近松物語のレビュー・感想・評価
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江戸時代もまだ庶民には厳しい
総合:75点 ( ストーリー:80点|キャスト:75点|演出:65点|ビジュアル:60点|音楽:65点 )
同じ溝口健二監督の『雨月物語』で描かれた戦国時代よりもちょっと時代が下った江戸時代の話。
戦国時代よりも相当に安定しているとはいえ、家や身分といったまだまだ古い制度が幅をきかせている融通のきかない社会で、自我の目覚めを経験する二人の姿が悲しくもありすっきりもする。最初のほうに出てくる、市中引き回しにされる不義の男女の姿でだいたいその後の物語の流れは読める。それでも古い社会の決まりから解き放たれて自分の思いに素直になった部分には、悲劇の中で救われたようにも感じた。
引き算の美学
江戸時代。大商人の以春の元で真面目に働く茂兵衛が風邪を押して床から起き上がる場面からスタートする。以春は女中奉公に出ていたお玉に言い寄っていたが、別宅を持たせると口説いた際に茂兵衛と夫婦約束をしたと言ってしまう。以春の妻であるおさんはカネに困っており、茂兵衛に相談し茂兵衛は以春にカネの無心を願い出る。怒った以春は茂兵衛を罵倒するが、お玉がそれは自分から申し出たことなのだと嘘をつく。おさんはお玉と話をして、以春がお玉に言い寄っていることを知る。おさんの心は以春から離れてしまう。茂兵衛はお玉にお礼を言おうとするが、そこに居たのはおさんだった。ふたりが一緒に居るところを見た同僚は、彼らが不義密通を重ねていると誤解する。ふたりは逃げることになる……これがプロットである。
溝口健二作品を観たのはこれが初めてである。充分に楽しめたかと言われれば答えに詰まってしまうというのが本当のところだ。あまり普段から古い映画を観ないことや、そもそも映画自体を観るようになったのが本当につい最近のことなのでまだまだ楽しみ方を分かっていない……なんてことは言い訳にもならないのだろう。だがもう少し言い訳を重ねれば、私は映画を観るにあたってどうしても「スジ」に目が行ってしまう人間なので映像美を楽しめないという弱みを備えてもいるのだった。その意味で溝口作品ならではの長回しやカット割りといった技法を楽しめたかどうかというと甚だ疑問である。
だが、最初は江戸時代の映画を観慣れていない人間として若干退屈さを感じながら観始めたのだけれど、次第にふたりの逃避行に引きずり込まれてしまったこともまた事実である。長谷川一夫と香川京子の演技が素晴らしい。ふたりが湖の上でいよいよ追い詰められて心中を図る場面があるが、おさんを演じる香川京子はいよいよという時になってそれでもなお生きていたいと願うようになる。不義密通は江戸時代にあっては死刑に処される重罪である(実際にそれを明示するシーンが登場する)。それでもなお生きたいという一途な思いを、迫力ある演技で表現していると思う。
長谷川一夫の演技もまた素晴らしい。男なのだけれど、何処か微妙に色気を感じさせる。男臭いというのではない。むしろ女形が似合いそうな中性的な佇まいを感じるのである。茂兵衛とおさんの関係は、奉公人とその奉公される側の妻という身分的に釣り合わないものである。ここにも前述した不義密通と同じくらい強烈なタブーがある。しかしふたりはそれを超えて愛し合おうとするわけである。その恋の持つ迫力に呑み込まれるようにして観てしまった。なるほどこれは今の目で見ても充分に迫力のある映画だな、と思わされてしまったのだ。
先述したように映画に関しては私はまだまだ素人なので、カメラワークや演出の妙を堪能したとは言い難い。こればかりは他の溝口作品を観て勉強することが肝要となるだろう。だが、これは褒め言葉としてはかなり安直な部類に入るものであることを承知の上で言えば、今の目で見ても全然古く見えない。悲恋の持つ強烈な力を、しかし今の映画の目に慣れた人間からすればむしろ淡々としたタッチで描き切った一作であるなと思わされる。これは早速『雨月物語』などの作品を観なければならないなと思わされてしまった。こんな監督を知らないとはもったいないことをしていたものだ。
最後の最後、ふたりは結局捕まってしまう。そしてふたりは縛られて晒し者にされてしまうわけだが、ふたりは手を固く握って離さない。そこにふたりの強烈な恋愛の証が記されている……先ほどから同じことしか書いていないが、未熟な観衆故にこんなことしか書けないのが限界だと思っていただきたい。ふたりの成り行きは先述したプロットの整理から分かるように半ばほどまでは偶然がもたらした悲劇なのだけれど、途中から彼らは自分から身を投げるようにしてその非業の運命に呑み込まれて行く。江戸時代の封建的な制度の狭苦しさがもたらすその悲劇は、繰り返しになるが本当に悲しい。
そんなところだろうか……いや、思い返してみても(いや思い返せば思い返すほど)この映画の凄味を感じさせられる。無駄なショット、シーン、台詞といったものが一切ない。引き算の美学で余剰を削ぎ落とされたことから生じる、淡々とした中にあって本当に重要な要素だけを説明抜きで抽出した映画だという印象を受けるのだ。だが、これ以上のことはもう語れそうにない。これもまた繰り返しになるが、私の映画鑑賞歴の浅さ故に解釈も必然的に浅はかになってしまうのだった。そんな中途半端な感想を駄文として綴って、この一文を〆たいと思う。
恋の熱源を活写
香川京子が、「山椒太夫」と同じ女優なのかと疑うほどに色香を発散させている。商家の若い後家の着物が彼女の体の線をくっきりと浮かび上がらせている。これでは若い職人が密かに憧れてしまうのも無理はない。しかも本人は自分が住む世界で性的な象徴性を帯びていることなどに少しも無頓着なのだ。
物語は貞節という規範が建前に過ぎず、色恋の情念に憑りつかれた人間はその規範をときに打ち破るということを複数のエピソードで示す。
最初は、どこか他所の武家で起きた奥方と下男の不義密通が露見して、この二人が磔になるというもの。次に、この商家の主人が店の使用人の女に夜這いをかけていたことが後家の耳に入る。この時の香川の反応は、亭主を奪われた女の嫉妬や怒りではなく、自分の家で重大な掟破りが行われていたことへの衝撃であろう。ここまではこの後家にとってはまだ色恋による規範の消滅は他人事なのである。
しかし、金の無心に絡んで、誤解がさらなる誤解を呼ぶに至り、当家の職人兼手代である長谷川一夫との不倫の嫌疑をかけられるに至る。そして、本来は何も疑われるような事実はなかった二人が、追い詰められた挙句に規範を超える当人となってしまうのだ。
近松の物語には状況が恋の情念を生み出すというパターンが多いが、これもその代表例だろう。不条理な運命を観念したときに、その傍らでただ真実を知っている者と共に人生の最期の道を行きたいという強い希望が性愛へと転換するのだ。
溝口健二によるこの作品は、この不条理からの逃避行を小舟を使って表現している。自分たちの意志では決定できない運命は水に浮かぶ小舟であり、その行き着く先には悲劇が待ち受けていることをこのシーンで強く印象付けている。
このシーンを観た時にとっさに思い出したのは、「山椒太夫」の親子が別々の船で連れ去られる海岸の場面である。ここでの2艘の船も引き裂かれる運命を痛切に表していた。
主人公の二人が京の周辺を逃げ惑うあたりは、主従の関係を越えて男女の関係になっていくことを観客に思わせる、エロティックな表現に満ちている。
足を挫いた香川を長谷川が背負うシーンでの身体の密着。一度は香川を置き去りにしようとしたものの、転倒した香川を放ってはおけずに助け起こすシーンではついに長谷川は香川の痛めた足の口づけすらするのだ。これらのシーンは、二人が主従の礼節を脇へ置いて男と女の欲情に身を任せた可能性を観客に想起させるのに十分な役割を果たしている。
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