「公開当時に見ていれば」シコふんじゃった。 佐分 利信さんの映画レビュー(感想・評価)
公開当時に見ていれば
1991年製作。私が大学へ入学した年の作品。時代はバブル経済の最後を迎えようとしていた。中国の天安門事件やドイツの東西統一などの出来事を経て、世界の枠組みが大きく変更されるこの時代に、日本社会はまるで映画でも見るかのようにこれらの事件を他人事のように眺めていた。そして、日本は世界の変革から遠い地点に取り残され、バブル経済の崩壊後にしっかりとこのツケを払わされることになる。映画は日本社会が当時抱えていた矛盾を、すでにその当時の時点でいくつも指摘している。
最も分かりやすく、かつ実際に起きた事件が投影されていることが明らかなのが、「女性は土俵に上がれない」という「伝統」とジェンダーの問題である。この前年に、女性で初めてそのポストに就いた森山官房長官が、大相撲の表彰式で土俵に上がることを相撲協会に拒否された。映画では、人数合わせのために女性力士を急造して土俵に上げている。しかも、土俵外に投げを打たれて立てない彼女を介抱するために、女性マネージャーが土俵を横切っていく。伝統やしきたりという名の壁を軽やかに飛び越えていくのは、相撲に関わるようになってから日の浅い者、相撲にそれほど愛着なく打算でこの世界に足を踏み入れた者たちなのである。
しかし、そのような若者たちの中で、土俵で十字を切って神に祈る者は、表現方法は伝統とは相いれない方法だが、相撲への真摯な気持ちを持ち合わせている。それに、臀部を露出することを頑なに拒否するイギリス人留学生も、「本質的なところを理解しようとしない」と日本社会を批判した自分の言葉が、恥の概念は文化が異なれば違ってくるという本質を受け入れられない自身に向かっていることを悟る。そしてそのことは、愛し方の方法や表現は異なっても、伝統はそれを愛する者たちによって未来に引き継がれていくという、ごく当たり前のことを伝えている。
映画の表面的なテーマは相撲であるが、これは文化の相対性、価値観の多様性について問いかけている作品で、当時の学術・思想の世界ではこの考え方はすでに大きな地位を占めるものであった。
しかし、当時の日本ではこのような思潮は一般的なものにはなり得ず、その後現在に至るまで大きくは変わらなかった。
この30年間、日本という国が世界の経済成長から取り残されただけでなく、思想・文化の面でも世界の流れに乗り遅れているという事態。そして、公開当時にこの作品を観ないまま、自分という人間の本質に向き合うことなく諸問題を放置し続けてきた結果、人生の様々な面で行き詰っている自分の姿が重なって見える。