「何故「アマデウス」なのか?」アマデウス あんちゃんさんの映画レビュー(感想・評価)
何故「アマデウス」なのか?
40年前の劇場公開時に観た。それ以来である。当時は単に何か凄い映画だとしか思わなかったけど、今となってみれば色々感じるところがある。
これはモーツァルトの伝記映画ではなく、おそらくモーツァルトは主役ですらない。主役はあくまでサリエリであって、これは生涯をかけて神と対峙した音楽家の物語なのである。だからモーツァルトの天才性は作品の中で存分に紹介されているものの、すべての現場にサリエリが居合わせ、サリエリとの対比で示されている。そしてその音楽性の差は大きく、とても縮められる可能性はない。つまり神と人間の差の域なのである。
かねて疑問に思っていたのは、この作品、もちろん原作であるピーター・シェーファーの戯曲のタイトルがなぜウォルフガングでもなくモーツァルトでもないのかということ。これは、妻や友人が呼ぶウォルフガングとして人間性を描くのではなく、楽聖モーツァルトとして音楽を描くのでもない、サリエリからみた彼の本質がアマデウスだったということなのだろう。そう、アマデウスはラテン語で「神に愛される」という意味。
原作および映画は、レクイエ厶の発注者が誰かというモーツァルトの生涯における最大の謎を取り上げ、サリエリの陰謀と、それが故、彼が以降30数年に渡って苦しむことを描いていく。
映画の最後、サリエリが「私はこの世の凡庸な者の頂点であり、凡庸な者たちの守り神である」の言いながら、精神病院の廊下を車椅子で進みつつ患者たちに許しを与えていくところ、ミロシュ・フォアマンのもう一つの代表作「カッコーの巣の上で」を思わせるところがありましたね。でも40年前には全く沁みなかったこのシーンが今となってはよく分かる。
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