雨のしのび逢い(1960)のレビュー・感想・評価
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1950年代後半、フランス西海岸の田舎町。 港に近いが、漁港ではな...
1950年代後半、フランス西海岸の田舎町。
港に近いが、漁港ではなく、工業地帯の一角のような風景の町だ。
アンヌ(ジャンヌ・モロー)は、町民のほとんどが勤める製鉄所の所長の妻。
ある日、いつものように港通りのピアノ教師の家で8歳になる息子ピエールのレッスンを見守っていたが、窓の外で突然女性の悲鳴が響きわたり、人声などで騒がしくなった。
窓から外を見ると、同じ建物1階のカフェに人々が集まって来、やがて警察車両も到着する。
レッスンを切り上げ、群衆の集うカフェに行くと、中の床でひとりの女性が息絶えたように倒れ、男が倒れた女性の上へかがみこんで愛撫をしていた。
警察官のひとりが男を引き離し、警察車両へと連行するが、途中、アンヌと目が合ってしまう。
アンヌは男の眼のなかに、ある種のパッションを感じ、なにか取り憑かれたような感じで、翌日、息子の散歩を装って、くだんのカフェを訪れる。
終業にはまだ早い時間とあって閑散としたカフェには、昨日、現場に居合わせた青年ショーヴァン(ジャン・ポール・ベルモンド)が手持ち無沙汰にしており、アンヌにワインを勧め、自然と昨日の事件の話になる・・・
といったところからはじまる話で、まぁ一見すると、というか、あらすじだけ書き出すとアンニュイな倦怠期の有閑婦人の不倫話である。
なので、表面だけ見ていると、わかりやすく、なんだか馬鹿らしい話である。
が観ていくと、かなり難解な映画で、ショーヴァンはアンヌの夫が所長を務める製鉄所の工員だと名乗り、以前、祝賀パーティか何かの際にアンヌをみたことがあると言うが、彼の行動をみると、すでに鉄工所は辞めているようにみえる。
アンヌはアンヌで、いつもは昼間にワインなど飲まないのだけれどと言い訳しているが、彼が勧めることもあって、短時間のうちのグラスで4杯も飲んでいる。
どちらも、あまり本当のことを告げていない。
だから、ふたりが交わす会話の多くに嘘が含まれていて、真実を読み解くのが甚だ難しい。
その日、ショーヴァンは事件について調べてみる、とアンヌに告げふたりは別れる。
翌日、息子を連れてふたたび散歩に出たアンヌはフェリーを使って離島へ渡る。
ショーヴァンもふたりの跡をつけ、離島へ渡る。
そして、アンヌの息子が外で遊ぶ間、ふたりきりになり、ショーヴァンは一昨日の事件について知りえたことを話し出すのだが・・・
ここはかなり肝心なところで、ショーヴァンが話すことのうち、事件の男女についてのことはほんのわずかで、事件の男に仮託して、ショーヴァン自身のアンヌ対する思いが滔々と語られている。
その語り口と語る内容にアンヌは惹かれていき、自身とショーヴァンを事件の男女と同一視するほどになる。
アンニュイな倦怠から、パッショネイトな痴情へと。
さらに翌日、並木通りでふたたび逢ったアンヌとショーヴァン。
アンヌも、新聞報道を読んだので、昨日彼が語ったことはショーヴァン自身のことだと気づいているが、話の続きを聞きたくてたまらない。
自身が中心のパッショネイトな痴情の世界・・・
ここで交わされる会話は、性的愛撫と同様のもので、離島での会話が前戯であるならば、本番そのものである。
ショーヴァンは、殺された女(=アンヌ)は貞淑にみえたがその本性は淫らだったと告げ、そんな女の本性に恐ろしくて近づくことが出来ず、唯一触れる場所である彼女の首に手をかけた、と言いながら、アンヌの首を絞める仕草までする。
アンヌにとってのパッショネイトなクライマックス、絶頂の瞬間である。
しかし、絶頂の後に訪れるのは放心であり、現実への回帰である。
町のセレブであるアンヌには、鉄工所所長の妻というお仕着せで退屈な牢獄のような日々が待っている。
すでに職を辞した(もしくは解雇された)ショーヴァンは、別の町で食い扶持を見つけなければならない。
七日目、閉店したカフェで最後に、
ショーヴァン「君は死んだ方がいい」
アンヌ「もう死んでいるわ」
の会話を残し、ふたりは別れる(ショーヴァンが去るわけだが)。
このあと、アンヌは、事件の女の悲鳴に似た叫び声をあげるのだが、ここも難解だ。
ショーヴァンの台詞は「君は、あの死んだ女性のようにパッションの果てに死にたかったのだろう。死んだ方がいいんだ。だが、ぼくには君を殺すことはできない。去ることしかできない」の意だろうか。
アンヌの台詞は「あなたが去り、もとのアンニュイな生活に戻ったわたしは、もう死んでいるわ」の意だろう。
アンヌの叫びは、もとのアンニュイの世界へ戻ることへの恐怖の叫びではなく、ショーヴァンと繰り広げてきたこの7日間のパッションの世界での死、痴情死の疑似体験であり、精神世界での死の叫びなのだろう。
アンヌの叫びの後、まもなく夫がカフェへ迎えに来る。
が、アンヌはまるで死んだようだ。
夜の港町はあくまでも静寂で、やはり死んでいるようだ。
と、こう解釈したわけなのですが、とにかく難解。
全編流れるディアベリのピアノソナチネ、モデラート・カンタービレ(普通の速さで歌うように)がアンニュイで、アルマン・ティラールの横移動のカメラワークがさらにアンニュイな感じを強め、台詞のパッションと対位的です。
随所に映画的表現を用いるピーター・ブルックの演出ですが、難解な台詞のやりとりは、やはり演劇的かもしれません。
追記>
レビューを書いているうちに、なぜかイエジー・スコリモフスキ監督の2008年作品『アンナと過ごした4日間』を思い出しました。
この作品への高い評価が理解出来ない
この映画は1961年のキネマ旬報第10位作品。 原作はマルグリット・デュラスだが、 当時の評論家はこの作品の女性像の何に 共感したのだろうか。 男は憧憬、女は倦怠感の中での出会い。 しかし、男は女の単なる退屈へのはけ口と 知って女を拒絶する。 映画世界にも不倫テーマは数多ある。 しかし、「マディソン郡の橋」や 「イングリッシュ・ペイシェント」でも 不倫の当事者には それなりの形成された人格や覚悟がある。 しかし、この作品では、 女は幼い未発達人格者にしか見えない。 男の最後の言葉「あなた死んだ方が良い」 に続く省かれた言葉が 「あなたは余りにも幼すぎる」だった としか思えない。 だから、子供のピアノレッスンでの 躾エピソードは、大人にも必要な人間がいる との例えなのだろうかと考えてしまう。 この映画を評価される方は、 女への共感ではなく、 あるいは、2人の男の理性と寛容性 の側に立っての思いからなのか。 私には「人妻の心の奥底の叫び」 などという、 この作品への高い評価が理解出来ない。
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