「生存か、実存かーー“自分探し”の果てに見えてくるもの」新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
生存か、実存かーー“自分探し”の果てに見えてくるもの
1997年公開。28年前の作品だ。
当時、僕は20代で、仕事に追われつつ「こんなはずじゃなかった」という感覚が強く〝自分探し〟の最中で、エヴァは切実な物語だった。96年のテレビ版のラスト2話で、ロボットアニメとしてのエンディングは放棄された。テレビ版のエンディングを作り直す本作を、すごく期待をして待った。そして、この2話を見て圧倒されつつも、再び「?」となった。
エヴァが描く「自分とは何か?」「どうすれば自分は幸せになれるのか?」といった実存的な自己探究は、当時の若者にとって切実だった(現代も、それは変わらないと思う)。「自分探し」という言葉の流行も、本作公開と前後する90年代である。
当時は自己探究の問いに答える一般書籍はすごく少なかった。ポストモダン哲学や、またそれ以前のサルトルやニーチェなどの実存系哲学書など知らなかったし、普通の若者には難易度が高すぎた。そうした状況の中で、庵野がこの時期、本作に自己探究の物語を埋め込んだのは画期的だった。
自己啓発の源流の一つでもある『7つの習慣』は1996年発売。その頃から、食べていくため、儲けるための軍隊組織論的なビジネスから、自己実現する働き方へという流れが生まれた。その後2000年前後から、そうした一般書籍が盛んに出版されるようになった。僕が、そうした本を読んだのも、この作品を理解するためであった気がする。それは自己と世界の理解のためでもあった。
あっという間に30年近くが過ぎてしまった。かなり久しぶりに本作を見たので、現時点での解釈を、できるだけ簡単に整理してみたい。
エヴァという物語は常に、人間関係の葛藤に突き当たる。葛城美里が語る〝ヤマアラシのジレンマ〟である「遠ざかると寒く(不安・孤独)なる」「近づくと傷つけられる」という葛藤をシンジも美里も抱えている。
エヴァに自分だけが乗れると言うことは、これ以上ない万能感や自己肯定感を得られることだが、シンジはそれを感じられない。それ以前に、自分を危険に晒し、傷つけられ、時に他人を傷つけるという葛藤にぶつかっている。
「あなたはすごい」「あなたはよくやっている」「あなたが好きだ」と承認してもらわないとシンジは自分を保つことができない。言葉で承認されてもそれも信じられない。そして、相手を試すような行動を取る。
これは庵野自身の、そして本作に当時エヴァにハマった僕ら共通の実存的不安でもあった。
庵野は当時テレビ版への猛烈な批判にさらされて、抑鬱状態の中で本作を制作している。切実な悩みをエヴァという作品で自己開示した。それなのに観客は、エヴァというアニメ作品世界の中に耽溺し、「庵野、死ね」などと批判を突きつけてくる。
「みんな現実を見ない。自分もそうだった」「現実に戻れ」
「自分を閉じること(実存的内省)にはもう限界がある」
…というような彼の言葉からもわかる通り、庵野は自分探しに疲弊し、他人との幸福なつながりを模索していた。
自己を放棄して、他人とつながる。自我のない世界、生命誕生前の溶け合った状態が幸福だ…という人類補完計画の解決策は、日本人的には共感できる方法だ。言葉にせず察し合う、自分を殺し同調する、自己主張より一体感…というような文化が私たちにはあるからだ。
本作は欧米では理解されなかった。サルトルがいう「他人は地獄」という認識はあっても、自立した個人という前提は揺るがしようがないからだろう。補完計画は、西欧の個人主義やキリスト教的人間観と相容れず、全体主義・ファシズムの隠喩に見える。
実際、欧米での批評は、一部アカデミック層から、フロイト的無意識の世界を描く作品としての評価を得つつも、多くは理解不能・意味不明、カルト的という厳しい評価であったようだ。
本作を切実な思いで観れたのは、周りと溶け合い同調したいという方向と、自分らしさを確立したいという両方の思いで引き裂かれる90年代の日本の若者ならではであった(その状況は今も続いているように思える)。日本的感性において、無我(個を滅する)的な方向による調和と一体化は一定の説得力があり、その危険な魅力がエヴァの根幹にある。
人類補完計画は冷戦後の世界のグローバリズムの隠喩として読み取ることもできるかも知れない。グローバリズムの理想は「争いのない一体化した世界」。これはゼーレの理念「全ての人の心が一つになれば、争いも悲しみも消える」と酷似している。
しかし、強制的に人間の差異を奪ってしまえば、個性も消える。「らしさ」が消えた世界に幸せはない。これが現在世界で起きている国家・地域性・人種といったATフィールドの復活の動きと見ることもできると思う。
自己探究の物語は“自己をどう構築するか”という心理的な問いに通じていて、本作を脳科学的視点から読み解くこともできると思う。
脳科学者ジル・ボルト・テイラーの「Whole Brain」という本がある。この本は、左脳が機能停止した脳科学者が、自らの体験を元に左脳と右脳の仕組みを解説した本だ。
エヴァに登場するMAGIシステムは3つのキャラクター(科学者、母、女性)が合議制で判断するが、テイラーの主張は、人間の脳には4つのキャラクターがあり、その4者が合議制で機能しているというものだ。
4者はそれぞれ個性的だから、合議はなかなかうまくいかない。同時にうまく働くのは困難で、左脳優位になることで、暴走気味になる。
左脳は〝生存〟を司る脳だ。個人が生き延びるための機能が集約されている。現実世界をサバイバルするための自我と理解していいと思う。つまりATフィールド=自我境界という生物的な基盤による自己保存の脳だ。
左脳には、論理的思考を司るキャラクター1と、危険を察して警告するキャラクター2がある。
シンジは多くの現代人もそうであるようにキャラクター2が優位だ。自分を守ってくれる父母が不在だったこともあり、生存アラート機能が肥大している。転校先やネルフで出会った人々も味方であると感じられないまま、危険な戦いに放り込まれて、このキャラクター2がさらに強く機能している。
人間は社会的動物だ。周囲とうまくつながることで安心できる。「自分は周囲に認められているか?」「今の自分でOKなのか?」ーー他人の中で生きる時、こうした問いが常に頭の中を駆け巡っている。
キャラクター1による、計画や現状分析、戦略的努力によって「うまくやっているOKな自分」を作る。その場に貢献し、自分で自分を承認することで、キャラクター2の不安を鎮めていくのが、左脳の2つのキャラクターの健全な働きだ。
アスカや綾波がそれを体現している。アスカにとっては有能であることが、不安から逃れる手段だ。また、綾波は、周囲との絆を作る手段としてエヴァを捉え、それに献身している。
シンジくんは、キャラクター1がうまく機能していない。周囲からOKだと承認を得たいが、自分で察することができず、常に他人からの言葉と態度での承認を求め続ける。他人の言葉も口先だけとしか思えない。「自分が有能(エヴァに乗れる)だから、僕を承認するんでしょ」「個人としての僕じゃなくて、パイロットとしての僕が必要なだけでしょ」とキャラクター2の警告はとどまるところがない。周囲に同調し、組織に違和感を感じつつ献身する私たち日本人の中から消しがたい承認欲求をシンジは体現している。
左脳優位になるのは、〝実存〟を司る右脳を意識するのが難しいからでもある。(左脳は自分を周囲から切り離された存在と捉えるのに対し)右脳は周囲と自分を一体化したもの、全体的なものとして捉える。つまり、右脳は、人類補完計画的な、個人と時間が消失した世界、全てが繋がった世界という認識をする脳なのだ。
実際、左脳が機能喪失したジル・ボルト・テイラーは自分の体がどこまでかが分からなくなった。過去や未来が認識できず〝今ここ〟を全体的に感じるようになった。そして、自分が周囲と調和した至福の時間を過ごしたという。
本作でアスカが覚醒する場面では、ATフィールドが、分離し自己防衛するだけではなく、亡き母という全体性とつながる機能があることが示される。これが右脳の機能だ。
右脳は意味を感じる脳でもある。マインドフルネス瞑想やメメントモリ(死を想う)的な認識によって、左脳は静かになり、右脳が認識する世界が現れる。
花びらが散った、雲が流れる、夕日で周囲が赤く染まる…そんな意味がなさそうな些細なことに、言葉にできない深い意味があるように感じるようになる(「秒速5センチメートル」は、その右脳的感覚を描く映画でもあると思う)。
エヴァの構造は、この左右の脳の対話と対比で成り立っている。
左脳だけでは、世界や他者とのつながりを失い、孤立する。
右脳だけでは、現実的判断ができなくなり、自己が不在になる。
脳科学的にも人間とは、その左右を行ったり来たりすることでなんとか生きていく存在だ。個の確立・自律(自立)といった周囲からの切り離し(デタッチメント)と、周囲との繋がりと協調(アタッチメント)の往復運動は、一生をかけた人の発達過程でもある。
本作でのシンジくんは、他者との完全な融合を選ばず、個として生きることを選んだ。そしてサルトルのいう「他人という地獄」の世界へ戻っていったーー。
その地獄を象徴するのが「気持ち悪い」という言葉だ。
左脳は拒絶・否定の言葉として受け取るだろう。本作のラストのセリフも激しい拒絶と否定のニュアンスが込められている。
サルトルも「他者からの解放」を実現できなかった思想家でもある。自由とは他者との闘争であり、その代償として孤独を引き受ける必要があった。
エヴァシリーズは、そのサルトル的見方を一歩進める試みでもあると思う。他者は地獄であると同時に救いでもある。他人はコントロール不能だけれど、その不完全な状況を受け入れ、関係性の中に自己が生じるという視点を導入した。
ただ、まだ本作では、他人との繋がりを温かなものとしては捉えきれておらず、それゆえショッキングで希望を感じにくいラストになったのだと思う。それが「シン」シリーズでより成熟した庵野によって改定された。
同じ状況でも受け止め方は様々だ。人間が意味を感じる時、右脳の文脈的な統合が働いて「自分と世界は繋がっている」と安心する関係として世界や他人を認識する。
その右脳的認識が働かないと、言葉は単なる情報で、字義通りの拒絶の言葉と感じられる。そして、自己保存のために、逃げる、闘う、固まって動かないかという選択肢から選ぶことになる。シンジも、多く場合、逃げたり固まって動かないことを選び、そんな自分がダメだとも思っている。
右脳的なつながりの感覚がしっかりと働いていれば、アスカの言葉は「ちょっと気持ち悪い、やめてよ〜」みたいな響きになるかもしれない。そして「アスカはいつも厳しいなあ。傷つくよ」くらいのグルーミング的じゃれあいとして描けたかもしれない。
現代では男性的暴力性とハラスメントといった視点も入ってくることで、なかなか難しいところだ。シンでは身近な人々と繋がって一緒に生きていく姿が描かれ、共同体主義・コミュニタリアン的な成熟として描かれることになる。
この辺り、現代思想や政治的世界の変遷と、エヴァという作品の変遷、そしてその背後には庵野という作家の成熟の過程が絡み合っている。「自分と他者をどう捉えるか」が変化し成熟していくから、その反映としてのエヴァも何度か描き直すことになった。
本作は、作者と時代と共に成熟する作品としてのエヴァの方向性を示した重要な1作だ。「これで本当にOK?」という疑問が残るからこそ、その後も多くの人がそして何より庵野自身考え続けることになった。
エヴァが示したのは、救済ではなく成熟だった。それは、他者と世界を〝完全なものにする〟のではなく〝不完全なまま関係し続ける勇気〟の物語でもある。
本作の変遷を追いかけることは、自分自身の成熟や成長を問い直すことにもなることだと感じる。改めて、エヴァと同時代に生きられたことを幸運に思い、感謝したくなった久しぶりの再鑑賞だった。

 
  