燃えつきた地図のレビュー・感想・評価
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「自己とは何によって成立するのか?」
1968年の東京は、オリンピック後の熱狂を経て、高度経済成長の頂点にありました。本作に映し出される風景は、まさにその変容のただ中にあります。安部公房が原作・脚本を手がけ、勅使河原宏が監督したこの映画は、その激動の時代と歩調を合わせるようにして、〈自己の揺らぎ〉を描き出します。主人公は名もなき探偵、“ぼく”。行方不明となった男・根室を追いながら、彼自身の輪郭が次第に溶けていきます。これは事件劇ではなく、「自己失踪」の記録と言えるでしょう。
<覗き込むカメラと“ずれ”のフレーミング>
カメラは常に中心を外し、植え込みや人の肩越しから“ぼく”を覗き見ます。それは主観でも神の視点でもなく、匿名の視線です。観客は「誰でもない観察者」として都市の一部に組み込まれ、まるで都市そのものが主人公を監視しているような不穏な気配が漂います。
<赤の洪水>
義弟の真紅のコート、ネオン、街路を染める照明、そして轢かれた猫の血痕。注意深く観ていると、本作は全体が赤い色彩で満たされていることに気づきます。赤は暴力や欲望、都市の脈動を可視化し、まるで「燃え尽きた地図」の焼け跡のように画面を覆っていきます。
<律儀さの摩耗(内なる地図の焼失)>
“ぼく”はきわめて真面目な人物として描かれます。車を運転しているからと酒を断り、領収書を几帳面に受け取り、自分の分をわきまえた態度で人と接します。これらは彼の〈内なる倫理地図〉と呼べるものです。しかし探偵行のなかで、彼は酒を口にし、手続きへのこだわりも薄れ、職業的な境界すら曖昧になります。都市の無秩序と虚無的な人々に触れるうちに、その地図は徐々に焦げつき、ついには完全に焼け落ちてしまうのです。
<田代(虚無を語る証人)>
渥美清が演じる田代は、「根室が撮った」と称するヌード写真を持ち出し、“ぼく”をヌードバーに誘います。しかし彼の証言は曖昧で、「全部が嘘というわけじゃない」と誤魔化すように言い残し、理由も語られぬまま自殺します。嘘と真実のあわいに立つ田代は、都市に呑まれていく“ぼく”のもうひとつの鏡像であり、〈地図のない世界〉の生き証人とも言える存在です。
<関係=救いではなく罠>
女性たちは登場しますが、関係は決して成立しません。唯一、市原悦子演じる依頼人とのベッドシーンを境に、“ぼく”は“誰もいない街”に取り込まれます。探していたはずの根室に、いつの間にか“ぼく”はなってしまうのです。孤独を埋めるはずの親密さが、逆に〈自己の境界〉を溶かし、無名の主体としての自由さを拘束してしまう。つまり、この映画において関係とは救いではなく、罠なのです。
<関係性の罠とは? (一線を越えたその先にあるもの)>
“ぼく”は、市原悦子演じる依頼人と一夜を共にします。それは恋愛感情ではなく、気の緩みや孤独、流れの中での「間違い」に過ぎなかったのかもしれません。けれども相手はそこに「つながり」を見出してしまう。
その直後、彼女が家庭的な調子で料理を作り出す場面には、粘着質な愛情の気配と同時に、“ぼく”の中に湧き上がる恐れと違和感が交錯しています。「好きでもない女とやってしまった」「相手が自分に“来ている”感じがする」という、逃れられない気まずさと、関係に飲み込まれていく感覚。それは、“囚われ”の予兆とも言えます。
その場から逃げ出した“ぼく”は喫茶店に駆け込む。しかしそこでも、市原悦子の声が聞こえ、まるで彼女がそこにいるかのような錯覚に襲われます。
現実か幻覚かも曖昧なまま、“ぼく”は都市と関係の網の目に囚われていきます。
(すべては市原悦子の演技というよりは、“絶妙なブス加減”の賜物です。そのおかげで「本気になられてしまう」怖さと、「逃げられない関係」になってしまうリアリティが出ていると思います。)
“ぼく”が感じているのは、相手の好意そのものではなく、それによって自分の輪郭が固定され、自由で無名な存在でいられなくなるという「関係性による実存の拘束」なのです。
<猫と靴音(無名化された生の終点)>
名もなき猫の死体を前に、“ぼく”は「いつか名前をつけてやる」とつぶやきます。しかしその“いつか”は訪れません。名前を与えられぬまま消えていく猫は、都市に溶けていく“ぼく”自身の暗喩です。ラストでは顔の見えない群衆の靴音だけが響き続け、個としての不在を刻みつけていきます。
<タイトル「燃え尽きた地図」の意味>
地図とは、本来、現在地と目的地を結ぶ〈自己規律〉の象徴です。しかし本作では、それが情動の炎に包まれ焼失します。愛ではない関係に取り込まれた瞬間、倫理と自己モデルは崩壊し、“ぼく”は自らの位置を見失います。燃え尽きた地図の下に残るのは、連続性を失った都市と、関係の希薄さに囚われた“ぼく”自身にほかなりません。
<総評>
本作が描くのは、単なる「都市の孤独」ではありません。地図=自己の居場所=〈存在の構造〉が焼け落ち、「自分がどこにいるのか」がわからなくなるという、より深い存在論的危機です。孤独とは、“誰にも知られていない”ことではなく、「自分自身が自分を見出せない」ことなのです。
人は他者との関係の中でしか自己を成立させることができません。しかし関係を持てば自己は溶け出し、関係を持たなければ自己は空白のままに留まります。この存在のパラドクスが本作の核心にあります。
主人公は当初、倫理的な主体でした。しかし、倫理が通用しない都市において、それは摩耗し、自己の崩壊へと至ります。ここで描かれるのは単なる“人間関係の希薄化”ではなく、「自己が自己でいられなくなる」という深刻な実存的崩壊です。
つまりこの作品は、逆説的に「自己とは何によって成立するのか?」という問いを突きつけてくる、実存主義的映画だと言えるのではないでしょうか。
鑑賞:WOWOWオンデマンド
評価:89点 (映像もテーマも抽象度が高すぎて肝心な所が伝わり難かったかも)
安部公房・「失踪三部作」の中で最も難解。。。
1968年公開、配給・大映。
【監督】:勅使河原宏
【脚本】:安部公房
【原作】:安部公房〜『燃えつきた地図』
主な配役
【男(探偵)】:勝新太郎
【根室波瑠(依頼人)】:市原悦子
【田代(失踪人の部下)】:渥美清
【探偵の妻】:中村玉緒
【依頼人の実弟(ヤクザ)】:大川修
【喫茶店「つばき」の主人】:信欣三
【「つばき」の店員】:吉田日出子
【ヌードスタジオの店員】:長山藍子
【ヌードスタジオのバーテン】:土方弘
【図書館の女】:工藤明子
1.勅使河原作品
草月流いけばなの家元でもある勅使河原(てしがはら)。
長編映画は7〜8本しかメガホンを取っていない。
そのうち3本が、安部公房の失踪三部作だ。
『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』
の順に撮影された。
私もその順に見た。
冒頭の出演者のクレジットは、すべてアルファベット表記だ。最期も、ENDで終わる。
特に意味はなかったが。
ずっと、このような「匂わせ」に振り回される。
◆図書館で蔵書にイタズラ?する女(工藤明子)とのやりとり
「腹を据えたってやつか」、「卑劣漢!」、以上(笑)
◆妻との久しぶりの再会
◆失踪した根室の部下(渥美清)のウソと自死
◆タクシーの職業斡旋するなぞの喫茶店
すべてが壮大な?ネタフリだが、失踪人の行方とは繋がらない。
2.キャスティング
勝新太郎と市原良枝。
珍しい取り合わせ。
アクションらしいアクションは全くない。
おとなしい勝新太郎を初めて見た気がする。
ボコボコにされるのみ。
渥美清を冷たく拒絶するあたりは、「らしさ」が垣間見えるが。
3.まとめ
失踪、行方不明。
どこかに隠れているのか、
事件事故に巻き込まれたのか?
さっぱりわからない。
安部公房は、都市化と孤独について書いたらしいが、
たぶん、小説のほうがわかりやすい。
『砂の女』、『他人の顔』には
逃げられないシチュエーションや顔に負った火傷という、
イメージしやすい「状況」があった。
本作には、そういう手掛かり足掛かりがまるでなかった。いや、ありそうに仄めかされたが、実際はなにもわからなかった。
私の理解力では難解すぎ。
なにも分からなかった。
☆2.0
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