アメリカの友人のレビュー・感想・評価
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役者も映像も最高だが、翻案に失敗したかな。
やっぱりホッパーはカッコいい。
ニコラス・レイも凄く良かった。
サミュエル ・フラーも結構良かったのだが、もうチョイ台詞が欲しかった。
そして、とにかく映像が素晴らしい。
さすが4Kレストア版。
ハンブルクの港町の風景、オレンジ色の懐かしいワーゲン、子供の黄色いレインコートや奥さんの真っ赤なコート、朝の光の中で真っ白いアンビュランスが赤々と燃えて爆発するラスト近くのシーン、
それら諸々の配色バランスの見事さよ!
撮影監督であるミュラーのセンスが冴えまくっていて、スクリーンでの大画面はホント最高だった。
冒頭のホッパーの登場や、赤いドイツ語でカッコよく出現するタイトル、そして贋作者として登場するニコラス・レイとの会話(これは『理由なき反抗』以来の再会?)そして、その後のオークションまでの流れは最高だったのだが…
そもそもだが主人公をリプリーでなく、ヨナタンにしてしまった時点で、明らかに物語の翻案は失敗だった。
リプリーは、狂言回しには違いないが、あれは主人公とはいえない。
やはりリプリーの心理を軸にプロットを進めていかないとストーリーの核が鮮明に浮かび上がって来ない。
ズブの素人にマフィア殺しをさせるよう仕向ける事それ自体が、まさにリプリーの悪ふざけのゲーム、原作のタイトルでもある「Ripley's Game」なのだから。
この物語において、最も重要ポイントとなるリプリーとヨナタンの最初の出会いもアレじゃダメだ。
ヨナタン役のブルーノ・ガンツも芝居は良かったが、あの役自体、あんな平凡な善良な男というより、もっと聖人みたいな全く悪い事など本当に出来そうにない真正直なキャラでないと物語自体が明確に見えてこない。
そんな男から「お噂はかねがね」と何気ない冷淡な社交辞令を言われただけで、リプリーは気分を損ねて、さらに過去の完全犯罪まで見透かされたような妄想をしてしまい、勝手気ままな殆ど道楽とも言えるゲームを始めたのが、そもそもの原作設定なのだから。
まるで、あの『ファウスト』のメフィストフェレスのように。
そんな悪魔的なゲームを愉しむリプリーを主人公としてフィーチャーさせて、彼の視点や心象風景をもっと増やし、あの魅力的なホッパーの出番が、より一層と多くなっていれば、間違いなく傑作になっていたに違いない。
ヴェンダースは『ベルリン天使の詩』でもガンツを主人公にしていたが、彼には俗世間を抜け目なく切り抜ける役の方が良く似合うはずだ。聖人の配役などミスキャストだったと思う。
あと、ヨナタンはキンクスやビートルズを歌っていたが、リプリーには楽屋オチのイージー・ライダーやボブ・ディランよりも、やはり「Sympathy for the devil」を歌って欲しかった。
“Ah〜♪what's puzzling you
Is the nature of my game〜♪”
てな感じで、ホッパーが運転しながら歌っていたらホント最高だったのに。
サウンドトラックの音楽の方も良くて、
ラストでのニコラス・レイの実存主義な登場シーンや、そこで再度出現する赤いタイトルロゴの方も実にカッコ良かっただけに何とも残念!な作品ではあった。
引き寄せ合う孤独。
ファースト・ショットから激しい寂寥感を覚えた。そのもの哀しさは物語が進むほど増し、いたたまれなくなる。突然自分の孤独を実感し、いてもたってもいられなくなり、部屋を飛び出し人混みに飛び込んでみても、行き交う人々の誰1人とも繋がっていないことに気づき、より一層孤独感を募らせる・・・、そんな感じの映画だ。白血病で余命いくばくもない男が、家族に残す金のため殺人を請け負う。プロットだけ見るとバードボイルドな男の美学に満ち溢れているように思える。しかし実際は、死を前にした男の自己陶酔の物語だ。原作はパトリシア・ハイスミスの小説、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンが映画史に刻んだ、トム・リプリーという男が“アメリカの友人”として登場する。ヴェンダースとデニス・ホッパーによって作られた全く新しいリプリーは、本作の主人公に死神のように忍び寄る。本作の主人公ヨナタンはカッコいいヒーローではない。第三者から宣告された死をなかなか受け入れられず、医師にしつこく詰め寄ったり、金目当てで犯した殺人に怯え、危機をリプリーに救われてからはリプリーの言いなりになるだけ。ヨナタンとリプリーの関係は、決して「友情」ではなかったと思う。互いの反感から芽生えた興味、リプリーが仕掛けたゲーム。しかしそこに何らかの繋がりがあったことも確かだ。いよいよ死が近いと悟ったヨナタンは、家族の“ため”に罪を犯す。そのため、妻に大きな秘密を作ることになり、残された時間を家族といるよりも、共犯者であるアメリカの友人と過ごすことが多くなってしまう。残された家族のためという大義名分に酔って家族をかえりみなくなっていることに気付かない男・・・。妻から見れば、金よりも残された時間、手を取り合って寄り添っていられた方がなんぼかマシだったのではなかろうか?本作に漂う寂寥感は、ヨナタンとリプリーが抱える“孤独”から来ている。愛する家族がいても、秘密を持ってしまったがためにすれ違う心。大きな屋敷に1人住み、裏社会でしか生きられない男の荒んだ心。この孤独感が互いを引きよせ、果ては暴力と悲劇に突き進む。セピアがかった淀んだ映像の中で、時折ハッとさせられるほどの鮮やかな映像(青い麦畑とか、碧い海とか)が哀しみを深める。ただ1つの救いは、ヨナタンが最終的に妻の元へ戻ること。最後の一仕事を手掛ける前によくぞ妻にヨナタンを迎えに来させてくれた。ここで妻が来なければ、ヨナタンはリプリーの言いなりになったまま、精神が麻痺した状態で死んでいったかもしれない。しかし妻が登場したことによって、ヨナタンの精神は一時的にクリアーになり、リプリーにささやかな仕返しをするまでになる。残されたリプリーは、孤独に生きるしかない、彼に群がる人は今後沢山いるだろうが、誰1人として真の友人となる人は現れないのだ・・・。
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