「危ないと 子をしかるより 手を引こう。 天才映画監督・北野武、ここに爆誕。」その男、凶暴につき たなかなかなかさんの映画レビュー(感想・評価)
危ないと 子をしかるより 手を引こう。 天才映画監督・北野武、ここに爆誕。
暴力に取り憑かれた刑事・我妻と麻薬組織との壮絶な戦いを描くバイオレンス・コメディ。
監督は『戦場のメリークリスマス』『夜叉』(共に出演)の、後の巨匠・北野武。また、主人公・我妻諒介を自ら演じている。
ヤクの売人、柄本を演じているのは無名時代の遠藤憲一。
後に「世界のキタノ」の名をほしいままにする、お笑い芸人・ビートたけしの監督デビュー作。
元々は『仁義なき戦い』シリーズ(1973-1976)の深作欣二が監督を務める予定だったが、たけしがタレント業で多忙を極めていた為深作の求める撮影期間を確保する事が出来ず、已む無く降板。代わりの監督を立てる必要が出てきたのだが、「深作監督だから出演を許可したのに、それじゃ話が違うじゃねぇかバカヤロウッ!」というスタンスをたけしが取った為、「それじゃあたけしさんくん、ハイ!」という流れで監督就任が決まったのだという。
ピンチヒッターという形から映画監督を始め、そこからあれよあれよという間に世界的名声を手に入れちゃうんだから、人生というのはどうなるのか本当に分からないものなのだ。
俳優としてのキャリアはそこそこにあったものの、映画監督としては完全なるど素人。その処女作でこんな傑作を撮られたとあれば、業界的にはたまったもんじゃない。才能というのは残酷である。
もっとも、たけしはバラエティ番組を通して演者の動かし方やカメラワーク、編集などを学んでいた訳で、その下地があったからこそ急遽映画を撮る事になってもたじろがなかったのだろうが、それにしたって普通のテレビタレントじゃこんな事はまず無理でしょう。“ビート“の肩書きは伊達じゃない。
従来の日本映画とは全く異なるアプローチで作り上げられた異色作。その異質さにはあの淀川長治すら目を回したという。
本作は物語だけ見れば刑事vsヤクザという単純極まりない構図だが、その味わいは他の作品とはまるで違う。警察側にヒロイックな人物は1人も登場せず、全員まるで抜け殻の様に退廃的。悪党側も無表情で一切楽しそうじゃない。
どちらの勢力の人間も虚無感と無常感を抱えて踊るただのコマとして描かれている。一体何故こいつらは命を張っているのか、その事がまるで分からないのだ。
「刑事は足で稼げ」とは常套句だが、我妻はとにかくよく歩く。彼が歩いたり走ったりする様が、ただひたすらに映し出されるのがこの映画の特色であるとすら言える。
彼が歩く時、その背後には当然「街」がある。この映画の人間には感情がないが、その反面リリシズムな情景には溢れている。「街」そのものが観客に多くを物語っているのである。つまり、カメラが捉えるのは歩く我妻という人間ではなく、彼が生きる「街」の方なのだ。
我妻が生きる東京は、欲と悪徳に塗れた現代の「ソドムの市」。映画の登場人物は無感情に、ただ「街」の背景として存在している。
クライマックス、我妻を撃ち殺した男が「どいつもこいつもキチガイだ…」と呟き、悪徳警官として汚職に手を染めた後輩刑事の菊地は「僕はバカじゃないですから」とほくそ笑む。この「街」にまともなヤツは1人も存在していない。
植物はわざと鳥に食べられる事でその種子を遠くまで運んでもらい、フンの中から発芽する事で生息域を広げてゆく。
この「街」は人間に悪徳の種を植え付ける。彼らが右往左往する事によりその悪徳はどんどんと広がり、それが根を張る事で「街」はどんどん大きくなってゆく。結局のところ、人間は自分たちの生活をより良いものにする為に「街」を大きくしているのではなく、「街」が大きくなるために使われているのだ。主体は「街」の方にあり、だからこそ、彼らは無表情で退廃的で虚無感を漂わせている。
この映画はそんな現代の病巣を鋭く、ユーモラスに、そして皮肉をたっぷりと込めて描き出す。我々の生きる現実世界でも、「悪の華」はどんどんと広がり続けているのかも知れない。