「大日本帝国の断末魔。」日本のいちばん長い日(1967) すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
大日本帝国の断末魔。
⚪︎作品全体
人は死が近づくと走馬灯が見えたり、時間の流れがすごくゆっくり見えるのだという。
科学的には立証されていないらしいし、これは素人考えなんだけれども、きっとそれは生き残るために常時とは異なる処理速度で脳が暴れているのだと思う。
1945年8月14日から15日は、国家として死が近づいた日だ。帝国主義の国家として成功した約50年くらいの年月を過ごし、促進剤であったはずの軍部が癌となり、原爆という致命傷を負い、今まさに死を迎えようとしている。
本作、『日本のいちばん長い日』で描かれるこの時間は、死にゆく国家の走馬灯であり、死を間際にした長く伸びる時間だ。
単純に死を受け入れるだけならば、8月14日の終戦詔書への署名と押印で完了しているはずだった。しかしこのアジアの一国家を列強へと押し上げた「大和魂」は、不幸にも安らかな死を受け入れられない。死を前に脳が暴れるがごとく、陸軍将校というエネルギーが死を拒む。
その死を受け入れさせるために、明治維新のような「国家の再興」という走馬灯を見させる必要がある。そして炎が消える直前に再び強くなるように、エネルギーを消費しなければならない。
宮城事件と呼ばれる陸軍将校のクーデターは、そうした死を迎えるための、大日本帝国にとっての最後の生体反応であり、断末魔だった。
本作の素晴らしいところは、この「大日本帝国の死」を看取る距離感で描いているところだ。
例えばもっと将校に心情を寄せて、国を愛する忠臣の物語にもできただろうし、露悪的に描くこともできた。もしくは終戦を進める鈴木貫太郎たちと軍部の対立を濃く描き、平和という正義と軍部の戦いという構図でドラマを作れただろう。
しかし本作はそうはせず、時間の経過と終戦までの出来事をドキュメンタリーチックに演出していた。そしてそこに「看取り」の情感があった。
本作を見る大半の人物は、この作品に登場する重臣や軍人とも違う、一般の人々だろう。一般の人々は玉音放送を聴いて大日本帝国の死を知り、そのまま日本国の再建へと進んでいってしまったわけだ。
日本人は「大日本帝国の死」は知っていても「どういう死に際だったのか」は知らないままだ。本作はそうした人々へ「日本の断末魔」を届ける役割を担ったのだと感じた。
終戦が決まったあと、本作に一般国民は出てこない。それぞれの職務をまとった重臣や軍人と違って、一般国民が死をどう受けとったかなんてものは描きようがないからだろう。
ここで描かれるのは終戦の評価ではない。大日本帝国がどんな死を迎えたのか、だ。
大和魂という精神力で作られたこの国家は、死に際まで人のように長い時間をかけて死んでいく。その生々しさを見事に描き切った大作だ。
⚪︎カメラワークとか
・畑中まわりのカメラワークは黒沢年男の芝居もあってちょっと情感強かった。陸軍省の誰もいない講堂で井田を説得するシーンは、井田に断られると畑中は立ち去っていくが、カメラをかなり引いてシルエットで二人を見せていた。
NHKで自身の主張を発信できないことがわかったあとに一度項垂れる畑中をシルエットで見せて、続くカットで真正面から畑中の腹を据えた顔を映す。帽子の紐をつけ直し歩き始める畑中。…かっこいい。
⚪︎その他
・年をとればとるほど思うけど、終わらせることっていうのは本当に大変なことだ。そんなことを思えるようになったからか、前見た時に感じた陸軍将校への「いい加減にしろよ」という気持ちはほとんどなくなった。
畑中の情熱に動かされる将校たちにも前は苛立ちを感じたけど、今はなんだか納得できてしまったな。
・詔書への署名が終わったあと「疲れた…長い一日だった」みたいなナレーションが入るけど、あれだけは何回聞いてもムカつく。何百万と人を死に追いやっておいて、たった一日で何を抜かしてんだ、みたいな。
・作中では語られてないけど、井田が戦後生き残ってて、しかも本土決戦論を改めてないところもムカつく。感情論だけど、お前も罰受けろよって思うなあ。