浪華悲歌のレビュー・感想・評価
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「祇園の姉妹」と並ぶ溝口映画の双璧‼️
日本映画が世界に誇る名匠・溝口健二監督の「祇園の姉妹」と並ぶ最高作‼️「祇園の姉妹」同様、溝口監督のヒロインへの容赦ない演出が光ってます‼️父や兄のため、金のため、電話交換手アヤ子は妾にもなれば美人局も企むが、ついに逮捕され、恋人や家族にも裏切られる‼️この映画のヒロインには可憐な美しさなど微塵もない、かなり悪どいことを平気でやる女性なのですが、彼女は彼女なりに家族のために尽くしたい。その行為は分別がなく、世間から非難を受けるものだが、信じていた家族からも不良だと責められた時、居直った浪華女のたくましさが大爆発する‼️ラスト、知り合いの医者から「病気と違うか?」アヤ子は「そうや病気や、不良少女という立派な病気や」と呟き、ぐんぐん橋を渡っていくトレンチコート姿のアヤ子‼️そのクローズアップの迫力‼️まるでアメリカのハードボイルド映画のような乾いたタッチ‼️当時の日本映画界では珍しかった女性差別への激しい反抗だったんでしょう‼️溝口監督としては戦後の「西鶴一代女」や「雨月物語」の方が世界的に有名かもしれませんが、作品的には圧倒的に今作と「祇園の姉妹」が上だと思いますし、今作のアヤ子、「祇園の姉妹」のおもちゃこそ、溝口映画を代表するヒロイン、女性像だと思います‼️そんな鮮烈な女性像を体現したベルちゃんこと、当時19歳の山田五十鈴さんの熱演は間違いなく映画史に残る‼️
「祇園の姉妹」と類似した、戦前女性の生き辛さに焦点を当てた溝口監督の女性映画
戦前の溝口映画の傑作とされるこの作品は、「祇園の姉妹」と共にその時期の代表作であると岩崎昶氏は指摘している。個人的には「祇園の姉妹」ほど感動はなかったが、依田義賢の緻密な脚本と溝口監督の確かな演出には感心した。山田五十鈴、梅村蓉子の演技もいい。 昭和10年代初期の現代劇で描くものは、主人公村井アヤ子の女性としての生き辛さ。生活苦と女性の身分の低さを問題として、その上で人間のエゴイズムを並べ立て、ひとり変化していくアヤ子を客観的に描く溝口演出の厳しさがある。男と女の赤裸々な欲望や嫌らしい性質をまざまざと見据える演出は力強い。家族思いのひとりの女性の、それ故に無情な世の中で遭遇する苦労を描き、ラストシーンに作者の制作意図が明確に込められた問題提起の主張が確りした映画になっている。 1978年 6月28日 フィルムセンター
モダンな大阪と旧態依然
「旦那」が居なければやっていけない芸妓と違って、アヤ子(山田五十鈴)は会社に勤めている。経済的にも人間としても独立している。なぜ「不良少女」と呼ばれることになったか。全部、家族、正確には父親と兄のためだ。二人ともだらしないし気概がない。父親は会社の金を横領した。兄は大学最終学期の学費が払えない。その金の工面のために、前から声をかけられていた(セクハラ)会社社長(家では女中に偉そうに振る舞うが、奉公人あがりの養子で、妻には頭があがらない)に囲われることにした。次は社長の友人に囲われる。それで父も兄も助かったのだが、二人とも誰が尻拭いをしてくれたか知らない。知ろうともしない。お目出たい。 だから家族は皆、妹さえも彼女に冷たい(このシーン既視感があると思ったら「サンダカン八番娼館」だった。からゆきさんとして南国で娼婦として働き日本の実家、兄家族のためにお金を沢山送り久し振りの故郷。でも兄嫁が自分を悪く言っているのをお風呂に入っていた彼女は耳にして、悲しさと悔しさで浴槽に潜って泣き叫ぶ)。体をはって家族の金銭問題を片付けたのは彼女なのに。そして結婚したいと思っていた会社の同僚は逃げる、アヤ子を悪者にして。 お軽は身を売られても妹思いの兄と勘平がいた。アヤ子にはそんな兄も勘平もいない。女性の生き難さを笑いも交えて映画にした溝口監督はすごいと思う。おかげで昔から続く女性のしんどさと男社会の冷たさがよくわかる。そして当時の様子(デパート、レストラン、高級アパート、文楽劇場、着物、洋装)も。(2022.5.7.「山田五十鈴」特集でこの映画を見たのはもう10年も前。その時と同じ映画館「新文芸座」にて再度鑑賞。この4月にリニューアル・オープン。ロビーが広々と明るくなりました!) おまけ あの文楽の場面を初めて見たのは、大阪の日本橋(にっぽんばし)にある国立文楽劇場の1階の展示室。舞台と床、客席のアヤ子、ロビーで揉める様子が何度も繰り返しモニターで流されていた。そこで初めて山田五十鈴の髷姿の美しさと若さ(19歳)に出会って驚愕した。あの芝居はお染久松「野崎村」だと思う。
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