劇場公開日 1966年7月16日

他人の顔のレビュー・感想・評価

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3.0「仮面とは何か?」

2025年7月2日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

この映画は響くものがないというのが率直な感想です。
「仮面、顔、匿名性、戦後、群衆、責任、自己の空洞化」など、取り上げているテーマは見えるんですが、残るものがありませんでした。
ただ、それでも何かひっかかるものがあったので、そこから理解する上でのヒントのようなものを述べていきたいと思います。

<仮面とは何か――社会と私をつなぐ「顔」の装置>
仮面を語る前に、まず「顔」というものが持つ機能を整理しておきたいです。ふだん私たちは、相手の顔を見て「誰なのか」「どんな感情を抱いているのか」を即座に判断します。顔は、言葉より速く相手に届く情報のハブです。言い換えれば、顔は社会と個人を接続するインターフェースとして働いています。そこに仮面をかぶるとは、「インターフェースを任意に書き換えられる」ということにほかなりません。

本作の主人公は、事故で顔面を損壊し、包帯という“見えない顔”をまとって孤立します。包帯が示すのは「顔がない=社会に認識されない」という状態です。ここで映画は、顔が単なる表皮ではなく社会的パスポートであることを強調します。包帯の男は、誰もが彼の存在をうまく扱えず、彼自身もまた他者との関係を築けません。

そこへ登場するのが、人工皮膚で作られた“他人の顔”です。一見すると彼は社会に再び接続できたかに見えますが、同時に匿名性の誘惑にさらされます。「自分ではない顔」によって、責任や抑制がゆるみ、他者を試したり暴走したりする――それが仮面の危うさです。つまり仮面とは、社会と自分をつなぐチャンネルを自由に開閉できる装置であり、同時に自己を空洞化させるリスクを秘めています。

この構造は現代のオンライン匿名文化にも通じます。アイコンひとつで人格を着脱できる世界では、言葉の責任が軽くなり、時に暴力的な発言が横行します。本作は1960年代にすでにその問題を予見し、「仮面を得た自由」と「責任の希薄化」が同時にやって来ることを警告しています。

まとめると、映画が提示する仮面とは
1. 顔=社会的パスポートを書き換えるツールであり、
2. 匿名性ゆえに倫理を揺るがす危険な玩具でもあり、
3. それを使う私たち自身の“中身”のあり方を暴く鏡でもあります。

<顔が取り替えられる世界――交換可能な個人たち>
この映画の中では、顔というものが「個人の証明」ではなく、「仮面=役割」として描かれていました。仲代達矢が演じる主人公は、包帯で顔を覆い、やがて仮面を被って社会の中に再登場します。その仮面は、個性や感情を隠すものというより、むしろ「社会的通行証」のように扱われます。顔がなくとも人間は社会の中で役割を演じることができ、むしろ顔を隠すことで関係の責任から逃れられる――そんな世界が提示されています。

この物語では、主人公がかつての家庭とは異なる場所に身を置き、「別の人格」として女性に接近しようとする場面も描かれます。それは明確なすり替えではありませんが、顔を失ったことで、彼の存在そのものが曖昧な仮構として浮かび上がります。

この映画が描いているのは、そうした「仮面の中を漂う存在」たちです。顔を失った人間は、もはや“誰か”ではなくなり、交換可能な存在となるのです。

<ヨーヨーの娘が暴く“仮面の嘘”――顔を見抜く者>
本作の中で、特に解釈が難解なのが、市原悦子の演じる「知的障害を抱えた娘」の存在です。彼女は物語の本筋とは一見あまり関係のない脇役のように見えますが、実はこの作品の主題を間接的に照らす存在として機能しています。

彼女は仮面をかぶった男(仲代達矢)に対して、一目で「前に会ったことがある」と見抜きます。周囲の誰もがその仮面に騙され、あるいは無関心で素通りしていく中、ただ彼女だけが、その人物の“内面”を直感的に把握してしまう。知的障害をもつ彼女は「顔=社会的記号」をうまく読めない。しかしそのおかげで中身で人を判断できるのです。

また、彼女が執拗に「ヨーヨーを欲しがる」という描写も印象的です。ヨーヨーとは、手元に戻ってくる玩具であり、「二つの同一物が上下し続ける」 という動きが、主人公のマスク⇔素顔の往復を表しています。さらに、「欲しがり続ける無限ループ」つまり、“顔を取り替えても満たされない” 主人公の内的ループのメタファーでもあります。

この“満たされない欲望のループ”は、後に描かれる彼の妻との関係や、自らの正体を暴露しようとする衝動とも密接に繋がっているように見えます。

<妻との仮面舞踏会――愛と試しのエチュード>
主人公は“他人の顔”をまとい、自らの妻をナンパします。声や癖で夫だと気づきながら、妻は見知らぬ男の誘いに乗ります。彼女が選んだのは、夫が仕掛けた“仮面の遊戯”に、仮面で応じるという対等なゲームでした。

なぜ妻はそれに応じたのか。その理由は大きく二つあります。ひとつは、夫が「浮気で妻を裁く罠」を用意していると察し、それを逆手に取って“試される側”から“試す側”へと立場を反転させたこと。もうひとつは、妻自身が〈化粧=仮面〉を意識的に使いこなす人物であり、「あなたの顔がどれだけ替わっても、私は見抜ける」という静かな優位性を示したかったのです。

しかし、密会の部屋で夫が仮面を外し「ほら、俺だ」と正体を明かそうとしたとき、彼女は叫び出しそうになるのをこらえ、「そんなこと、最初からわかってたわよ」と静かに言い残して立ち去ります。

彼女の怒りは、単なる浮気への怒りではありませんでした。彼女が望んでいたのは、仮面越しであっても、互いの心がふれあえるような奇跡でした。ところが夫の目的は“再接続”ではなく、“裏切りの証明”でした。仮面を脱いでもなお、夫は自らをさらけ出さず、ただ他人を試し、裁く側にとどまっていたのです。

叫びたかったのに、叫ばずに去る。その沈黙には、再び仮面を被って生きていくしかないという彼女の深い絶望が滲んでいます。

<観察者の倫理空白――精神科医と実験の行方>
主人公に“他人の顔”を授けた精神科医・平田は、治療者ではなく実験者でした。自分では仮面を試さず、患者の変化を安全な場所から眺めようとする――その立ち位置こそが彼の仮面です。好奇心に駆られながらも責任は負わない。だから助手に「自分ではやらない」と言い切り、実験の成否を外側で観察するだけでした。

やがて主人公は仮面に溺れ、痴漢行為で逮捕されます。警察から連絡を受けた平田は引き取りに向かい、「自由とは孤独だ。剥げる仮面と剥げない仮面があるだけさ」と告げます。剥げる仮面=自分で選び外せる役割、剥げない仮面=社会が貼りつける烙印。彼はそのどちらにも属さず、観察者として浮遊し続けるつもりでした。

しかし実験が「失敗」だと知った瞬間、平田は被験者を“回収物”のように扱い、連れ帰ろうとします。その無関与こそが主人公の怒りを呼び、果物ナイフが振り下ろされる。暴力の矛先は加害者でも被害者でもなく、責任を背負わず眺めていただけの観察者に向かったのです。

<傷は隠せない――被爆少女と「不可逆」の痛み>
主人公が仮面をあつらえることができるのは、医師からの支援と会社員という社会的地位、そして金銭的余裕があったからです。対照的に、右頬にケロイドを残した少女には、傷を覆い隠す術もお金もありません。彼女の顔は、回復も擬装も許されない「不可逆の現実」として表れます。

少女が寄り添える相手は、同居する兄ただ一人でした。世間の好奇の目を避けながら暮らす二人にとって、兄は〈唯一の他者であり支え〉、少女は〈兄の無償の庇護が必要な存在〉という閉じた関係しか残されていません。だからこそ兄妹の境界が溶け、海辺で少女が「この顔に口づけして」と懇願する場面に至ります。彼女を「顔ごと」愛せるのは兄しかいない――その痛切な事実が、タブーを越える引き金となったのです。

しかし兄は血縁という罪悪感に耐え切れません。少女は〈その夜の重さ〉とともに、朝の海へと姿を消します。そこには「顔を直す手段も、罪から逃げる手段もない」絶望があるだけでした。仮面を買える主人公と、顔を隠すことさえ叶わない少女。可逆な傷と不可逆な傷、そして階級格差──二人の運命の落差が、作品全体の倫理的コントラストを決定づけます。

<群衆とナチス――匿名性が呼ぶ全体主義>
精神病院の打ち捨てられた運動場で、軍服姿の老人たちがうろつく場面に、ひときわ耳慣れないアジテーションが重なります。聞こえるのはヒトラーによる熱狂を煽る声だけで、観客は“顔のない群衆”を思い浮かべるでしょう。病院という隔離空間に、軍服という国家暴力の記号が紛れ込むことで、個人の痛みと歴史的加害がひとつのフレームに縫い合わされるのです。

ケロイドの少女が屋上で洗濯物を干していると軍服老人に襲われるのは、その直後です。誰の目も届かない場所、そこにいるのは、軍服によって〈顔を隠した者〉と〈顔を隠す術を持たない者〉。老人の抑制が外れるのは、見られない安心と、少女の不可視性が重なった瞬間だった。夜道で主人公が痴漢に及ぶ構図と同型であり、不可視性と匿名性が倫理のブレーキを外すさまを、映画は二度見せてきます。

精神病院の軍服、暗闇の夜道、拡声器から流れる演説。三つの匿名空間は、顔を隠した欲望が連鎖して全体主義へ傾斜する様を浮かび上がらせます。顔を隠せる者と隠せない者、見る者と見ない者。映画は〈見えない自由〉が群衆を生むと警告します。

<なぜ心に残らないのか――思想とドラマの乖離>
本作『他人の顔』は、倫理と匿名性、欲望と仮面といった高度な主題を扱いながら、観終わったあとにどこか「遠い夢を見ていた」ような感覚を残します。明晰なはずの知性、緻密な構造。それでも心には残らない。その理由の一端は、物語全体に漂う“浮遊感”にあるのではないでしょうか。

映像は常に美しく、音楽は静かで、人物たちはどこか感情から切り離されたまま台詞を紡ぐ。まるで白昼夢の中の会話。観客は思考に誘われはするものの、感情としてはついていけない。そこには〈わかるが感じない〉という断絶があります。

この断絶は、思想とドラマのあいだにもあります。物語の登場人物たちは、深い問いを口にしながらも、それを“生きる”というより“語る”にとどまっている。主人公の孤独も、妻の涙も、少女の絶望も、どこか抽象的で現実感が希薄です。思想が血肉化していない。だからこそ、どんなに優れた構造を持っていても、観客の胸には残らない。

本作は〈仮面とは何か〉を問う意欲作であり、同時に思想に回収されたドラマです。現実の重さが足りない。夢のように消えていく。だからこそ、その問いの鋭さにもかかわらず、この映画は“後に残らない”のではないでしょうか。

<顔を持たないまま、ではどうするべきなのか?>
最後に残るのは、仮面を剥がされた後に「何が残るのか」という問いでした。
この映画が描いていたのは、顔というものが単なる肉体の表面ではなく、社会的な通行証であり、責任の所在であり、関係性の境界面であるという事実です。
それを失い、あるいは交換可能になったとき、人間の輪郭そのものがぼやけていくのだと、気づかされます。

では、本当の「自分の顔」とは何だったのでしょうか?
この映画がそこに明確な答えを提示しているようには思えません。むしろ、本当の顔などというものは幻想であり、私たちは常に他人との関係の中で、無数の顔を取り替えながら生きているのだということを示しているような気がします。

この映画を観終えて何も残らなかったとしても、それはある意味、正しい体験なのかもしれません。
なぜなら、映画そのものが「何もないこと」や「空白」を見せていたからです。
そしてその空白を、どう埋めるのか、あるいは埋めずにそのまま生きるのか――そこにこそ、この作品の問いがあります。

鑑賞:WOWOWオンデマンド

評価:57点

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neonrg

4.0顔に火傷の痕のある妹と兄の物語の方が心に残る

2025年5月15日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

泣ける

悲しい

顔に火傷を負った主人公の男(仲代達也)の自己喪失感や苦悩より、彼が昔見た映画の記憶として現れる、顔に火傷の痕のある女性と兄のエピソードの方が心に残る。この不幸な兄妹のイメージが主人公が昔見た映画の記憶だというのは映画comのあらすじでわかった。
これを読まなかったら主人公の男性の物語とは別の、顔に火傷の痕がある女性のパラレルワールドのようなもう一つの物語だと思ったはずだ。でもこの兄妹のエピソードの方が主人公の物語よりリアリティーがあると思う。

主人公の男の自分の顔を失った苦しみは理解できるのだが、会話があまりにも理論的に過ぎて、どこか心理学の研究のような学問的な感じが強すぎて感情がついていかない。逆に兄妹のエピソードは、妹の孤独感と戦争の予感の恐怖が顔の傷痕にリンクしたような生々しさがあって、妹の心理描写に素直に共感できる。妹は火傷の痕が残る自分の顔から逃げたくても逃げることは出来ない、それは戦争の傷痕から逃げることは出来ないという意味にもとれる。

妹は戦争の恐怖におびえて兄に接吻を求めたように公式の粗筋には書いてあるがそうなのだろうか。妹が今の人生で得たものは自分を普通の女性として見てくれる人がいて、それは兄だったということ。だから唯一自分を人間として認めてくれた兄に妹は愛されたかったのだと感じたが違うのだろうか。最後に兄と愛し合ってこの世界から消えた妹のプライドと哀しみが強く印象に残る。

そしてこの兄妹のエピソードのパラレルワールド的な逆の物語が主人公の男と妻の話のように感じる。主人公は戦争を恐れるような人ではなく、でもそれは強さではなく、彼は戦後になっても戦争に負けたことや罪を認めることが出来ないエリート層の日本人の比喩なのかもしれない。主人公の男は妻を傷つけたのに自分の方が傷つけられたと思っている、主人公の男のこの感じが戦後の日本ということなのだろうか。顔に火傷の痕のある妹は愛を得たが世界から消えて、主人公は愛を得られずにまた戦争に向かっていくという意味なのだろうか。

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くまぷう

4.5お兄ちゃん、戦争まだ始まらないの?〜強烈なコントラストが絶妙な虚無感を生む

2025年5月14日
スマートフォンから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

悲しい

怖い

知的

1966年公開、配給・東宝。

【監督】:勅使河原宏
【脚本】:安部公房
【原作】:安部公房〜『他人の顔』

主な配役
【顔に大ケガを負った男】:仲代達矢
【男の妻】:京マチ子
【マスクを作製した医者】:平幹二朗
【看護婦】:岸田今日子
【顔に痣のある娘】:入江美樹
【娘の兄】:佐伯赫哉
ほかに岡田英次、村松英子、千秋実、市原悦子、田中邦衛、井川比佐志、前田美波里

※ビアホール「ミュンヘン」の客に、安部公房と武満徹が紛れている。

1.他人の顔のマスク

超最先端技術(作業は手作業)で、ホンモノと見紛うマスクを作る医者。
「透明人間と同じだ」という。

違う顔になって生まれ変わる、
という夢を手に入れた主人公。

2.顔に痣のある娘と主人公との対比

娘は自ら死を選び、
主人公は人を犯そうとし、殺す。

娘の兄は狂乱し、
主人公の妻は泰然と夫を拒絶する。

このコントラストが切なすぎる。

◆主人公
社会的な地位もあり、豊かな主人公は
不慮の事故で顔に大ケガを負う。
マスクを手に入れ、自分の妻をナンパする。
しかし、妻は当然ながら気付いていた。
夫の芝居に付き合っていただけだった。

◆主治医
主治医は興味半分でマスクを作製する。
看護婦と不倫関係にあり、
妻に気付かれているが意に介さない。

◆美しい娘
左半面はこの上ない美貌。
しかし、反対側は醜い痣。
「お兄ちゃん、戦争まだ始まらないの?」
既存の価値観が無に帰す戦争勃発を願うくらいしか
夢を描けないのだ。
悲しすぎる。
世間の心無い中傷に傷つき、夢を持てず、
娘は死を選ぶ。
死の直前に兄と口吻を交わす。

///////////////

かたや、金持ちの優雅な遊び。
かたや、貧しい者の絶望。

※追記
本作鑑賞後、原作を読んだ。
顔に痣のある娘は、作中作『愛の片側』という映画のヒロイン。
なるほど、だ。
本作はこの説明を端折っている。

なお、この娘を演じた入江美樹は、のちに小澤征爾夫人となった。

3.まとめ〜私が気付いてないとでも思った?!

レントゲン写真が喋るようなシーンから始まる本作。
個人的には、
安部公房の世界観を見事に映像化できていたと思う。

また、共感が得られるかは分からないが、
不必要な寄りの画も少なく、ドライなタッチで
つげ義春の作品を見ているような気がした。

◆人間のあさましさや業
◆若さ故の閉塞感と絶望感

主人公と医師がビアボールで、ジョッキを傾けながら
どうでもよい?理屈を捏ね合う場面が象徴的。

マスクは匿名性、無責任、遊び、傲岸を象徴していた。
マスクレスは絶望、切迫、清冽、涙でしかなかった。

救いのない作品。人間の本質を描いていた。
『箱男』、『砂の女』に勝る作品。
強烈に印象に残った。
☆4.5

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Haihai

3.0シュールで小難しい

2025年4月11日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

悲しい

驚く

 事故で顔に大火傷を追った男。ずっと包帯をした姿で、周囲や妻との関係もギクシャクしてしまう。しかし、優秀な医師により、精巧な他人の顔のマスクを装着することに成功する。その顔で妻に接近し。
 シュールで小難しいセリフが多かったので、あまり楽しめませんでした。夫婦の結末は良かったけど、特徴ある仲代達矢の声ではすぐわかるはず。違う声の役者が良かったのかも。ケロイドの娘が、物語とあまり絡まなかったのはなぜだろう。
 顔といえば、若い井川比佐志と田中邦衛が変わらなくてわかりやすい。平幹二朗と前田美波里は、変わっていてわかりにくい。はっきりした顔立ちの入江美樹は、後に小澤征爾と結婚。

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sironabe

5.0マスク造形のリアルさも60年近く前とは思えない出来で、令和の今観ても古さを感じさせませんでしたね。

2024年11月11日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

興奮

知的

新文芸坐さんに「安部公房生誕100年 超越する芸術・勅使河原宏との仕事」と題した特集上映。初期代表作『砂の女』(1964)『他人の顔』(1966)を鑑賞。

『他人の顔』(1966)
勤め先の化学工場での事故で顔面が損壊した主人公(演:仲代達矢氏)が、損壊のため心が離れた妻(演:京マチ子氏)の心を確認するため別人のマスクを被り誘惑する話。

顔面を包帯で巻かれたビジュアルインパクトは十分、ホラー映画と見紛う本作品ですが、同作も阿部公房氏自ら脚本を担当、カフカの『変身』のごとくマスクをすることで段々と別人格になっていく主人公を仲代達矢氏が見事に演じています。京マチ子氏も悪女でない貞淑な妻を演じ役柄の幅広さを再確認しましたね。
また本作でも勅使河原宏氏の芸術性、カメラアングルは秀逸。
特に包帯をほどき醜い顔をそのまま撮らず、手前の歪曲したフラスコ越しで捉えるカットは主人公の荒れた心象風景も表現しておりましたね。マスク造形のリアルさも60年近く前とは思えない出来で、令和の今観ても古さを感じさせませんでしたね。

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矢萩久登

4.0前衛的

2022年12月4日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

亡くなった俳優がいっぱい出ていて、思わず「若い!」と言いまくってしまった。生き残っている仲代達矢は、まだまだがんばっていただきたい。

安部公房は難しそうで読んだことないが、映画を観ても難しかった。とにかく、いろいろ前衛的だった。令和に再製作しても、テーマは十分通用するし、今時点での新しさが出ると思う。もし作るなら、主人公を長谷川博己で撮って欲しい。医者は山本耕史、妻は長澤まさみで。

最後の方の、仮面をつけた群衆が圧巻。もしかしたら同じ人がぐるぐる回っていたかもしれないけど、あの画は良かった。銀座のビアホール「ミュンヘン」や、渋谷駅(たぶん)とか、街中の景色も懐かしい。京マチ子が雑踏の中にいても、やはりきれいで、一人浮き上がっていた。

BS松竹東急の放送を鑑賞。

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ぷにゃぷにゃ

2.5顔が人格

2022年7月30日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

事故で顔面を火傷した主人公(仲代達矢)は包帯姿、担当医(平幹二朗)が精密な仮面を作ってくれる。
誰も気が付かないと重い、妻(京マチ子)を誘惑することに。
見た目に左右されるのは、鼻の利かない人間だから。

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いやよセブン