「半世紀前のリアリティショー」人間蒸発 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
半世紀前のリアリティショー
リアリズムの行き着くところ
リアリズムそのものはドキュメンタリーだ
現実そのものを撮影するのだから当たり前だ
ドキュメンタリーであっても、何を撮りたいのか、何を映画として伝えたいのか、一応の撮影計画はある
素材を撮り溜め、その計画に沿って再構成して編集していく
ところが、こうした方が面白いからと演出を加え始める
いつの間にか当初のドキュメンタリーとは別物の映画が出来上がっていってしまう
そのとき、それはリアリティショーとどこが違うのだろうか?
リアリティショーは、設定も登場人物もすべて架空であることを、演じる側、観る側も了解の上でリアルタイムで進行していく
シナリオは一応あるが、役者が感情移入する度合いが通常のドラマより高い
なぜならぶつ切りでカットを積み重ねてパッチワークされていく撮影手法でなく、役者がシナリオを知らされず、自身の対応のみ指示されてリアルタイムで進行するからだ
本作はそれに似ている
ある男性の人間蒸発を追うリアリティショーというのが現代的な解釈だろう
実在の人物が、実際のことを、その現場で、感じるたこと、思ったこと、聞かされとことの反応をそのまま写す
リアリズムの行き着くところはここだ
究極のリアリズムの映画
この内容を普通の映画に仕立てなおして、シナリオを起こし、俳優を配役し、ロケをして撮影していく
リアリズムを徹底した映画を撮ろうとしたところで本作のリアリズムには勝てる訳がない
当たり前だ、本作は現実なのだから
でも本作はドキュメンタリーなのか?
やっぱりそうではない
フィクションなのか?
それも違う
極めて危うい領域にある映画だ
ステマという言葉がある
スティルスマーケティング
第三者のレビューのようで実は提灯持ちの広告のこと
これにも似ている
本作にある物語は事実だ
語られことも、発露される感情も、顔に浮かぶ表情も真実だ
しかし本当の真実なのだろうか?
「真実とは何でしょうか?」
終盤で登場人物がこの台詞を語る
現実の部屋のようで実はスタジオの中のセットなのだと映像で見せて、今村監督自身がこれはフィクションなのですと宣言して、撮影風景までみせる
まるで手品の種明かしのように
つまりリアリズムの映画を撮るといくら徹底しようとしても、そんなことは限界があるのだ
本当らしく工夫したというだけに過ぎない
ならば究極のリアリズムを追求してみようじゃないか
一体どのようになってしまうのか?
それをやってみせようじやないか
それが本作の正体だろう
本作の最後は、現実の人間たちが、現実のことについて、現実にトゲトゲしく言い争うのだ
これは現実の感情だ
フィクションなんかじゃない
監督自身がいくらこれはフィクションですと言い張っても現実の感情なのだ
人間を弄んでしまったのだ
21世紀のリアリティショーでは自殺者を出してしまった
半世紀前の本作でも制御不能になり、今村監督の困惑する表情がフィルムに残されて終わるのだ
今村監督は結局、人間を虫けらのように弄んでしまったのだ
それが結論だ
「にっぼん昆虫記」のときの姿勢と共通した態度であったのだ
頭きちゃった
映画の中である人物がそういう
映画は終わった
でも現実は終わらない
そのような言葉で本作は終わるのだ
人間は虫けらではないのだ
感情をもち、自己をもつのだ