劇場公開日 2006年5月20日

「地方が置かれた境遇の中でも家族の断裂を修復」雪に願うこと talkieさんの映画レビュー(感想・評価)

3.0地方が置かれた境遇の中でも家族の断裂を修復

2024年11月22日
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鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>
ここで働いてみるか。
こき使ってやる。

経営していた会社を潰し、債権者から逃げるように故郷・北海道(帯広市)に逃げ帰って来た弟の学-。

会社の後始末をすることもなく、世話になった債権者たちにも「後足で砂をかける」ようにして逃げてきた無責任さは、覆うべくもないことだったとも思います。

学が家業を捨てて上京するのとにしたことには、学がばんえい競馬の厩舎という家業を嫌ったから-だとは、にわかには断定できないことと思います。評論子は。

本作の舞台として設定されている「ばんえい競馬」は、馬産地・北海道に根づいた娯楽として多くのファンに支えられて来てはいたものの、娯楽の多様化に伴い、当時から、すでに衰退の兆しが見え始めていたことは、想像に難くありません。
(現にばんえい競馬は、一時は岩見沢・北見・旭川・帯広の4市の共催でしたけれども、3市が撤退し、令和の現在では、重種馬(主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種の馬で、体格がよく、持久力がある)の主産地である帯広市の単独開催となっています。)

本作でも、家業をとして守り抜こうとする威夫とは違って、学は、ばんえい競馬のそういう衰退を、肌で感じ取っていたとも言えそうです。

そして、離陸の時は最後に地面を離れ(景気が快復するときは他の地域から遅れて快復し)、着陸の時は真っ先に着地する(景気が下向く局面では真っ先に底を打つ)旅客機の後輪にも例えられる北海道の景気動向からすれば、学が北海道で起業することを諦めて上京することを選んだこと、それ自体は、むげに責められるべきことではなかったかとも思います。

かてて加えて、高度経済性長期には、集団就職などで人材を東京に供出し、自らの地域を寂れさせてきたことは、本作の舞台である北海道も、他の地域とまったく変わりはな
く、その陰では、故郷に残って老母の面倒をみながら家業を続ける威夫と、故郷を離れる(一面では故郷を離れざるを得ない)学とのような「家族の断裂」も、少なくなかっ
たものとも思われます。

本作でも、威夫の学に対する怒りは、直接には家業を捨てて上京した学に対するものですけれども、威夫とて(厩舎という事業を経営している以上、前記のような北海道が置かれている景気動向にまったく感覚がない訳ではないでしょうから)その背後には、家族が引き裂かれざるを得ない社会情勢、北海道の経済構造に対する怒りも含まれていたと評したら、それは、評論子の勝手な思い込みと言われてしまうでしょうか。

現に、小学校時代の同級生・加藤から学の居場所が債権者の代理人弁護士(?)には判明してしまいますけれども。
しかし、最初に厩舎に(この弁護士から?)かかってきた電話には、応答した威夫が、あいまいな返事をして切ってしまってもいます。

冒頭の映画のことばは、そのきつい言い回しとは裏腹に、学を(断裂の再生をすべき)家族として受け入れる意思表示でもあったのだろうと思います。

しかし、放漫経営からか会社の経営には失敗し、いわば「挫折して東京から敗走してきた」学も、家族のように苦楽を共にしながら(馬主から預かっている馬の病死も家族の死のように悲しみながら)厩舎を続けるために早朝から酷寒の中でも働き続ける厩舎の使用人たちや、父親の遺志を継ごうとする女性騎手をのひたむきな姿に接するなかで、どうしてもレースに勝つことができず、馬刺になる寸前?のばんば(ばんえい競馬の出走馬)・雲龍に自分を重ね合わせることで、断裂してしまっていた「家族」を取り戻して、再起の決意を固めることができたということなのだと思います。

再び上京した学は、おそらくは、迷惑をかけた債権者らに対する「お詫び行脚」から再起を始めたことと、評論子は信じて疑いません。

本作は、評論子が入っている映画サークルの「映画を語る会」のような催しで「北海道が舞台の映画」というお題が設定されたときに、真っ先に脳裏に浮かんだ作品として、十数年ぶりに再観したものでした。
往時の感動が、少しも薄らいではいなかった一本とも言えました。

それやこれやを併せ考えると、佳作としての評価も、本作には惜しくはないものとも思います。
評論子は。

talkie