鉄道員(ぽっぽや)のレビュー・感想・評価
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偉大なる映画人たちが遺した功績に思いを馳せる
東映時代の高倉健さんを全盛期とする人もいるだろうが、それ以上に「君よ憤怒の河を渉れ」「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」以降の、任侠映画のスターからイメージを脱却してからの健さんに、最近は更なる魅力を感じる。「夜叉」も最高に痺れますが、今作も何度だって観てしまう引力が溢れています。今は亡き健さん、降旗康男監督、坂上直プロデューサー、そして今年鬼籍に入られた志村けんさんの姿も確認することができる。ある意味、とても静かな作品だが夢のようなひと時を味わわせてくれる。
●降旗康男監督『鉄道員(ぽっぽや)』(1999) 神保町シアターさ...
●降旗康男監督『鉄道員(ぽっぽや)』(1999)
神保町シアターさんにて特集上映「一度はスクリーンで観ておきたい――忘れられない90年代映画たち」2024年6月29日(土)~8月2日(金)にて。
久々のスクリーン鑑賞。
高倉健さんの出演作は名作ばかりですが、特に本作は後期作品群では指折りの名作ではないでしょうか。
雪深い最北の終着駅にたたずむ佐藤乙松の立ち姿が、そのまま高倉健さん本人の生き様とオーバーラップして、一つひとつの何気ない所作が涙を誘います。
実生活での健さんとの親密さが画面からも滲み出る小林稔侍さん、公開当時これ以上ない娘役のキャスティングであった広末涼子さん、これが映画初で唯一の出演となった志村けんさんも名演でしたね。
個人的には健さんが江利チエミさんの十八番「テネシーワルツ」を口笛で吹くシーンが一番グッと来ましたね。
因みに劇中で「鉄道員(ぽっぽや)も二代で終わりか…」と言っているが、三國連太郎さんが国鉄職員、健さんがその息子を演じた『大いなる旅路』(1960)と世界線が繋がっていると思っているですが…どうでしょうか。
何度観ても泣ける名作ですね。
あの頃の広末は、、、
高倉健、そして小林稔侍が渋い。しかしなんといっても広末が輝きすぎだろ、という映画。
内容的には寡黙で愚直にぽっぽや任務を遂行する、おじさん(高倉健)の哀しいストーリー。映画としての完成度は高いと思うのだが、原作の問題だろうが、この手の「夢落ち」的ファンタジーは個人的にはちょっと受け入れ難いかな、と。
北海道の健さんは永遠だ
番外地シリーズに始まり、山田監督との三部作、そして降旗作品とかたり始めるときりがないけど、北海道の厳しくもおおらかな大地と寡黙な健さんの組合せはそれは自分のなかでは絶対だ。やっぱりこのタッグは最高級だなあ。
この作品でも乙松駅長と健さんがオーバーラップして、演じている感じがしないぐらい。改めて凄さを思い知る。
それにしても往ってしまった方ばかり。それだけでなく、この作品で重要な小道具だった牛乳瓶も消えていくらしい。でも映画は記録する。
ファンタジーなのか?
ひたむきにと言うが、ただただ鉄道員をやり続ける仕事人間の話になるよね。
降籏監督らしさはあるし良いのだけど、ちょっとそこはどうかなと思う。
雄大な自然、高齢化に伴う廃線。『原野に戻るだけだ』のセリフが刺さる。
最期まで、男の我儘で終わった映画かも知れない。
良い映画だけに、男の自己満足が鼻につく映画だった。
昭和の時代なら面白かったかも
全体に「あ、感動させに来てるな」と思うシーンの連続。
不器用だから、という理由で妻や娘の死に目に立ち会えず黙々と仕事をこなしたり、
家族や友人に自分の感情を表さなかったり、
死んだはずの娘が会いに来たり、
でもそれって他人に伝える努力を放棄してるだけだよね、というのが現在での感想になってしまう。
口に出さないことを美徳としているわりに、「こういうの格好いいでしょ?」と露骨に感動させようとしてくるので後半にはもう食傷気味。
黙々と自分の責務を果たす、という昔のアイコニックな人物像とお涙頂戴のファンタジーを混ぜた映画。この手の話に慣れた世代なら感動できるのかもしれないが、現代においてはかなり厳しい作品という評価。
高倉健という人の佇まいが生きている
高倉健だから、きっと硬派な物語、
映画と思いきやそうではない。
職務一徹、硬派であった男への
愛の物語であるように感じる。
物語は北海道のローカル線に勤務する男。
蒸気機関車の時代から職務に命を懸けた。
しかし娘、そして妻の死を遠い何処かで迎えた。
まもなく定年という頃、男に不思議な出来事が起こる。
それは夢であり、心の現実でもある。
そして、あの雪の日のホーム。
それが何とも言い難く、深い涙を誘う。
男は、きっと幸せな時を過ごしたと思う。
※
寡黙に、淡々と、冷たく
寡黙に、淡々と、与えられた任務を全うする無数の無名の人たちによって、わたしたちの社会は守られてきた。
幌舞駅長の乙松もその一人で、娘の死目に、奥さんの死目に、「勤務中なので」立ち会うことはなかった。そんな風に「冷たい」男たちによって、わたしたちの社会は守られてきた。
わたしも乙松のような男の一人であったが、そんな風に「淡々と与えられた任務を全う」した「冷たい男たちによって、わたしたちの社会は守られてきた」と弁解して話を終えて良いものだろうか。
そう思いながら映画を視た。
家族には申し訳なかったと思う。
高倉健…不器用?とんでもない!!
高倉健といえば「自分、不器用ですから…」の人。もし、高倉健が鉄道員だったら?をまさに体現したような映画ではある。
でも、それだけでは終わらない味わい深〜いのが滲み出ていて、大スターと言われる格の違いを感じた。
確かに、地味は地味なので観る人は選ぶと思う。でも、高倉健演じる乙松の真面目さ、愛情深さ、ひたむきさ…滲み出る人柄は誰もが惚れるかっこよさで魅力される。
雪深い駅にたった一人で哀愁溢れる乙松もまたかっこいい。(画になる!!)
そんな乙松が笑顔になる出来事が!よかったと喜んだのも束の間のラスト…。泣かずにはいられない。でも、乙松らしく素晴らしかった。
古き良き、失われていく昭和
国鉄時代からの鉄道員として。
セリフにもあったがこの世代を生きてきた人達は、頑固で真面目で融通がきかない人が多い。
そのうちの一人、佐藤乙松。
そして、その周りの人々を描いた。
ファンタジー要素が入ってると思ってなかったのでびっくり。そんな映画だったんだ。
そこに感動ポイントもあったんだ。
あの頃の脇役たちが、今ではおじさん世代の名優として活躍してる。
そんな発見も出来ておもしろかった。
泣いてしまった
最初は期待せず、観ていた。
健さんが観られるだけでも素晴らしい。
年齢を重ねて、さらに演技にも磨きがかかってる気がした。
健さんは最後まで江利チエミが好きだったと何かで聞いたことがあるが、
本作ではテネシーワルツがよく流れるから、健さんの本作への想いも強かったのでは
ないだろうか。
個人的には、小林稔侍、大竹しのぶ、広末涼子はミスキャストだったと思う。
それにしても、死んだ娘が、晩年を迎えた父に会いにくる。
不覚にも、泣いてしまった。
我が娘が、私に鍋を振る舞ってくれる時はくるのだろうか。
エッセンシャルワーカーの悲哀と誇り
昭和世代には、この駅長のように、住み込みで、家族ぐるみで、人々の生活を支えていた人たちがたくさんいた。駐在さん、学校の用務員さん…。
今も、人々のために働いて下さるエッセンシャルワーカーの方々はたくさんいらっしゃる。
東日本大震災でも、家族を家に残し、救助を求める人々のもとに向かった、警察官・消防士・自衛隊・行政職…。家で待っている子どもが、警察官のお父さんのことを心配して泣いていたっけ…。
コロナ禍で、家に帰ると家族にうつす可能性があるからと車中泊していた医療従事者のニュースも流れたっけ…。
昭和のTVドラマを思い出した。森繁氏が演じる医者が手術している間に、その医者の息子(鹿賀丈史氏演)が、怪我をして手術を必要とする状態になるが、他に医者がおらず手当てができず亡くなる。医者は息子がそういう状態なのを知っているのに、今手がけている手術も、中断できずー中断すればこちらも助からないからーという展開だった。命にかかわる仕事の厳しさを知ったドラマだった。
人流・物流。鉄道の力。
無人駅もあるから、駅には必ずしも駅員は必要ないのだろうとも思うが、やはり終点となると役割も違うのだろう。
都市で鉄道系が止まった時の混乱…。廃線が決まった線が第三セクターとして復活する。東日本大震災後、長らくつながっていなかった線の復旧の喜び。
やはり、鉄道もなくてはならぬ、生活を支える仕事。
その仕事と、私生活の間で、思うようには動けぬ葛藤。それが…。
自分の、後悔だらけの人生の背中を押してくれるようで、感動する人が後を絶たぬのも理解できる。
だけど…。
原作未読。
監督は何をしたかったのだろうか。脚本がグダグダ。キャスティングも…。
単なる自己弁護・自己救済・自己感傷の物語になってしまった。
乙松は決して家族をないがしろにする人ではない。
駅長就任辞令が出たとき(駅長業務が始まる直前)は、雪子出産時に病院にいる。
ツリーの飾りつけ…。静枝と一緒にクリスマスパーティの準備。
駅に集まる人々との間でも、人への思いやりにあふれている様が描かれる。
仙次に比べて出世はしていないから、組織内での立ち回りは”不器用”なのだろうが、ふだんのやり取りでは”器用”ではないが、温かい牛乳等の細やかな気配りができる人。
そんな乙松が妻子の死に目に会えなかったのは、駅長業務の代替がいなかったから。幌舞に医療機関がなかったから。
仙次のような大きな駅の駅長なら、部下に任せて行ったはず。だが、部下もいない駅長。代わる者がなかった。だから行けなかっただけ(仙次!代われ!とツッコミ!)。
幌舞に医療機関があったなら、業務がない時間は妻の側に居続けただろう。
もし、駅が機能せずに列車が走らなかったら…。学校・職場に行けず。大切な約束を果たせず。稀ではあるが、第二の雪子の悲劇が起きるかもしれない。そうさせないために、仕事を優先せざるを得なかったため。
だのに、高倉氏を起用したことで、たんに”不器用だから”となってしまう。なんだそれ。
例えば、乙松を、人情家というイメージが強かった坂上二郎氏が演じていたら、この脚本・演出でも、家族を愛しながらも、死に目に立ち会えなかった悲哀がちゃんと伝わったであろうに。
それだけではない。静枝死去の際、仙次の妻に乙松を非難させて、職場環境のせいではなく、乙松個人の問題にしてしまっている。仙次も乙松を言葉で擁護しない。妻の口を閉じさせようとするだけ。なんだそれ。
だるまやの女将が文句を言うのならともかく、とも思うが、だるまやの女将は乙松を責めたりしないだろう。雪子を目の中に入れても痛くないほどかわいがっている様を知っているから。普段の乙松・静枝夫婦ー静枝が乙松を愛し、乙松が静枝を大切にし、静枝の想いを叶えようとするさまを見ているから。
時代。
映画の中でピンクレディーが流れる。活動期間1976年~1980年。バブル直前。TVの中は狂騒的な番組であふれており、都心では皆飛ぶ鳥落とし、世界の覇者を気取っていたころ。その同じころ、石炭で生活している人々は、敏坊の父のような状態。
他に産業もなく、廃れていく幌舞…。
国鉄から、さしたる描写もなく、いつの間にかJRに変わる。唐突に、JRの”幹部”である仙次の息子へ、乙松(≒国鉄関係者)から苦言・要望が突然語られる。
国鉄からJRになるにあたって、かなりの数のリストラが敢行されなかったか?この組織変革についての描写はない。公開当時は、自明のことだったからあえての描写はないのだろうが(実際に争議もあってうかつにふれられないのだろうが)。
有無を言わさずリストラされた人、あえて自ら外の世界に飛び出した人。組織に残った人。
スト破り。本来仲間からそしりを受ける行為(炭鉱夫は仲間から袋叩き似合う)。乙松達は「年端の行かぬ子どもの達のために」と汽車を走らせる…。自分の利益ではなく、人々の為の仕事としての気概。
そういう背景あっての、鉄道で働いてきた人・働いている人の代表としての、「ぽっぽや」「それしかできない」という言葉の連呼であろうに。
そういう歴史をチラ見させるが、乙松の生きた時代が見えない。
たんに、本人の性格として、不器用・無骨に、周りの意見にも耳を傾けずに、家族を犠牲にして、自分のやりたい仕事にしがみついてきた男に見えてしまう。
原作はそんな話なのか?
役者の演技はそれぞれいい。
高倉氏は、温かくて責任感の強い初老の男を表現する。
大竹さんはやはりうまい。病室では、死にゆく人特有の匂いまで匂ってきそうだ。
でも、この二人が夫婦に見えない。親子に見えてしまう。実年齢差26歳なのだから当然なのだけれど。特に妊娠報告時の演出。幼児?
なぜ、この組み合わせ?
文句ありのキャスティング。その中で安藤氏は新鮮。安藤氏とわからないくらいの、この毒のなさ。こういう演技もできる方なんだ。こっちが素か?
そうして、鉄道員というエッセンシャルワーカーとして、時代の要請の中で、家族と人々のためにやるべきことをやり、生きた乙松の生涯が、すべて乙松の性格・生き方のせいになる。
そうして、家族を顧みずに、仕事に打ち込んだ男への賛歌となる。
ここで引っかかる。
男たちは、それでよかった、仕方なかったと自己肯定し、
男を支える女の幸せを刷り込まれた女も、この夫婦を肯定する。
本当にそれでいいの?
否。と言いたい。
男は、仕事を逃げ道にし、家族のことは置き去り。
「企業戦士だったのだから」「経済的に発展させたのだから仕方がなかったじゃないか」
定年を迎えるこの映画スタッフからは、「良い映画を撮るためだったのだから仕方がなかった」という声が聞こえてくる。
全体的に経済成長は著しかった。でも、だからどうした。
終戦時からの復興には感謝するが、経済的に発展すればいいのか?
家族を置き去りにしたツケは見なかったフリ…。
エコノミックアニマルの匂いがぷんぷんしてくる…。
犠牲自慢をして、粋がる男たち。
自分勝手な男たち。
なんて、ブラックな…。
もう一つ、腹が立つのは、妻に愛され、周りからも慕われ、気にかけてもらえるような男の人生を、「何も良いことがなかった」と言い切るところ。
乙松自身は、皆に感謝しつつ「幸せだ」と言っているのだが。
確かに、家族に先立たれる不幸はあるけれど、妻の笑顔、妻が作る食事=普段の生活にも”良いこと”はなかった?雪子が授かったのが、結婚してから17年目。妻が亡くなったのは一昨年。少なくとも、静枝との生活は18年以上ある。雪子が亡くなってからぎくしゃくした可能性はあるが、静枝の最期の言葉は、乙松への思いやり。
家族を亡くした人が、自分に責がなくとも、自分を責めるのはよくあること。こうしたら、ああしたら、仮定の後悔ばかり。乙松が自分を責めるのは仕方がない。
でも、ここで「良かったことがなかった」と言い切るのは乙松ではない。なんだそれ。
映画の制作者たちは、経済発展・華やかな栄誉にばかり目を向け、
妻との、地域の人々との生活の積み重ね=小さな日々の幸せはなかったことにする。
何を”良いこと”とするかはその人の価値観だけれど。
妻に理解され、周りの人から慕われ、リストラもされずに一生と決めた仕事をやり終えることは”良かったこと”には入らないのか?
そして、個人のせいではなく、家族を犠牲にしなければいけない仕事の仕組み・働き方…。なんてブラックな…。
もっと、乙松が”そうしなければいけない事情”をちゃんと描いて欲しかった。
妻との、地域や職場での生活を描いて欲しかった。
そのうえで、乙松の、不器用ながらも真摯に、家族に、人々に向き合った人生を肯定して欲しかった。
昭和史の総括。
そしてこれからの生き方を考えてしまった。
☆
いろいろなレビューを拝読すると、乙松と高倉氏は重なるところも多いらしい。
生まれてこれなかった赤ちゃん。
お母様の死に目より、仕事を優先したこと。
離婚されていたから、江利チエミさんの死に目にも立ち会えなかったのではなかろうか。
はじめは、この映画への出演を辞退されたという高倉氏。
テネシーワルツを使うことにも抵抗を示したという高倉氏。
どんな想いでこの映画に出演されたのだろうか。
高倉氏にとって、演じることで、カタルシスが得られたとか、良い方向になったのだと願いたいが、
人が嫌がることを強要する監督のことは、嫌いになった。
それ、ハラスメントだ。
(この監督の映画、初鑑賞)
日本国有鉄道と民営化
この手の邦画は、若い人の共感や感動は得られないと思う。
旧国鉄の民営化とその後の事情も模写されてはいるが。
キハの気動車を電車と言ってしまう人にはわからないこともあるか? と。
旧国鉄と高倉健さんが異様にマッチしている。
実は健さんが過去の『新幹線大爆破』にも出演していた。
ただ、当時は旧国鉄の撮影協力が得られず、作り物っぽい映画だった。
現状のJR北海道が、国の支援がないと存在しない大企業になる程危機感が強いが、それより20年くらい前のリアルさも出ていた。
定年とは何か? シニア職員とは何か? 考えさせられる映画でもあるかも。
名作には名作と言われる所以がちゃんとある。
安藤政信だけを目当てに見たがあんまり出なかった。ただ、めちゃくちゃ感動したし見てよかった。
高倉健は世代ではないため何一つ見たこと無かったが、この1作だけでも名優ということを感じた。
高倉健、安藤政信、広末涼子、志村けん、などなど豪華な出演陣に負けないストーリー性があった。
仕事第一という昔の価値観で今では受け入れられない設定でありそうだが、一昔前まではあれが当たり前だったのかなぁ
高倉健に女の子がキスするシーンとか、今だったらプチ炎上しそう。
悲しい世の中になったと感じた
【”滅びの美学”をファンタジック要素を絡めて描いた作品。 ”どこまでも、あの人はぽっぽや(鉄道員)だから・・、と亡き妻は笑顔で言った・・。】
ー映画界を長らく牽引した高倉健さんと、お笑いを牽引した志村けんさんを偲んで・・。-
■感想
・当たり前であるが、高倉健さんの圧倒的な存在感。
一途で、不器用だが、心温かき、昭和の男をこの方ほど、きちんと演じる方は、今後出てくるのであろうか。
・出演シーンは短いが、筑豊の炭鉱から仕事を求めて、北海道まで出てきた男を演じた志村けんさんの姿。
今作後、NHK朝ドラマには、出演されたが・・。
そして、今春公開予定の映画「キネマの神様」に出演される予定であったが・・。
そして、彼の子供を演じた若き、安藤政信さん。
物凄いイケメンである・・。
・高倉健演じる、佐藤乙松の機関士時代からの相棒を、小林稔侍が盤石の演技で魅せる。
・乙松の健気な妻を演じた大竹しのぶさんの姿も忘れ難い。
・生後数カ月で亡くなっってしまった、佐藤夫婦が漸く授かった雪子。
彼女が、妻を亡くした乙松の元に、”段々大きくなりながら、様子を見に”現れる、数シーン。
特に、高校生になった雪子を演じた広末涼子が、乙松のために鍋料理を振舞うシーンは、沁みる。
”俺は幸せもんだ・・”と絶句する乙松。
<降旗康男監督と、高倉健さんのゴールデンコンビが生み出した稀有な作品。
原作も素晴らしいが、今作品も素晴らしい。>
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