さらばラバウルのレビュー・感想・評価
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ラバウルは今もなお日本人のものの考え方の中にあるのかも知れない だから、さらばラバウル!と言おう
タイトルは有名な「ラバウル小唄」という歌い出しの一節から採られたもの
この歌は軍歌ではなく、戦争前の1940年発売の流行歌
南洋での要所であった同地を離れる悲しみを歌ったもの
軍歌は「ラバウル海軍航空隊」で、こちらは1944年の発表で別物
映画はラバウルに進出した海軍航空隊の物語
同地で海軍航空隊が活動したのは1942年2月から1944年の2月の撤退までの期間で、本作はその末期1943年の年末頃から翌年2月の撤退頃までを描く
だから軍歌の方は、この撤退を糊塗する為の歌であったと分かる
ラバウルは南太平洋での最前線ガダルカナル攻略の拠点
ガダルカナルまでは約1000キロ、往復2000キロ
東京、博多間とほぼ同じ距離
これを毎日片道3時間程掛けて攻撃にいく
往復6時間だ
そしてガダルカナル上空では敵戦闘機との生死をかけた空中戦が待っている
帰り道の燃料を残さないとならないから、思い存分は暴れると危険
その行き帰りも空に道がある訳でもなく、カーナビももちろんない
昼間攻撃だから天測もできない
コンパスと地図だけでなにもない海上を飛ぶ
ちょっとでも進路を間違がえれば燃料切れで海に墜落だ
もちろん途中にサービスエリアがある訳もない
休憩も出来ない
トイレも垂れ流しだ、居眠りすれば墜落だ
これを毎日やる
もちろん敵も同じようにガダルカナルからラバウルに攻撃を掛けてくる
だから基地に帰っても敵がくれば迎撃もやらないとならないから気が抜けない
日本側は「操縦士の墓場」と呼び、米軍側では「竜の顎」と呼んだ
バリバリとパイロットが喰われる意味だから日米とも同じだ
猛烈な消耗戦が行われたのだ
消耗されるのは戦闘機、弾薬、爆弾もだが、一番堪えるのは熟練した戦闘機乗りがどんどん喪われることだ
本作はそれがテーマだ
劇中でも壁面一杯に死んでいった戦闘機乗りの写真が貼られているシーンが登場する
本作は米軍側に圧倒されつつあり、飛行機だけでなく、心身共に消耗し尽くしている様子から物語がはじまる
敵のエースパイロットが捕虜となり尋問するシーンが中盤にある
そのシーンで彼が語る言葉が本作のテーマだ
ゼロ戦をどう思うか?との質問に彼はこう答える
攻撃力に優れた良い戦闘機だ
熟練の腕の良い操縦士が乗っていたら恐るべき兵器だ
しかしそうでない操縦士が大半だ
彼らが乗ればどうか?
防御力のない機体はたちまち操縦士の命を失わせる危険な兵器だ
それなのに、どうして日本軍はパイロットにパラシュートをもたせないのだ?
人命を軽視する兵器で戦う軍隊に勝ち目は無い
敗戦して日本軍は消滅した
自衛隊はこの反省を活かしていると思いたい
しかし戦後何十年も経っているのに、軍隊でもない民間の会社で過労死や精神を病む人々が出るのはどうしたわけだ?
自分もかって経験した
あたら優秀な先輩や同僚達が次々と身体や精神を壊し、どんどん脱落して、すり潰されていくラバウルのような職場を
先週の仕事の成果を問われる月曜日の会議が終わったら、なんとか今週も生き残ったと安堵したものだった
その時期の時間外残業は毎月100時間から200時間にも及んだ
しかもガダルカナルの様に遠い郊外から毎日遠距離通勤していた
人命軽視、人間性軽視が日本人の性質に根ざしているということなのだろうか?
ラバウルは今もなお日本人のものの考え方の中にあるのかも知れない
だから、さらばラバウルだ!
ラバウルにまた来ることは無いようにしなければならない
さて映画だが、演出も余りよくない
不時着した部下を簡単に見捨てていた主人公が、敵パイロットの言葉に、衝撃を受けて何かが変わり、つぎの不時着者がでた際には、自ら救出に向かうのはいいが、それが戦闘機で出かけて、部下が不時着した浜に着陸して、重傷の部下を乗せてまた離陸してしまうのには呆れた
せめて複座水上機にして欲しいかったものだ
これで一気に萎えた
岡田茉莉子は主人公とは微かなロマンスとなる看護婦役として登場
大変に美しい
実物大の零戦が登場するが、空戦シーンはまあそれなりで、あまり驚くような特撮はない
本多猪四郎と円谷英二のタッグ
1954年6月の公開
この5ヵ月後にこのタッグでゴジラが公開されるのだが、本作からその予感は感じ取れない
前作の1953年10月公開の「太平洋の鷲」の方が、遥かに、なる程この直線上にゴジラが出来たのだと納得できるものを感じ取れる
ただ冒頭で登場するラバウルのサロンでの現地島民のショーは後のモスラに継承されているものを感じる
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