「本作は結果としてウルトラマンのパイロット版であったのだ」フランケンシュタイン対地底怪獣(バラゴン) あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
本作は結果としてウルトラマンのパイロット版であったのだ
素手で怪獣と戦う巨人の物語
何か連想しないだろうか?
そう、ウルトラマンだ
本作は1965年8月公開
東宝特撮はマンネリになりつつあり、その打破を模索し始めた時期だった
東宝特撮には3つの路線がある
怪獣路線、SF映画路線、怪人路線の3つだ
本作の前年の12月に公開された三大怪獣 地球最大の決戦は怪獣路線の強化
本作の3ヵ月後に公開される怪獣大戦争は怪獣路線とSF路線の融合
本作では怪人路線と怪獣路線の融合
このように色々手を変えてみて新味をだそうとしていたわけだ
もともとはキングコングとフランケンシュタインが戦う企画が出発点だったという
紆余曲折で怪獣との戦いになった
フランケンシュタインを怪獣と戦わせる為には、なんらかの手段で巨大化する事が必要だ
その方便として原爆を、日本を舞台とするためにUボートを持ちだす
自然な発想の流れだろう
戦争孤児のイメージと、復興した広島の街並みや近代的な団地との対比で戦争や原爆のこと忘れるなとのメッセージ性のある深みもだせる
もともとフランケンシュタインの物語に由来する人造人間とは人間なのかという命題も当然加味できる
巨大化するといことはそれでもなお、人間なのかとその命題を増幅すらできる
果たして大人も鑑賞に耐える深みある脚本が出来上がった
だが、映像にしてみるとどうだろう
特に団地のシーン
巨大化したフランケンシュタインは頭部こそ、あの特徴的な容貌で特殊メイクを施されてはいるが身体は役者のままなのだ
いくらミニチュアセットが精巧に出来ていても巨人には見えないのだ
怪獣と戦うにしてもあまり絵にならないのだ
発展性がないと言って良い
怪獣と戦う巨人とは生身の人間では駄目だ
怪獣のようになんらかの変化のある人間ではない巨人でなければ絵にならない
怪獣が火を吐くのに、巨人が素手で戦うだけでは情けないだけだ
その辺りの反省が当然生まれたはずだ
その回答はほぼ同時に二つの案が作品化されたことでなされる
それは翌年1966年7月のことだ
一つはフランケンシュタインの巨人を二体出せば良い
つまり巨人が怪獣と戦わなければ良いということだ
怪獣が出ない分、巨人の外見を怪獣に近づけるのだ
それがサンダ対ガイラだ
しかし単に前作の延長線にあるというだけで本質的な回答では無かった
もう一つは巨人を抜本的に定義しなおす
怪獣とありとあらゆる面で反対に対置される巨人を考えだすのだ
怪獣と同一地平にあって違和感のない巨人だ
つまりウルトラマンだ
そのように考えれば研究所の三人は科特隊だ
怪獣や巨人の解説を行い、巨人のサポートを行う存在というわけだ
本作のUボートで運ばれたケースに閉じ込められた心臓の姿で現れ原爆というアクシデントで心臓だけの存在から子供となり、最終的に巨人と化した
ウルトラマンは光の国から宇宙船でやって来て、あるアクシデントにより普段はハヤタ隊員と融合しており、フラッシュライトで一時的に実体を取り戻して巨人となるのだ
このようにウルトラマンの物語の構造の原形は、既に本作にあるのだ
バラゴンとフランケンシュタインの格闘はその目で観ればウルトラマンの格闘シーンに見えてくるだろう
本作は結果としてウルトラマンのパイロット版であったのだ
本作はクライマックスの違いで国内版で3バージョンあるという
一つ目はバラゴンを倒した後にフランケンシュタインが地割れに飲まれるもので劇場公開版
二つ目は大タコ怪獣が現れるものでテレビ放映版
この二つは今ではDVDでいつでも観ることができる
そして三つ目はバラゴンとフランケンシュタインが同時に地割れに飲まれるもの
この最後のバージョンは幻で勘違いだとされているようだ
だが、実は自分が子供の時に観た記憶はこれなのだ
いつどこで観たのかは小さな子供の頃であるので記憶は曖昧だ
だが、そのシーンだけは鮮明に覚えている
何故ならとても特撮のクォリティーが低く小さな子供でも呆れた映像だったからだ
毛布のような地面に生えたミニチュアの樹木と人形のフランケンシュタインとバラゴンが机の境目に毛布が引き込まれて落ちてしまう
そんな情けないないものだった
心底ガッカリした
子供は子供騙しを嫌うのだ
幻のバージョンだが自分はそれを観たと思うのだ
だがもう一度観たいとは思わない
またガッカリするのは大人になっても嫌だ