イヴの総てのレビュー・感想・評価
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舞台女優の栄光と苦悩を辛辣に風刺したマンキーウィッツの傑作
新人女優が一年も満たない期間にアメリカ演劇界最高の栄誉である賞を獲得し、一躍大スターにのし上がる夢物語を辛辣に暴露したバックステージ映画。原作は、舞台女優のエリザベート・ベルクナーが1943年のブロードウェイの舞台劇『第二の妻』出演時に遭遇した、ある若い女性を付き人にしてからの実体験を基に、メアリー・オアという作家が創作した小説「The Wisdom of Eve」(イヴの知恵)で1946年に発表されたもの。それを脚本家出身のジョゼフ・L・マンキーウィッツが脚色と演出をしてアメリカ映画史に遺る作品に仕上げました。製作がダリル・F・ザナックで音楽がアルフレッド・ニューマン。大女優マーゴ・チャニングに大ファンとして近づき、不幸な境遇を語り同情を得て、付き人から一気に代役のチャンスを勝ち取るイヴ・ハリントンの正体を徐々に明かしていく作劇の面白さ。それを女優マーゴ始め劇作家夫婦や舞台演出家、そして演劇批評家らが狂言回しの役割を兼ねて複数(批評家ドゥイット、劇作家ロイドの妻カレン、そしてマーゴ)のナレーションで物語を進めます。この若い女性に魅了される演劇人たちが、彼女の仕事振りや演技に感心しながらも、次第に呆れ果て翻弄されるところが見所となっています。充実した脚本・台詞・演技の完成された風刺ドラマであり、女優の素顔と女性の怖さを強烈に印象付ける内幕映画として、異色のハリウッド作品と言えるでしょう。
第一に素晴らしいのは、主演マーゴを演じたベティ・デイヴィスの凄みです。表情や台詞回しは言うに及ばず、大女優役の貫禄と年齢からくる負い目の悟りの仕草まで見せ付けます。マーゴの設定年齢は40歳で実年齢に近い役を自然に演じています。現代から見るとまだまだ若い年齢でも、平均寿命が短かった1950年代では完全にベテランの領域であったと思われる。演出家ビル・サンプトンの32歳の誕生日パーティーのシーンでは、ビルが若いイヴと二人だけで会話をしているのに嫉妬し、更にイヴをべた褒めするので怒りが収まらず、部屋の中を動き回ります。年下の恋人ビルに優しくして貰いたい女心のマーゴでなく、嫉妬に駆られた年上女の怒りを演じる女優マーゴになってしまっている。銀食器の中のクッキー(それともチョコレートか)を漸く口にして、ビルから嫉妬は恥ずかしいと言われて吐く、“カット!次のシーンは私の処刑?”の台詞がいい。舞台では年齢を意識しない女優でも、プライベートでは女性として年齢を意識せざるを得ない。歳の差を超えた愛をマーゴに捧げつつも、若いイヴに嫉妬するマーゴの女心が分からないビルとのやり取り。ビルを演じるゲイリー・メリルとは、この映画共演後に実際に結婚するという、二人の息の合った名場面です。
次に面白いのは、専門職の登場人物の中でひとり素人の立場でイヴを親身になって応援するカレン・リチャーズの言動です。劇作家ロイドの妻でも演劇には疎いのに、マーゴの代役にイブを推薦し、且つ舞台デビューするところまで画策する始末。ガス欠の車中にマーゴと二人っきりになって会話するシーンが切ない。若く女らしく控えめなイヴを認めるマーゴが、成功するために捨ててきたとしおらしくなって、女に戻るときに必要だったと嘆く。傲慢なマーゴを痛い目に遭わせようとしたカレンが、彼女の改心に女性として同情を禁じ得なくなり黙ってしまう展開の面白さ。このガス欠の悪戯がイヴを世に知らしめることになり、更に演劇批評家ドゥイットの翌朝の記事(年長の女優をいつまでも使って無理に若い役をさせるのは演劇界の悪習である)が波紋を広げる展開になる。次回作「天井の足音」の若い主人公コーラ役にイヴを推すロイドと、親友マーゴを侮辱したイヴを許せないカレンの夫婦の衝突から、レストラン(カブ・ルーム)の化粧室シーンの流れがまたいい。ここでイブの本性が露になる怖さ。カレンを脅迫してコーラ役を得ようと豹変するイヴの態度。策略をバラされる恐怖を抱えてマーゴたちのいる席に戻るが、ビルと婚約した心境変化でコーラ役を断るマーゴの発言でカレンは緊張が解けて笑い出す。マーゴとビルに夫のロイドの三人が訳分からず呆気にとられる中、笑いが止まらないカレンの安堵と幸運のこの表現の面白さ。演劇的な場面として見事です。
更に演劇の人間模様を重厚にしているのが、ジョージ・サンダース演じる演劇批評家アディソン・ドゥイットの存在です。イヴがマーゴの代役の公演後楽屋でビルを誘惑して拒絶されるところをドゥイットは立ち聞きしていて、その時から彼女のことを観察していたのでしょう。「天井の足音」初日のホテルの一室のシーンでは、出自を調べ上げて嘘まみれの芝居を糾弾しながも彼女にシンパシーを感じています。イヴの弱みに付け込み自分のものにする悪い男の典型です。マーゴに取り入りビルやロイドを誘惑、カレンの同情を仇で返して成り上がったイヴの悪徳が完結するかと思わせての最後の逆転劇。他人とは思えないと言い、人を軽蔑し純愛とは無縁でも、あくなき野心と才能があるイヴを認めている。
才能と美貌がありながらチャンスに恵まれないイヴを演じたアン・バクスターはヒッチコックの「私は告白する」のイメージとは打って変わって、強かで狡賢いヒロインを好演しています。ただベディ・デイビスやカレン役のセレステ・ホルムと比較して、演技が固く柔軟さが欲しい。例えばビルに拒絶されてカツラを鏡台に投げつけるシーンでは、(まだこの段階では)可愛げの残る表情がある方が良かったのではないかと思います。これは演出も含めての不満です。
脇役も充実していて、ヒッチコックの「裏窓」でも好演を見せたセルマ・リッターがイヴに皆が同情する前半の重要な場面でいい味を出しています。新人女優役のマリリン・モンローは、演技力のない設定にあった存在感で、演技よりその個性が印象に残るキャスティングでした。ラスト第二のイヴを思わせる女子学生役のバーバラ・ベイツは細身のスタイルで美しく、これはベディ・デイヴィスと並んで大女優のキャサリン・ヘプバーンをモデルにしたような印象を持ちました。このラストカットの鏡の使い方の巧さも見事です。
それでもこの映画の面白さの本質は、大スターの舞台女優の裏の顔を批判的に暴きながらベテラン女優の苦悩を丁寧に描いているところにあります。キャリアを積まないと出てこない味が演劇の芝居には必要です。新人の新鮮な輝きも、いつかは熟練の存在感に変わり、貫禄と安定感が増して名優となる。しかし地位も名声も得た女優が、男性化するのも事実。マーゴが言うように、女のままで名女優になるのは大変難しい。と言って年齢を重ねれば容貌の衰えが役者生命に影響する。映画女優で言えば、全盛期に引退したハリウッドのグレタ・ガルボや日本の原節子がいます。舞台はそれでもメーキャップとアップが無いお蔭でまだ通用するものですが、制作に携わるスタッフから言えば役柄の年齢に合った配役でするのが最良なのは明白です。これらの事に思いを巡らせながらこの映画をみるとマーゴ・チャニングが愛おしくなってきます。舞台女優の真実に迫ったこのマーゴ役のベディ・デイヴィスの演技を堪能すべき演劇界の風刺劇の傑作でした。
総ての女たちが生きる世界
ずっと「いつか観ないとなぁ」と思っていた。なにせ、今でも「イヴの総てみたいに」というセリフが映画にはちょくちょく登場するくらい。
「みんな観てるよね?」「知ってるよね?」という前提になるほどの名作なのだ。
ネタバレありにしたけど、「イヴの総て」にネタバレってあるのかしら?と思うほど。
「イヴの総てみたいに」のセリフから推察されるように、自分の野望に向かってなりふり構わずスターへの階段を駆け上がろうとする「イヴの総て」についての物語であると同時に、総ての女性たちの物語であるという秀逸な映画。
「イヴの総て」には、女の総てが詰まっている。誰もが怯え、誰もが挑み、誰もが女に生まれた運命を受け入れて生きてきた。その苦しみと可笑しみが詰まっている。
マーゴのように弱い部分を捨て去って、傲慢でも輝きたいと願えば「愛を失う」事に悩み、カレンのように夫を愛し支える事を選べば「愛するしか能がない」事に悩む。
イヴの持つ「若さ」という太刀打ちできない魅力を持った女性の台頭に、マーゴもカレンも恐れ戦き、最後は達観するのだ。
今、大輪の花を咲かせようと勢いよく伸びてくる存在に、自分の満開は過ぎたのだと。
女に生まれたら、誰もが薔薇やひまわりのように「主役」の風格を持って咲き誇りたい。
イヴは強かに周囲を利用して望むものを手に入れようとしたが、どんなに天然に見える女でも総ての女性がイヴのように計算高く自分の「魅せ方」を考えている。
自分の持てる魅力を全部引っ張り出して、計算して、自分のキャラクターを構築して生きている。ある意味、自分に対して一番冷徹なのは自分自身かもしれない。
泣き、わめき、懺悔し、誘惑し、この世界の中心たる花であろうと躍起になる。
しかし花がその役目を終えて萎れ散っても、結んだ種を喜んでくれる人がいる。ビルは大女優でなくなってもマーゴから離れず、ロイドはカレンの内助の功を讃えた。
自分達の季節に終わりを告げる、新たな花の嵐に翻弄されながら、穏やかな秋を迎えたのだ。
名誉ある賞に輝き、絶頂を迎えたイヴにも秋は訪れる。今はまだ蕾の花たちが、明日のイヴを夢見て密やかに成長しているのだ。
無数の野心ある女たちを予感させるラストシーンは、「女の世界」を見事に表していると思う。
ちょくちょく「イヴの総て」が言及される意味がよくわかった。誰かを踏み台にするサクセスストーリーという側面以上に、女に生まれたからには避けて通れない、誰もが身に覚えのある現実が内包されているからだ。
何かある度イヴのことを、マーゴのことを、カレンのことを思い出すだろう。「女の世界」がドラマチックに激変するまで、この映画は色褪せない。
女優であること、女であること
アメリカ演劇界最高の栄誉であるセイラ・シドンス賞を、新進女優イヴ・ハリントンが受賞した場面から物語は始まる。
彼女は満場の拍手で迎えられるが、会場で彼女の素性を知る一部の者は複雑な想いでその様子を見つめていた。
物語を通してイヴの印象が180度変わっていく様が恐ろしくもあり、また感心させられもする。
毎夜劇場の楽屋口で大女優マーゴ・チャニングに憧れの目を向け続けるだけだった田舎娘のイヴ。
そんな彼女を劇作家ロイド・リチャーズの妻であるカレンはマーゴに引き合わせる。
イヴの哀れな身の上話に感動したマーゴは、彼女を付き人として雇うことにする。
最初、マーゴは言いつけを従順に守り続けるイヴに好意を抱いていたが、次第に彼女の利発すぎる態度に警戒心を抱くようになる。
やがてスターに憧れる純朴な少女だったイヴは、野心に燃える小悪魔的な本性をさらけ出していく。
この映画を観て感じたのは、スターとして脚光を浴びることと幸せになることは、正反対の位置にあるのではないかということだ。
マーゴは年は取っているものの、誰からも認められる大女優のはずだった。
それなのに彼女はイヴの若さに嫉妬し、自信を失ってしまったようにヒステリックな態度に出る。
彼女はイヴの女としての魅力に嫉妬したのだ。
それは彼女がスターとして成功するために捨ててきたものだった。
「どれだけ地位や名誉を手にしても、食事をする時や寝る時に隣に夫がいなければ女ではない。」
彼女は女優としてではなく、女として愛してもらいたかった。
その差は些細なようでいてとても大きなものなのだろう。
幸せとは特別に選ばれた人間がなれるというものではない。
むしろ本当の幸せは細やかな生活の中にあるものだ。
確かに女優としてスポットライトを浴び、拍手喝采で迎えられる瞬間は至福のひとときなのかもしれない。
しかしその幸せは持続させることが出来ない。
それでも刺激を求めて、スターになるために野心を燃やす人たちは後を絶たない。
イヴはどんな手を使ってでも役を勝ち取ろうとする野心の塊だ。
彼女はカレンを脅迫し、マーゴのために書かれた台本から役を奪い取ろうとするが、皮肉にもマーゴが結婚という平凡な日常、女優であることから女であることを選んだために、その役を自分のものにすることが出来る。
そして場面は冒頭の受賞パーティーに戻るのだが、イヴは栄光と引き換えに人としての大事なものを失くしてしまう。
おそらく彼女がこの先どれだけ成功を手にしても、幸せにはなれないだろう。
女優の世界は食うか食われるかだ。
ラストは最初のイヴのように、純朴を装ったフィービーがイヴに近づき、彼女のガウンを羽織りながらうっとりと鏡を眺める場面で映画は終わる。
マーゴ役のベティ・デイヴィス、イヴ役のアン・バクスターの存在感はさすがだったが、マリリン・モンローも端役で印象的な役割を果たしている。
特にマリリン・モンローの生涯を思うと、彼女らもまた平凡な幸せとは無縁の人生だったのだろうかと考えさせられた。
女の旬は短いから美しい
雨の日も風の日も、楽屋口でそっと待っていたひとりの少女イヴを、ある大スター、マーゴが付き人にし、いつのまにかイヴはスターの役のセリフをすべておぼえ、密かにオーディションを受けトップ女優へとのぼりつめてゆく。そのイヴの傍にはかつての自分のような田舎娘が・・・というストーリー。
付き人時代、雑談の中で「得るものは少ないのにすべての犠牲を払って・・」と誰かが言うと、イヴは突然熱に浮かされたように言う。「得るものは少ないですって?!何はなくとも喝采はありますわ・・」それは彼女の真実の言葉。
マーゴの40歳過ぎた女優の苦悩というのも良く描かれていて、今よりもっと若い女性がもてはやされた時代だから、毎日毎日化粧を落とし、鏡をみるたびに容色がおとろえるのを一番よくわかっているのは自分だから辛かろう。まして恋人はまだ32歳、「まだ若いよ」などという言葉がなんのなぐさめになるだろう?ただいらだつだけだ。
マーゴを結果的には裏切って名声を手に入れたイヴ、天真爛漫なマーゴに友人は残った。イヴの周りには彼女を思う人は集まらないし、寄せ付けないようなところがある。それは彼女の(多分)過酷な生まれ育ちによるもので、他人をけおとさないと生きていけないという生き方がしみついているように見える。でなければマーゴとイヴは役者、という部分で誰よりも深くわかりあえたろう。
イヴ役のアン・バクスターは70年代になって「刑事コロンボ」のゲストでも出ていて、それも女優魂を感じさせる犯人役でよかった!
女優は目で語る。…男優もか。
おもしろい!
今でこそこの設定はありふれた物だし、身近にも、職場での手柄の取り合いとか、よくある話なのだけれど、
その中でも、何度もリピートしたいダントツの映画となっている。
筋を知っていても、筋を知っているからこその人間模様の描き方を堪能してしまう。
演劇界の内幕もの。新旧女優の交代劇と言われる。
けれど、その中に、様々な感情・生き方が描かれていて、単なる栄枯盛衰ものとしてだけでなく、惹きつけられる。
出会った瞬間から、イヴの本質をつくバーディー。
皆がイヴに入れ込む中、イヴと共に働きながらも、イヴを冷静に観察している。
ビルの誕生日に、マーゴのベッドルームでかわす、マーゴとバーディーの視線。ああ、ぞくぞくする。
けれど、バーディーの立場上、ここの登場人物に、自分からそれを言うわけにはいかない。プロとしての矜持(言っても僻みとしかとらえられないし)。
そして…。
マーゴの、その時々の表情。
「演劇界の内幕もの」と言われるが、
マーゴだけに焦点をあてて、若さを武器にできないと思っている女の心の揺れ動きを描いた映画としても見ごたえある。
楽屋での、役から素に戻る途中の化粧姿こそ、皺が目立ち年齢を感じさせるが、それ以外での着こなし、表情、立ち振る舞い。ふてぶてしさ・泣き顔までが美しく、かわいらしく、愛おしくなる。
年の差。いつの世にも存在する永遠の課題。愛しているからこその悩み・いらだち・悲しみ。
そして、カレン。本当に、踏み台にされたのはカレンだろう。
同じマーゴの信奉者として、優しく嬉々としてイヴの手助けをしていたカレン。その人の好さが、マーゴとの友情を試されるはめに陥る。その時々の表情に共感してハラハラしてしまう。
ビル。マーゴとのすれ違いが胸をつく。
イヴの若さ、相手のことを考えての気配り。すべてマーゴにはないもの。その”特質”をビルが欲しているのではと怯えるマーゴ。だったら、若さはともかく、気配りしてあげればいいのに、性格変更は難しい。
ひたすら、女としてはマーゴしか見えていないビル。だが、愛する人はそれを信じてくれない。
なんというすれ違い。もどかしいけれど、もどかしいなんて言ってられない。二人の気持ちに入れ込んでしまう。
この状況で、マーゴがすべてを失うのかと思っていたら…、意外な展開を見せる。
新しい価値を手に入れ、雨降って地固まる。
カレン・ロイド夫妻にも影が差すが、冒頭・終盤の様子を見れば、夫妻の信頼感は崩れることはなかったのだろう。
そして、ドゥイットによるイヴへの反撃。
人を誑し込んで、思うように扱ってきたかのようなイヴは、ドゥイットもその手口にと思いきや、ドゥイットの蜘蛛の巣にかかっただけというオチ。ヤクザより怖い。
新たなフィービーの存在。
歴史は繰り返すと言いたいが、イヴが、そうそう自分がしてきたのと同じ手口に引っかかるとは思えない。どんな攻防が繰り広げられるのだろうか。続編ができそうだ。
大女優の付き人になって、その女優の代役で芽を出す。
これだけなら、特に「大女優を踏み台にして」と言われる筋合いはないだろう。登竜門の一つだ。有名な演劇マンガ『ガラスの仮面』でも、代役でというエピソードが出てくる。マーゴの演技を真似るのだって「学ぶの原義は真似る」だ。それだけなら、そしりを受ける罪はない。
では、イヴがやったことでまずいのはなんなのか。
世話を受けておきながら、批判すること? 批判なしの盲従はかえって人をダメにする。より高める方向に動くのなら歓迎されるべきだ。師匠はこう演じたけれど、私はこう解釈してこう演じるとか。イヴの言った「若い役は若い役者に。年齢相応の役を。」は、ある意味良い指摘だ。イヴはマーゴに止めを刺したつもりなのかもしれないが。マーゴが悩んでいた本質の一つでもあるのだから(マーゴはロイドに年齢相応の役を描いてと頼んでいる。:実際にディビスさんが映画で演じられた役に似ている)。
だが、イヴは、マーゴたちに言うことと、ドゥイットに言うことが違い、信義にかけていた。足の引っ張り合いはお互いをダメにする。
そして、自分の力量だけでのし上がるのではなく、男頼みにしようとして、恩ある人々の大切な人であるビルやロイドを誘惑した。ビルやロイドが演劇界に力を持っていて、彼らを利用すれば、さらにのし上がれるという計算が働いたとしても、これはまずいだろう。受けた恩を仇で返す。しかも、恩人へのダメージも狙って。
それでいて「友達」と言う。一番信用を失うパターン。
演劇界の内幕を描いた、たんなる暴露ものではない。人の”信義”の話を描いた映画。だから人を引き付けてやまないのだろう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
見ごたえある役者ばかり。
バーディーを演じられたリッターさん。
『裏窓』の看護師と役柄は似ているのに、全然違う。それでいて、マーゴとのコンビが良い。
イブを演じられたバクスターさん。
冒頭の清楚な雰囲気の中にも、「お願い」「忘れられたと思っていました」と言う時の、裏がありそうな匂わせ方がすごい。秘書としての世話役姿も、一見献身的に尽くしている姿でありつつ、ここまで踏み入るかという狂気の匂わせ方がすごい。カレンを脅す場面の二枚舌からの変わりよう。さりげなさすぎてすごい。
癖のあるデイヴィスさんとバクスターさん・二人の女優に比して、カレン役のホルムさん。
その普通さが印象的。それゆえにイヴの厭らしさが際立つ。キャリアはあるが”夫”のないマーゴと、キャリアはないが”夫”のあるカレンという対比も、女の幸せとはと考えさせられて、良い対比となっている・
ドゥイット役のサンダース氏も、公正な批評家と思いきや、初インタビューのさりげない罠の仕掛け方とか、徐々に見えてくるいやらしさがさりげなさ過ぎてすごい。
『レベッカ』でも物事をかき回す役だったが、こちらの映画の方がしたたかさがじわじわとくる。『イタリア旅行』での慇懃無礼さにも通じるものがあるが、『イタリア旅行』では仕事重視のただの紳士。この映画での罠の仕掛け方、一種の大逆転を計算しているしたたかさが見事。
ビルを演じるメリル氏は、この映画がきっかけで、ディビスさんと結婚されたとか。実生活でもこんな風にアプローチしていたのだろうか?
そのエピソードとは関係ないけれど、加藤健一氏に見えてしまう(笑)。
モンローさんもちょい役で出演。
ディビスさんやバクスターさん、ホルムさんに比べて、鈴を転がしたような声。しゃべり方も独特。ああ、これでは役に幅が出ないなあ。似たような役しか来なかったのはこのせいかなどと思ってしまう。まだモンローさんの映画は『紳士は金髪がお好き』くらいしかまともに鑑賞していないので、勘違いかもしれないが…。
フィービーは、バービー人形に似ている。
と、視覚的にも印象が残る芸達者が勢ぞろい。
なのに、鑑賞後もデイヴィスさんの面影を追ってしまう。
他の映画も追ってみたくなった。
イヴの衣装の移り変わり
演劇界の大物たちを相手に手練手管で立ち回り、トップ女優へと上り詰めていく一人の女性、イヴ・ハリントンをアン・バクスターが演じる。
イヴは当初、田舎から出てきたあか抜けないが、誠実な若い女性を体現している。背中が擦り切れかけたステンカラーコートに、刑事コロンボだってかぶりそうにはないようなセンスのない帽子。金も、センスも、演劇界での人脈もない、一人の孤独な女に見えるからこそ、演劇界の重鎮たちが無警戒に受け入れるのだ。
しかし、その重鎮たちの一人であるトップ女優、マーゴの付け人となるや、イヴはその抜け目のなさと観察力の鋭さをいかんなく発揮しはじめる。そこ頃の彼女は、マーゴが「年齢に合わなくなったから」という理由で譲ってくれたダークスーツを颯爽と着こなすのである。
そんな彼女の本性をいち早く見破るのも、雇い主であり、憧れの的でもあるマーゴである。マーゴの舞台衣装を返却しに行くと言っていたイヴが、その衣装を身にまとい、鏡を見て悦に入っている姿を見てしまうのだ。
マーゴの身にまとうものがことごとくイヴを包むようになる。映画はこのあたりから、イヴ・ハリントンなる女性の空恐ろしさについて言及し始める。
このように、この映画は衣装を通じて主人公の立ち位置を示していくのだが、他の登場人物たちの衣装もまた素晴らしい。
特に、最初にイブに目を留めるカレンの衣装がいい。レストランの化粧室でバクスターに脅迫をされるシーンのジャケットは、女性らしい華やかさと、堅実な雰囲気を併せ持つ。この衣装を着たカレンが、イヴによってものの見事に俎上に上げられるこのシーンがクライマックスといえる。
さて、この作品の際立った特徴の一つとして、今までスクリーンには登場してはいない人物がラストシーンを独占することが挙げられる。
プロローグの授賞式を終えて、ホテルの部屋に戻ってくるエピローグには、イヴの「追っかけ」とも言えるファンの若い女性が登場する。まるで、マーゴの付け人になりたての頃のイブを彷彿とさせるような、若さと美貌の持ち主は、やはりイブの衣装を纏い、トロフィーを手にして鏡に魅入られる。今度は、イヴがその衣装を奪われていく立場になったことを示したこのシーンで映画は終わるのだ。
素晴らしい衣装の数々はモノクロの映像で見ても素晴らしいのだが、カラーの時代だったらどのようなカラーを採用したのだろうか。そんな、衣装への興味が尽きない作品である。
うその語りで始まり、慇懃さと無礼さを駆使し、冷徹に人を欺き使い捨てる、不自然な成り上がり方法論で突っ走るサスペンス映画。
映画はイブの語りから始まり、登場人物も観客も話を聞いて好印象を持ちやすくなるが、出来すぎの話。ちょっと怪しい。
後で明らかになるが、それは作り話であり、実際は警察に捕まるようなことをしてきたと批評家に暴かれる。
一方マーゴは、決して自分を美しいヒロインに見せようとせず、むしろ化粧を落としているときのグロテスクな顔を、平気で観客に見せつけたりする。感情移入すべきはどちらだ?
ベティデイビスはもう少し暴れる演技が強いとよかった。セリフはきついがやさしい人に見えてしまう。マーゴは、恋人、友達に我がまま呼ばわりされる役どころだが、観客には、感情豊かな彼女こそ、愛すべき人物だとすぐにわかるのである。
対照的に、イブの行動には感情が見えない。相手を欺いているときも冷徹に慇懃であり、マーゴの仲間は次々にイブにだまされるのである。
観客もイブの本心がつかみにくい。演技じゃなくて何かに素直に感動しているようにみえる場面もあるからである。
でもよく考えてみると、イブは賢くて演技の才能もあるらしい設定であるから、人の気を悪くすることの意味を知っているはずである。そしてイブの好きな演劇こそ、まさに人の心を知ることに長けていなくてはならないはずだ。だからイブは確信して人を欺いている、と結論できる。そのことは、役を得るための脅しの場面で決定的になる。
それにしても、イブは、わざわざマーゴの仲間の間に亀裂を生じさせてまで、舞台の役を短期間に得ようとしているが、彼女はもともと優れた演劇の才能の持ち主である。むしろマーゴの仲間に気に入られて役をもらう方が、協力も得られてよいのではないかと。
この不自然さ、が観客の気持ちを不安定にさせるのである。
言い換えれば、役を得るという目的を、意味のない手段を使って成し遂げようとする、一人の変わった女の姿に、違和感と不安感を覚えるのである。
彼女の被っていた「変な帽子」は、その暗喩かも。
さて、ラストシーンでは、部屋に無断進入した高校生の面倒を見るシーケンスがあるが、ここにきてなぜだか、冷徹だったイブが消え去り、あっさり女子高生の言うことを受け入れるお人よしに変わり、部屋に泊めるかもしれない親切さを示しているのはなぜ?
たった8か月前に、他人の人のよさにつけこんで、舞台の役を得ようとしたイブ。
奪うことよりも与えることを学んだということなのか?いや、彼女とて、野望に狂う前までは、人に愛を与える側にいたのかもしれない。才能がそれを助けていたにせよ。
人の愛を知らずに、人に愛を与えられようか、そして人から愛されようか。イブにはそう言ってやりたい。そしてあの女子高生にも。
素晴らしい!!!
初めてこの映画を見たとき、感動で茫然とした。
「素晴らしい映画」と言っていいのか、「映画って素晴らしい」と言っていいのかわからない。
このモノクロ映画は、非の打ちどころがなく素晴らしいものだが、
登場する俳優は、なんと全員素晴らしい。
たまたまこんな俳優が揃ったのか、1950年当時はこのようないい俳優がたくさんいたのか、また俳優は素晴らしいのが当然のことだったのか・・・と考えてしまう。
この映画のテーマは、ひどくありふれているかもしれない。
映画の中で起こる事件もたいした出来事ではないかもしれない。
しかし、この映画は耐えがたいほど現実味を帯びていて濃いものだ。
特に、マーゴは素晴らしい。
セリフも演技も素晴らしすぎて、一瞬も画面から目が離せない。
見終わるとヘトヘトになるが、これまで見た映画の中では、かなり好きな作品だ。
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