劇場公開日 1995年3月4日

「『雲の王国』と並び立つ異色作」映画ドラえもん のび太の創世日記 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0『雲の王国』と並び立つ異色作

2024年10月29日
iPhoneアプリから投稿

『雲の王国』と並んで異色の一作。

夏休みの自由研究に難儀したのび太がドラえもんから与えられたのは「創世セット」というひみつ道具だった。

「創世セット」とは読んで字の如く世界を創り出すことのできる道具。のび太はドラえもんのアドバイスを受けながら宇宙を誕生させ、地球を誕生させ、ついには生命をも誕生させる。

生命はやがて人類へと進化を遂げ、原始的な集落を形成する。そこにはのび太やジャイアンに似た人々が存在し、現実世界と同じような人間関係を取り結んでいた。

以後、本作の物語の重心は、現実世界ののび太一行から時代の流れの中で同じような人格と人間関係を反復する「のび太たちに似た人々」へと移行していく。

時代によって登場人物たちの人格や関係性が少しずつ変化していくのが面白い。まるでガルシア・マルケス『百年の孤独』のごとき一大叙事詩を目の当たりにしているようだ。

中世期、貧乏暮らしののび太老爺は帰り道に虫の子供のような生き物を拾う。老爺の介抱により弱りきっていた虫の子供は一命を取り留める。実はその生き物は人間と並行して知性を得た昆虫人の子供だった。老爺は子供を助けた恩返しとして大量の金銀財宝を得る。

さらに時代は下り産業革命期。先祖が得た莫大な富を運用しコンツェルンを形成するまでに大成した野美のび秀は出木杉そっくりの博士・出来松博士、しずかそっくりの秘書・源しず代らとともに南極探検を行う。

南極の中心に穿たれた穴を飛行船で下降するのび秀一行。地下に広がっていたのは昆虫人が住まう地底国家だった。昆虫人は5億年前に起きた「神様のいたずら」によって地上世界を追われ、以後は地底でひっそりと暮らすことを余儀なくされていた。しかし長らく地底で科学力を蓄えてきた昆虫人たちは、いよいよ地上世界の奪還に乗り出すところだった。

昆虫人はのび秀一行に自らの科学力を見せつけることで地上世界の明け渡しを迫るが、のび秀たちも易々とは応じない。

一方「神様のいたずら」の原因解明にあたっていた昆虫人の少年・ビタノらはタイムマシンを駆使することで「神様のいたずら」の原因が外の世界(つまり現実世界)の人間の仕業であることを突き止め、現実世界に戻っていたジャイアンとスネ夫を「事件関係者」として誘拐する。その後、そこへドラえもんやのび太たちも合流する。

人間vs昆虫人の戦争の火蓋が切って落とされかけたまさにそのとき、現実世界のドラえもんが待ったをかける。ビタノの話を聞く中で「神様のいたずら」が自分たちの手による出来事だったことを知ったドラえもんは、そのことを人間と昆虫人に告白する。

そして二者間の領土問題を解決すべく、「創世セット」で創り出した世界の中でもう一度「創世セット」を立ち上げることでもう一つの世界を生み出し、そこへ昆虫人たちを移住させる。こうして全面戦争は回避された。

現実と空想の位相関係がぐらついたり、手に負えなくなった空想の中にさらに入れ子的な空想を立ち上げたりと、メタレベルにおける恐怖をこれでもかというほどに盛り込んだ映画だった。

しかしこれはある意味で「ひみつ道具」をデウス・エクス・マキナとして行使することで強制的に世界を元の形に矯正する『ドラえもん』という作品の非倫理性に対する自己批判だといえる。

『未来世紀ブラジル』で知られるテリー・ギリアムは、現実が空想を最終的に制御するという旧来のサイエンス・フィクションに異議を唱え続けた作家だ。彼の作品の中では現実と空想が等価で結ばれ、相互的に干渉し合う。『バンデッドQ』『バロン』などがその好例だ。

空想は現実に従属せず、時に現実をも侵食する。現実が空想を鼻で笑うのと同じように。

本作もまた、物語内の現実世界と架空世界を相互干渉可能なものとして描いている。「創世セット」によって創られた世界は生物進化の過程で自律性を獲得し、現実世界の歴史への介入を試みる。

それでも現実世界の優位性を保つべく、ドラえもんたちは「創世セット」内で「創世セット」を二重発動することで事態を収束させるが、しかしこれを収束と呼んでいいものか。「創世セット」内に創り出された世界もまたいつか何らかの形で現実世界に干渉しないとも限らない。

しかしまさにこうした煮え切らない余地を残したことによって、本作はテリー・ギリアムと同類の倫理性を獲得している。

だからなんだという話ではあるのだが、森羅万象がひみつ道具によって矯正させられてしまう『ドラえもん』シリーズにおいて、こうした作品そのものが自壊しかねないような問題意識に真っ向から取り組んだ気概は評価に値する。

とはいえ本作以降のドラえもん映画において、こうした実験的射程は明らかに鳴りをひそめていく。次に「変なドラえもん映画」が拝めるのは2008年なのだが(『緑の巨人伝』)、それについては追々書こうと思う。

因果