「本当に、『Chronik(ドイツ語:年代記)』だった…。」アンナ・マグダレーナ・バッハの日記 とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
本当に、『Chronik(ドイツ語:年代記)』だった…。
ヨハン・セバスチャン・バッハの2番目の妻が、出会いから結婚して生涯を共にするその様子を淡々と語る。
誰にどんな音楽を献呈したかとか、子どもがどうしたとか、転職せざるを得ない理由や、職場内での抗争とその対処など、ドラマとしておもしろそうなエピソードが語られるのだが、感情的な高ぶりも、抑揚すらなく、事務的な文書や教科書を読み上げる如くのナレーションが続く。
唐突に出てくる台詞も棒読み。簡単な会話のみ。子役の方が自然に見えたくらい。
バッハと、その年代や演じている人々(役者)に詳しくない私には、今誰と誰が離しているのかさえ判らない。バッハも、音楽室に飾ってあったあの肖像画と似ても似つかない。
この映画の世界観への導入すらもなく、突然、始まる。まったくの説明不足。妻が書いた日記の読み上げなのだが、妻自身の気持ちの表現もなく、起こった事柄や、夫であるバッハの動きのみが綴られる。
なんとも優しくない映画。鑑賞者の存在さえ、忘れているような…。
それでも、生きている間から、天才と名高い、評価も高いと”習った”バッハが、実は自分の職場に満足していなかった様子とか、今の”上司”にあたる人に翻弄された様子とか、そこで何とか自分らしい仕事ができるようにと画策した様子が見て取れ、親近感を覚えてしまう。
生み出した傑作の数々。バッハの希望通り、最初の”宮廷音楽家”で生涯を終えていたら、あれだけの曲は生まれなかったのではないだろうかとか、別の曲が生まれたのだろうかとか、感慨深い。
尤も、出版されている『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』はフィクションであり、Wikiには、この映画との関係は明記されていないし、出版されている物を読んでいないので、この映画のエピソードが実際にあったことか、フィクションかはわからないけれど。
基本、全編音楽。演奏風景の合間に、日常の一コマや、楽譜、風景が挟まれる。それらをバックに、妻のナレーションが語られるのだが、演奏に聞き入る時間も多い。
バッハを演じられたのは、チェンバロ奏者とか。この映画が企画されたときはまだ無名の駆け出しだったのだそうだが、のちに大御所になったとか。ああ、だから台詞棒読みなのね。
ちなみに、妻役をなさった方もプロの歌手だそうだ。
その方の鍵盤楽器をひく手元から楽団全体像へとか、教会の片隅に押し込められたような楽団の演奏を、教会の隅から眺めるような構図とか。実際に、その演奏会に立ち会っているような気持になる。主客ではなくて、なんとか演奏会に潜り込んで聞いているような、隅の方に追いやられる程度の格の客として参列しているような。演奏されている場所が、コンサートホールや貴族の客室ではなく、教会なので、ミサとかの流れで奏でられる音楽なのだろうと、敬虔な祈りのような気持ちにもある。そんな風にやっと潜り込めたから、聞き漏らすまいという気持ちにもなってくるから不思議だ。
いろいろなレビューを読むと「斜めの構図」の独特さが指摘されている。私からすると、今のような音楽ホールでの演奏ではない場所での演奏を、演奏者全員を画面に収めようと必死に構図を工夫したようにも見え、正面から見ているよりも、高揚してくる(旅行先で、性能のよくないカメラで、全体を写そうと躍起になっている気分を思い出す)。
映画作成時点での、古楽器や、当時の風俗、教会等のインテリアにもわくわくしてくる。音楽ド素人の私には、あんな壁はめ込み式の鍵盤楽器があったのかとか、鍵盤が上下二段になっている楽器があったのかとか、あれはトロンボーン?とか、知的好奇心が止まらない。
しかも、かなり昔に訪れた、ライプツィヒ・ドレスデン・ポツダム…。聖トーマス教会、サンスーシー宮殿。1980年代はまだ、ドイツは西と東に分かれていた頃だから、現地ロケはかなわなかったのかななどと懐かしさとともに鑑賞できた。
とはいえ、ドラマチックな展開やわかりやすい展開を望む人には合わない映画。
音楽に浸る方や、映画の構図等映画のテクニックに興味がある方には面白いかもしれない。
(図書館での上映会にて鑑賞)