彼女はクズな男(女癖のランティエ、のんだくれの夫クーポー)に毎回涙することになり、涙しているアップ描写が多い。最初は感情移入していたのだが、周りの男にいいように使われることを拒否できないところを見ていくうちに共感は失われていく。彼女は自分の財産や信頼できる家族を守り、それを犯すものを許しては行けない、一線を引く必要があるという義務を放棄している。そこに女を道具としてみる男たちのエゴが噛合い、彼女の周りに負の連鎖を約束している。
ラストに近づくにつれ、もういいよという思いが強くなった。ジェルヴェーズに嫌がらせをするポワソンという悪女も見ていて嫌になる。唯一、グジェだけは周囲の悪徳に染まらず、物語から退場していく。彼だけは良い物語を紡いでいて欲しいと願う作品だった。
日常的な一時の幸せは描写されはするが、最後までバッド。そんな作品として他に思い起こすのはミスティック・リバーくらいだ。しかしリバーの方は悲しい結末だがこの作品ほど嫌な思いは無かったような記憶があいまいだがある。この作品はどういう人に進められるかは悩む。恋愛ものが好きな人や鬱気質が全く無い人、女性向けだろうか。
ラストシーン、なぜか頷いてしまっている自分がいました
原題が『ジェルヴェーズ』であることに、まず感激。
ハタチの時に、原作を読みました。
…ということはもうだいぶ時間が経っているので、だいぶ内容を忘れていました。
まず、駆け落ち同然で一緒になり、二人の子をなしたランチエが、中盤からジェルヴェーズにしつこく絡んでくる(っていうか旦那のクポーがおかしいんだけど、なぜだか間借りという形で家に住みつく)っていう、物語の核になる部分がすっぱりと記憶から抜け落ちてました(汗)
屋根職人のクポーが酒が弱くて、しょっちゅうカシスばかり呑むので"カデ・カシス"とあだ名されていたこと。鍛冶職人のグージェと空き地みたいな公園にいて、でも職人肌のグージェはキホン寡黙なので、黙ったままタンポポを摘んではジェルヴェーズの(空の)洗濯カゴに投げ入れ、ジェルヴェーズが笑ってそれを見ている、、という、(まだ不幸になる前の)幸せなひととき。そして、ついつい気合の入ったジェルヴェーズが、グージェのYシャツの襟に糊をきかせ過ぎて、彼の厳格な祖母?に嫌味を言われて赤面するシーン。そういう、ディテールは覚えてたんだけど。
残念ながら、この辺は映画ではカットされてました。
ランチエ役とクポー役の俳優の顔が似てる、、 グージェはイメージ通りかな。ヴィルジニーという性悪女の存在も、すっぽりと抜け落ちてました(笑)
現代だとネットでサイコパスと謗(そし)られそうなレベルの性悪。 この人、ただ人の幸せ壊したいだけなんだよね(洗濯場での刃傷沙汰という遺恨こそあれ)…こわやこわや。
ランチエはくっそタラシ、クポーは酒浸りで鈍感、、、ただ、クポーは女房とグージェの仲を勘繰ってるフシがあるというか、少なからず嫉妬してそうなんだよなぁ。
脚の怪我とか男運の悪さとか、わかる~って思いながら読んだなぁ、ハタチの頃。
もっと自己主張しろ!ってグージェがジェルヴェーズに言うシーンもあるけど、ジェルヴェーズは自己主張が弱いというよりは、ランチエに弱いのよね(言い換えれば「ダメ男と分かっているのに惹かれる男」に弱い)。
ランチエが居候になって関係が再燃しちゃう辺りはもう読んでて恐ろしかったわ、、
ジェルヴェーズの誕生会。立派な七面鳥?の一片にかじりつきながら、恥ずかしそうに目配せし合うジェルヴェーズとグージェ。嗚呼、懐かしい…! 幸せなのは本当、この辺までね。
娘のナナが映るたび、「あぁ、『ナナ』も読まねば…(そして観ねば…)」という思いが沸々。 そしてラストシーン。確か、原作でも『居酒屋』のスピンオフ『ナナ』の予告的な文章があった気が。本編でスピンオフ予告って、格好いいし、現代的。
そのスピンオフ予告を彷彿とさせるラストシーンが、素敵でした。
鼻くそほじらないで・・・
内縁の夫に裏切られ、屋根職人と所帯を持つ。事故によって足を悪くし、洗濯屋で働きながら生活を支える。しかし、主人公ジェルヴェーズを演じているマリア・シェルに悲壮感は感じられず、むしろ笑顔の似合うしゃきしゃきの女優といった雰囲気。
終盤は駆け足で進むため悲壮感も伝わりにくい。末娘ナナがママと言って覗き込んだり、そのまま放浪していく様がかなり哀れ・・・鼻くそはほじらないでほしかったけど・・・このまま不良になっちゃうんですね、きっと。
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