雨のしのび逢い(1960)のレビュー・感想・評価
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会話の余白と間がすばらしい、何度でも見たくなる映画でした
雨のしのび逢い
1960年公開 フランス映画、白黒作品
ネタバレ含みます
嗚呼、フランス映画を観たという満足感があります
これぞ大人の映画です
舞台はフランス南西部大西洋沿いのボルドーが県都のジロンド県と思われます
季節はもうすぐ夏
霧雨のような雨の降る頃
主人公はそこの海辺の田舎町の大工場長の夫人アンヌ、年の頃は30歳ほど
子どもは7、8歳程の男の子ピエールが一人
夫と使用人多数の大通り沿いのお城のような大邸宅に住んでいます
邸宅は高い柵で囲われています
夫は仕事一辺倒のようで、息子のことを彼女が話しても無関心どころか、話を止めさせます
彼女に笑顔は無く、自分は籠の鳥だとの諦めがあります
愛情のはけ口は息子だけなのに、生意気になりつつあり、ピアノのジロー先生と息子のやりとりにはうんざりしています
彼女の日々の楽しみは、息子を連れて、海に近い河沿いの公園や森に散歩にでることだけです
この田舎町の男はたいてい彼女の夫の大工場で働いていますから、彼女は有名人です
親しく口を聞くことはなくとも、皆、遠目で彼女を見ています
その上、若く、美しく、上物の衣服をまとっているのですから嫌でも目立ちます
ある日、ジロー先生の家の二階でいつもどおり息子のピアノレッスンに付き添っていると近くのカフェから女の悲鳴がします
命の危険が迫っているようなものではなく、悲しみを訴えているような嘆きの叫びです
アンヌも息子を連れてそのカフェに野次馬の一人となります
物語はこうして始まります
カフェといってもフランスなのでお洒落に見えますが、日本なら田舎の鄙びた大衆食堂兼居酒屋なのでしょう
夕方になれば工場帰りの男達が一杯飲みに立ち寄るところです
そこで殺人事件が起きたようです
既に警察がいて、調べ始めているようです
カフェの床に眠ったように横たわる美しい女性と、とりすがる悲しい顔をした犯人と思しき男の姿を、アンヌはガラス越しに見ます
多くの野次馬の中にその彼女を見る一人の男がいます
美男子でもなく、若くもなく、老いてもいない
どことなく、カフェの殺人事件の犯人に似ています
殺人事件のあらましを知りたくて彼女は翌日も息子を連れてカフェに行きます
子供を連れて行くのは出歩く口実にすぎません
まだ夕方前なのに女独りでワインを注文します
喉が乾いているといいさらにもう1杯
カフェの男達は皆好奇の目で彼女を見ています
そこに昨日の男もいて、そこで二人は初めて会話します
もう一杯如何?
一瞬ためらいますが頷いています
殺人事件のこと何かしらない?
調べておきますよ
それで男は彼女が翌日もまたカフェに来ると確信します
果たして翌日も彼女は息子を連れてカフェに来て、彼がいないのをガラス越しに確かめると、フェリーにのって河の対岸の小さな無人の休憩所に入ります
男はアンヌをカフェの外から始めから見ていて後をつけていて、その休憩所のようなところで、彼女に声をかけます
「(つけてきたことを)怒ってらっしゃらる?」「いいえ」
どちらの顔にも表情はありません
男は殺人事件の二人について知ったことを話ます
「半年ほど前から知り合いで、造船所の仕事に向かう男と、それを毎日見守る女だったと
そして女は気付いた
自分の退屈に
ずっと退屈だったことに」
つまり、あなたと自分の関係と同じだと
「会話をしたきっかけは?」
彼女は聞きます
女はあなたのような邸宅に住み、退屈だったのだと男は語ります
男も見つめられていることに気が付き、ついに二人は一線を越えてしまったと言います
本当はその話は全部ショーヴァンと名乗るその男のでまかせだったのかも知れません
主人公とそうなりたいと彼のの願望を言っただけかも知れません
アンヌはその話を聞いて、色々いいますが結局は自分も退屈しているということでした
「何で男は女を殺したの?」
「わかりません」
「女が殺してと頼んだのかも」
それを聞いたときのジャンヌ・モローの表情の名演技!
そこには深い納得と、自分もそう頼む事になるのかも知れないがそれでもいいという覚悟が見て取れるのです
それから二人は互いの姿を求めるようになります
誰かに見られたら?
もう町中のうわさよ
そして二人とも笑うのです
もう止まらない
本作の原題はモデレートカンタービレ
「歌うように中くらいの早さで」という意味の音楽用語です
なのにこの二人のテンポは早すぎなのです
まるで、突然炎のごとく燃え上がってしまったのです
二人は肩を並べて誰もいない黄昏時の河話沿いの公園を歩きます
波のない静かな河口を進むフェリーの小さな機関音と暮れていく河の音、しっとりと濡れた草樹、路面、造船所に続く貨物線のレールの陰影などの雰囲気にため息がでます
続く松の木に彼女がもたれて口づけを待つシーン
男は顔を寄せて両手で彼女の頭を掴み揺らします
まるで濡れ場のように彼女は恍惚の表情を浮かべます
なんとエロチックなシーンでしょうか
しかし、結局、彼は口づけをしないのです
そしてこんな会話をします
来ないはずでは?
そのつもりだった
きっとあの事件のせいよ
ここで私達観客は初めて気が付きます
アンヌとショーヴァンは、あの殺人事件で初めて顔を合わせたのではないと
前々から、アンヌは毎日、仕事に向かうショーヴァンを邸宅から見つめていて、ショーヴァンもアンヌを見つめていたのです
ショーヴァンが前にした殺人事件の男女の話は、やっぱり自分たちのことを言っていたのです
そして、殺人事件の男女のことを話す体で、男は人里離れた海沿いの家でアンヌと過ごしたいと言うのです
肩を抱き手を握られながら、「出会ってから間もないのに、なぜあんなことに?」とアンヌは聞きます
そのとき、小さな可愛い女の子の転がす輪が二人に当たります
輪とは、指輪と同じリングとも言います
この偶然が起こしたことをきっかけにしてショーヴァンはついに本当のことを言うのです
「ある時、女を見つめると別人に見えた
美しくもなく、若くも、老いてもいない、死んでもいない
女に死んで欲しい思うまでに時間を要した」と
つまり、なんで人妻のアンヌにいままで夢中になってしまっていたのかと
アンヌがいなければ、仕事も辞める事はなかったのだと思い当たったのです
彼女は足元の新聞を覆う海鳥の羽をハイヒールでどけます
恋人が絞殺と見出しが見えます
ショーヴァンは言います
「遂に女は理解
自分がどんな人間か
例えるなら・・・」
彼女がつづけます
「みだらな女」と
ショーヴァンはそれを否定せず「それに男が気づいた時、もう女に触れられず・・・」
彼女はのどをさすり、「ここを除いてはよね」とアンヌは
言います
ショーヴァンは肯定して、アンヌを帰します
すっかり暗くなった公園からアンヌは振り返りつつ離れていくのです
翌日、カフェにはショーヴァンの姿はなく、仕方なく彼女は息子を連れて公園に向かいます
恥を知りなさい
よく言われます
ジロー先生との会話
全部ウソだ
息子の鹿の話の言葉
どちらも妙にアンヌに突き刺さります
屋敷に戻って、使用人の棘のある無言の視線にいわなくてもよいのに公園に寄って遅くなったとかくどくど言い訳します
その夜は、屋敷で夫のパーティーがあり、夕暮れから続々と客の車が柵の中に入って行きます
しかし彼女はまたもカフェに男の姿を探しにゆくのです
店の男達は彼女を見るなり静まり返り、冷たい目を向けます
隠れるようにいたショーヴァンは
お戻りで?と言います
屋敷ではなく、自分にという意味なのでしょう
「あなたを愛しているから
何と言えばいいのか
もう分からない」
アンヌはもう暴走しています
だから彼はこういうのです
「男は出会った瞬間から殺したかったのかも
間違えていたのかも
あなたに出逢う前の僕は
自分がわからず
帰って下さい」
アンヌは今夜はパーティーがあるがでたくない
この後会って欲しいと懇願しますが、「もう会えません」と拒絶されます
仕方なくアンヌはカフェから邸宅に戻ります
豪華なご馳走が次々に運ばれてくるパーティーにアンヌはいますが、ちっとも楽しそうには見えず、客達との会話も上の空で、夫も気が気ではありません
「もう結構です」
アンヌは差し出されたご馳走の皿を断ります
隣の紳士が「モクレンの香りのせいかな」と助けをだします
モクレンの花言葉は「忍耐」「威厳」「崇高」です
アンヌには嫌みにきこえたかも知れません
見かねた夫が声をかけますが、アンヌはショーヴァンがいった人里離れた海辺の家に行きたいと口走ってしまうのです
息子ピエールをだしにして
食事も終わり、彼女は自室に戻ります
ベッドの下に仰向けに倒れ込みます
まるでカフェで殺された女のように
そしてこっそりと邸宅を抜け出しカフェに行くのです
ショーヴァンは結局カフェで閉店までアンヌを待っていましたが、アンヌがこないので、一度は店の外にでてアンヌを待ちます
一方アンヌの夫は使用人から聞いていたであろう、あの川沿いの公園まで車でアンヌを探しに行きます
その車を見てショーヴァンはアンヌが来ることを察して店に戻ります
アンヌとショーヴァンはやっとカフェで会えます
ショーヴァンは町をでて、もう永遠に戻らないといいます
私達にこんなに早く終わりが
くるなんてとの会話が交わされます
許されない愛
そんな愛もある
7日間だけの
二人は手を重ねます
時間が経てば許されるかも知れないとアンヌは言います
背を向けるショーヴァンにアンヌは身を寄せて
怖いと繰り返します
死ぬべきだ
アンヌは小さく声を上げ、その場に崩れます
首を絞められるのを待っていたのに殺してくれなかったのです
もう死んだわ
命は殺されなくとも、心はショーヴァンに殺されたのでした
足音を立ててショーヴァンが出て行くとアンヌはあの殺人事件の女のような悲しい悲鳴のような泣き声をあげます
アンヌの夫はカフェでアンヌを見つけて彼女を乗せて邸宅に連れ帰ります
そこでFINがでて
モデレートカンタービレでのピアノソラチネが流れ映画は終わるのです
物憂い余韻に何時までも浸っていたくなります
会話の余白と間がすばらしい、何度でも見たくなる映画でした
ハッピーエンドだったのでしょうか?
バッドエンドだったのでしょうか?
少なくとも第二の殺人事件は無く終わったのです
心の殺人事件はあったかも知れませんが
それとももしかしてこれから第二の殺人事件はあるのかも?
私はもう死んでいる
フランスの作家、マルグリット・デュラスが原作の映画。
原題は"Moderato Cantabile"だが、小説のタイトルでもあるようです。
元旦に鑑賞しました。じっくり観るとなかなかいい映画でした。
不倫というには、あまりに禁欲的。メロドラマというには、あまりに観念的。ブルジョワマダムの愛の不毛というには、あまりにも地味すぎる。原題の「モデラート・カンタービレ」のフレーズが映画を見終わった後も耳についています。
フランス南西部、海辺沿の小さな田舎町。その鉄工所の経営者の妻であるアンヌ(ジャンヌ・モロー)が、子供のピアノレッスン中に女性の悲鳴を聞くことから物語が始まる。レッスン所の階下にあるカフェで殺人事件が起こった。男が女を愛するあまりに殺害を起こしてしまったらしい。横たわった女の上に男がかぶさり抱きかかえる。愛しているとつぶやき、女から離れようとしない。その光景を見たアンヌの心が突然、火がついたようにざわざわしはじめたのである。激しい情熱を心が求めていたのか、殺してしまいたいほどの情熱に心が揺れ動いてしまったのである。そして、鉄工所の工員の若い男性(ショーヴァン/ジャン=ポール・ベルモンド)から話しかけられ、事件について語り合っているうちに、二人は愛し合うようになってしまう。
あらすじだけ書くと通俗的でつまない感じがしますが、映画全体は非常に文学的。読書において行間を読むという言葉がありますが、映画の場合、余白を読むとでもいうのでしょうか。台詞を抑えた描写で鑑賞者はいろいろと考えさせ(感じさせ)られます。
ジャンヌ・モローのまぶたを閉じて悶えるような演技が見所なのですが、感情を抑えて接するジャン=ポール・ベルモンドも地味ながらよかったです。アンヌの心の動きが主に描かれますが、男は前々からアンヌに憧れを持っており次回の逢瀬を約束しようとしたりします。「勝手にしやがれ」のような、やんちゃさと元気さはありませんが、ベルモンドはこんな役もこなせるんだぁ。時期的には「勝手にしやがれ」のすぐ後に公開された作品のようです。もしも、この役をアラン・ドロンが演じたら...ロマンスの要素が加味され、モローとドロンの目力の強さがバッティングしてしまうのではないか。ベルモンドでよかった。
男と女には距離があり、情事に至るまでにはいかず、くちびるを重ねる描写さえありません。手と手が触れあう場面があるのですが、それが妙に官能的。顔と顔が近づいただけで、胸がドキドキしてしまいました。アンヌは「つくり話でもいいから、事件の話をして」とショーヴァンにせがむ。ショーヴァンは待ってましたかのように、自分たちの境遇と重ね合わせて、男女の物語を語る。二人にとって、この「会話」はすでに愛の交歓なので、エロティックに感じました。この独特の「高ぶり」の中でアンヌは恍惚となっているようでもありました。
時間的な流れはよくわからなかったのですが、最後に二人が逢瀬を重ねたのはたった7日間(7夜)だったことがわかります。「僕がいると君は散歩もできない」とショーヴァンは言い、「君は死んだ方がいい」とまで言い放ちます。アンヌは「私はもう死んでいる」と言い、雄叫びのような声を上げて、カフェの中で倒れ込みます。事件の女性が悲鳴を上げたように。男は静かに去っていきます。
アンヌの旦那が車でカフェの前まで来てアンヌは車に乗り込み、現実に戻って、映画はFIN。
タイトルなし(ネタバレ)
1950年代後半、フランス西海岸の田舎町。
港に近いが、漁港ではなく、工業地帯の一角のような風景の町だ。
アンヌ(ジャンヌ・モロー)は、町民のほとんどが勤める製鉄所の所長の妻。
ある日、いつものように港通りのピアノ教師の家で8歳になる息子ピエールのレッスンを見守っていたが、窓の外で突然女性の悲鳴が響きわたり、人声などで騒がしくなった。
窓から外を見ると、同じ建物1階のカフェに人々が集まって来、やがて警察車両も到着する。
レッスンを切り上げ、群衆の集うカフェに行くと、中の床でひとりの女性が息絶えたように倒れ、男が倒れた女性の上へかがみこんで愛撫をしていた。
警察官のひとりが男を引き離し、警察車両へと連行するが、途中、アンヌと目が合ってしまう。
アンヌは男の眼のなかに、ある種のパッションを感じ、なにか取り憑かれたような感じで、翌日、息子の散歩を装って、くだんのカフェを訪れる。
終業にはまだ早い時間とあって閑散としたカフェには、昨日、現場に居合わせた青年ショーヴァン(ジャン・ポール・ベルモンド)が手持ち無沙汰にしており、アンヌにワインを勧め、自然と昨日の事件の話になる・・・
といったところからはじまる話で、まぁ一見すると、というか、あらすじだけ書き出すとアンニュイな倦怠期の有閑婦人の不倫話である。
なので、表面だけ見ていると、わかりやすく、なんだか馬鹿らしい話である。
が観ていくと、かなり難解な映画で、ショーヴァンはアンヌの夫が所長を務める製鉄所の工員だと名乗り、以前、祝賀パーティか何かの際にアンヌをみたことがあると言うが、彼の行動をみると、すでに鉄工所は辞めているようにみえる。
アンヌはアンヌで、いつもは昼間にワインなど飲まないのだけれどと言い訳しているが、彼が勧めることもあって、短時間のうちのグラスで4杯も飲んでいる。
どちらも、あまり本当のことを告げていない。
だから、ふたりが交わす会話の多くに嘘が含まれていて、真実を読み解くのが甚だ難しい。
その日、ショーヴァンは事件について調べてみる、とアンヌに告げふたりは別れる。
翌日、息子を連れてふたたび散歩に出たアンヌはフェリーを使って離島へ渡る。
ショーヴァンもふたりの跡をつけ、離島へ渡る。
そして、アンヌの息子が外で遊ぶ間、ふたりきりになり、ショーヴァンは一昨日の事件について知りえたことを話し出すのだが・・・
ここはかなり肝心なところで、ショーヴァンが話すことのうち、事件の男女についてのことはほんのわずかで、事件の男に仮託して、ショーヴァン自身のアンヌ対する思いが滔々と語られている。
その語り口と語る内容にアンヌは惹かれていき、自身とショーヴァンを事件の男女と同一視するほどになる。
アンニュイな倦怠から、パッショネイトな痴情へと。
さらに翌日、並木通りでふたたび逢ったアンヌとショーヴァン。
アンヌも、新聞報道を読んだので、昨日彼が語ったことはショーヴァン自身のことだと気づいているが、話の続きを聞きたくてたまらない。
自身が中心のパッショネイトな痴情の世界・・・
ここで交わされる会話は、性的愛撫と同様のもので、離島での会話が前戯であるならば、本番そのものである。
ショーヴァンは、殺された女(=アンヌ)は貞淑にみえたがその本性は淫らだったと告げ、そんな女の本性に恐ろしくて近づくことが出来ず、唯一触れる場所である彼女の首に手をかけた、と言いながら、アンヌの首を絞める仕草までする。
アンヌにとってのパッショネイトなクライマックス、絶頂の瞬間である。
しかし、絶頂の後に訪れるのは放心であり、現実への回帰である。
町のセレブであるアンヌには、鉄工所所長の妻というお仕着せで退屈な牢獄のような日々が待っている。
すでに職を辞した(もしくは解雇された)ショーヴァンは、別の町で食い扶持を見つけなければならない。
七日目、閉店したカフェで最後に、
ショーヴァン「君は死んだ方がいい」
アンヌ「もう死んでいるわ」
の会話を残し、ふたりは別れる(ショーヴァンが去るわけだが)。
このあと、アンヌは、事件の女の悲鳴に似た叫び声をあげるのだが、ここも難解だ。
ショーヴァンの台詞は「君は、あの死んだ女性のようにパッションの果てに死にたかったのだろう。死んだ方がいいんだ。だが、ぼくには君を殺すことはできない。去ることしかできない」の意だろうか。
アンヌの台詞は「あなたが去り、もとのアンニュイな生活に戻ったわたしは、もう死んでいるわ」の意だろう。
アンヌの叫びは、もとのアンニュイの世界へ戻ることへの恐怖の叫びではなく、ショーヴァンと繰り広げてきたこの7日間のパッションの世界での死、痴情死の疑似体験であり、精神世界での死の叫びなのだろう。
アンヌの叫びの後、まもなく夫がカフェへ迎えに来る。
が、アンヌはまるで死んだようだ。
夜の港町はあくまでも静寂で、やはり死んでいるようだ。
と、こう解釈したわけなのですが、とにかく難解。
全編流れるディアベリのピアノソナチネ、モデラート・カンタービレ(普通の速さで歌うように)がアンニュイで、アルマン・ティラールの横移動のカメラワークがさらにアンニュイな感じを強め、台詞のパッションと対位的です。
随所に映画的表現を用いるピーター・ブルックの演出ですが、難解な台詞のやりとりは、やはり演劇的かもしれません。
追記>
レビューを書いているうちに、なぜかイエジー・スコリモフスキ監督の2008年作品『アンナと過ごした4日間』を思い出しました。
この作品への高い評価が理解出来ない
この映画は1961年のキネマ旬報第10位作品。
原作はマルグリット・デュラスだが、
当時の評論家はこの作品の女性像の何に
共感したのだろうか。
男は憧憬、女は倦怠感の中での出会い。
しかし、男は女の単なる退屈へのはけ口と
知って女を拒絶する。
映画世界にも不倫テーマは数多ある。
しかし、「マディソン郡の橋」や
「イングリッシュ・ペイシェント」でも
不倫の当事者には
それなりの形成された人格や覚悟がある。
しかし、この作品では、
女は幼い未発達人格者にしか見えない。
男の最後の言葉「あなた死んだ方が良い」
に続く省かれた言葉が
「あなたは余りにも幼すぎる」だった
としか思えない。
だから、子供のピアノレッスンでの
躾エピソードは、大人にも必要な人間がいる
との例えなのだろうかと考えてしまう。
この映画を評価される方は、
女への共感ではなく、
あるいは、2人の男の理性と寛容性
の側に立っての思いからなのか。
私には「人妻の心の奥底の叫び」
などという、
この作品への高い評価が理解出来ない。
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