「変わらぬ宮川の撮影、変わりゆく映画と社会」瀬戸内少年野球団 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
変わらぬ宮川の撮影、変わりゆく映画と社会
淡路島を去っていく武女を見送るバラケツを背後からとらえたショット。真っ赤な灯台。遠ざかる船の明るい茶と合わせたバラケツのセーターの色。小津安二郎「浮草」の冒頭のシーンに雰囲気が似ていると思ったら、撮影はどちらも宮川一夫。
なんで、セリフのないシーンでここまで情感を表すことができるのか。しかも、どちらのシーンも人物の顔すら映っていない。
宮川の撮影なしには成立し得ない名画がいくつあるだろう。自分はたいした本数を鑑賞したわけではないが、この人の日本映画に残した足跡はもっと語られていいと思う。小津や溝口に関して人々が口にするのと同じように。この作品について最も語られねばならないことは、晩年の宮川のこの撮影についてではないだろうか。
しかし同時に、日本映画界の節目ともいえる部分もこの作品は持っている。
もちろん、これが最後の映画出演となった夏目雅子の輝き。
そして、これがデビュー作となる渡辺謙。その後の渡辺の活躍を考えると、夏目が早世しなければ、何度もこの二人の共演の機会があっただろうことは想像に難くない。
義弟に力づくで抱かれた女教師が翌日学校で子供たちにこのように諭す。
国土は米軍に占領されても、日本人としての誇りを踏みにじられてはならない。まっすぐに前を向いて自分の進むべき道を見極めるのだ、と。
これは、夫以外の男に身体を凌辱されようとも、心だけは相手に屈してはなるまいとする、男の力の前に屈した女の意地と重なる。なんのことはない、原作の阿久悠お得意の演歌の世界ではないか。
ここでは、心と体は別という心身二元論が展開されている。この作品の公開当時はまだこうした心と体の二元論が無邪気に受け入れられていたのだろう。
しかしおそらくバブル崩壊後には、このような単純な二元論は鼻で笑われたであろう。男女雇用機会均等法、セクハラなどという概念が跋扈する社会では、男に手籠めにされた女の心と体は別問題などということは、それを口にした者の社会的地位を消しかねないことなのだ。
一本の映画を通して、われわれは言説の浮遊する場が変動していることに気づかされる。