「情熱的な芝居では語れない気持ちを語る「無表情」の芝居。」ソナチネ すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
情熱的な芝居では語れない気持ちを語る「無表情」の芝居。
◯作品全体
本作を制作するにあたり北野武監督は「よくあるヤクザ映画のストーリーをそのままどうやって崩せるか」と考えたという。その手法の一つとしてアートチックなモチーフ演出がよく挙げられるが、個人的にヤクザ映画からの文脈から逸脱しているのは「表情の乏しさ」だと思う。
主人公・村川をはじめ、部下のケンや片桐、そして相手役の高橋は感情を表に出すことがほとんどない。沖縄の隠れ家に行くまではそれが顕著で、銃を向けられているときや事務所を爆破されたときでさえも無表情だった。那覇空港で村川たちを出迎える中松組の構成員も無表情で、必要以上の会話もない。「ヤクザ映画の文脈」でいうならば会話劇によって共闘関係や裏切りの展開に向けて意味を作るだろうし、村川たちから見た中松組の第一印象を会話や芝居で演出するはずだ。本作ではそれをせず、様々なシーンで「無表情であること」によって微かな意味しか与えない。それによって村川側・相手側、双方の意図に見立てがつきづらく、展開が読めない緊張感が常時漂っていた。
この演出が、因縁を細かく語って結末をド派手に映す「ヤクザ映画の文脈」とは異なるものだった。
「ヤクザ映画の文脈」の中心にある表情の演出を例示すると、「仁義なき戦い」では物語を動かすときには必ず感情的な芝居がある。濃度の濃い芝居が「情」の表現としても、戦後広島の活気としても生かされていて、そうした芝居の濃度がヤクザ映画の象徴にもなったと思う。そして北野監督はこうした物語を動かす感情の部分を「よくあるヤクザ映画のストーリー」と表現したのではないか、と思う。
更に言うと北野監督作品である「アウトレイジ」も本作とは表情の芝居に差異がある。「アウトレイジ」ではアクションこそが物語の転換点となり、その場面では殺す側と殺される側で恫喝と恐怖のコントラストがある(稀に恫喝と恫喝が衝突するが)。椎名桔平演じる水野はクールな印象もあるが、上司がいない場面では感情を剥き出しにしたり警察官を挑発して人間味ある人物としても描かれている。登場人物の節々に情を感じる点が本作のアプローチとも明確に違う部分だ。
本作で無表情が印象的だったシーンとして村川の部下・ケンが殺し屋に撃たれるシーンがあったが、このシーンも既存のヤクザ映画であればドラマティックな芝居があるのかもしれない。ただ、ここでは村川の心情に沿った「無表情」が表現されていた。
隠れ家で時間を持て余しながらもゆったりと過ごし、柔らかい表情が増えていく村川たち。長い長い一本道の先にある隠れ家と砂浜は、さながらオアシスだ。しかしそのオアシスは当然一生のものではなく、殺し屋が現れることで一瞬にして沖縄へやってきた当初と同じ無表情に戻る。隠れ家に来た当初は悪夢にうなされ、無表情で息をひそめていた村川たちがようやく緩みはじめたところで、村川を再び地獄へと連れ戻すような無表情と無音を与える。ここのシーンは演技の足し算ではなく、引き算で見せる静寂の演出に息を呑んだ。
こうした無表情の演出は村川の本心にも紐づけされている。そのことがわかるのは幸に強い男はかっこいいと言われた村川のセリフだ。
「怖いから、撃っちゃうんだよ」
怖いからこそトリガーを引く。村川たちは冷たい銃口を向けるように、冷たい無表情によって必死に自分を護っていたのだと感じた。このセリフに続く「あんまり死ぬことばかり怖がっているとな、死にたくなっちゃうんだよ」という言葉はラストシーンの暗示のようだった。周りの人間が消されていき、報復としてアサルトライフルを撃ち鳴らす。トリガーを引くことが恐怖の証だとするならば、乱射される銃声とマズルフラッシュは慟哭のようなものだろう。
序盤、ケンに対して「疲れちゃったよ」と冗談めかしながらつぶやいた村瀬にとって、のどかな空気が流れる隠れ家は、さながら楽園だったのかもしれない。そこへ向かう一本道で自殺する村瀬の無表情は、本物の楽園にたどり着けなかった悲哀と死への恐怖を饒舌に語っていると感じた。
「泣く」「怒る」ではなく「無表情」だからこそ強く伝わる感情が、一貫した演出によって生み出されていた。
◯カメラワークとか
・最初に広く大きな海が映された時には面を食らった。それまで映されていた空間は、狭い事務所や雀荘、古いバンなど、とにかく窮屈だった。雀荘の主人が海に沈められるシーンも、夜の真っ暗な海だった。そこから急に青く、解放感ある海が映されるのは相当なインパクトがあった。その時にはわからなかったけど、話が進むにつれてこの海は別世界の演出だったのだと気づいた。
・無邪気に遊ぶケンたちの後ろで静かに準備を始める殺し屋を引きで撮るカットがかっこよかった。
◯その他
・劇伴がすごく良かった。隠れ家のシーンの劇伴は特に幻想的で、静寂さとのつながりが素晴らしかった。
・村川ひとりだけワイシャツで居続けるのは、単に孤独の演出だけではなくて、服装から表情を読み取らせないような意図もあるような気がした。部下の片桐は赤色のアロハシャツを村川から「似合っていない」とからかわれていたが、その服を、色を選ぶというだけで、その人物が透けて見えてしまう。村川の無表情はここにもあるのではないか、と思ったりした。