「ここは東京、君は何者?」すかんぴんウォーク 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
ここは東京、君は何者?
本作は3人の何者でもない若者たちがそれぞれ青春的な試行錯誤を重ねながら成功を掴んでいく(=何者かになっていく)サクセスストーリーだ。
しかし本作が巧いのは東京という街の功罪とそれに翻弄される若者たちの姿を冷静かつ克明に描き出している点だろう。
民川をはじめとする3人の若者たちは、それぞれに蹉跌を繰り返しながらも最終的には「何者かになる」ことに成功するが、そこには通常のサクセスストーリーが持つであろう順当なカタルシスが欠如している。
たとえば民川の親友で歌手志望だった貝塚は、民川に歌手としてのパイを奪われ傷心していたところ、やけっぱちで打った辛口トークが意外にも好評を博し、露悪系コメンテーターとしての地位を確立した。
元子役でアイドル志望の野沢もまた、ヌード女優への転身を決意したことで結果的に芸能界へ返り咲くことに成功した。
主人公の民川ももちろん例外ではない。彼は演者を目指して広島くんだりから家出まがいの上京を果たしたものの、演技ではなく声質の良さを認められ、歌手への転向を果たすことによってスターダムに足をつけることができた。
3人は確かに「何者かになる」ことに成功こそしているが、その成功は純粋に主体的なものではなく、外部からの要望や圧力によって不自然に歪められた痕跡が見て取れる。彼らが最終的に自らの得た地位について留保のない満足を感じていたとは言い難い。
何が一番悲しいかといえば、3人が当初こそそれぞれ持っていた具体的な夢が、結局最後には「何者かになる」という漠然とした目標にすり替わってしまっていることだ。
なぜ彼らはそこまで焦らなければならなかったのか。ここには東京という街の暴力性が関係している。
地方出身の人間になぜ東京に出てきたかと問うと、たいていが「自由だから」というような返答をする。もちろん私も。
事実、東京はきわめて懐が広い街だ。たとえば私が新宿駅のホームで唐突に叫び声を上げたとして、その行為が訴求力を持つのはほんの一瞬のことだ。電車が来れば私が叫んだことなどは誰もが忘れてしまう。というか、忘れてくれる。基本的に他者に無関心なのだ。このおかげで私は明日からも平常な日々を送ることができる。地方ではこうはいかない。
しかし一方で、この懐の広さ、すなわち無関心はそこに抱かれるあらゆる人間の価値を均等化しようともする。路上でギター片手に愛を歌い上げる程度では、繁華街で大衆に向かって熱弁を振るう程度では、駅のホームで叫び声を上げる程度では、誰も関心を持ってくれない。
何者でも受け入れてくれる代わりに、何者かになることもきわめて困難であるという、優しさと表裏一体の暴力性こそが東京の「自由」の正体だ。
絶えず迫り来る均等化の空気感。自分は何者でもないのではないかという不安。その追走から逃げ切るためには、どうであれ成功への糸口を掴み、そのまま一目散に伝い上がっていくしかないのだ。
果たしてそれがどんな色の糸であるのか、考えている余裕などはない。
物語のラストシーンでは、突如画面がモノクロに切り替わり、コンサートに臨む直前の民川の様子が映し出される。会場の熱気とは裏腹に、民川は終始フワフワとした様子だ。
「何者かになる」ことに固執し、自分の本当の夢や人間関係を蔑ろにしてきた民川だったが、そこまでして勝ち得た光景がこのように陰鬱なモノクロ画面だと思うとなんともやるせない。