祇園囃子のレビュー・感想・評価
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当時も今も同じ よくわかった
今年、先斗町の舞妓さんだった女性が明らかにしたこと、この映画の時代とまるでおんなじ。舞妓になって最初のお座敷でいきなり駆けつけ三杯、更にぐでんぐでんになるまで飲ませる。嫌がるのに変なことして構わないという男の客達。お金がなくては仕事ができない商売、着物が買えない、舞妓になる支度もできない。だから借りが出来る。舞妓も芸妓も目標はいい旦那を見つけること。花街で力のあるお母さんの意に背いたら干されてお座敷にでられない=収入ゼロ=自立してできる仕事ではない。
好きでもない客や50才近くも年上の客を旦那=パトロンにしなくてはならない。お金が必要だから。踊り、三味線、着物、鳴り物、お茶、お花を身につけた舞妓さんは伝統文化、無形文化財と綺麗事を言われたって実質は男に都合よくできている存在で世界。溝口監督の映画だから説得力あり花街の本質がよくわかる。戦前は30年代に「祇園の姉妹」、戦後の50年代に本作。監督の視点はぶれていない。
祇園の舞妓だけが変わっていないのだろうか? 日本の社会そのものも変わっていないのでは無いだろうか?
1953年、昭和28年公開
原作は川口松太郎の小説で、彼は溝口健二監督と同じ小学校の同級生とのことです
原作はあれど、本作の内容は溝口監督が17年前の、戦前の1936年昭和11年に撮った祇園の姉妹のセルフリメイク的な作品です
その作品は戦前の日支紛争に突入し戦争体制に日本が変わる前の京都祇園の物語
そして本作は戦後のようやく独立を回復した頃の京都祇園を描いています
戦争を挟んで一体何が変わったのか?
それが本当のテーマではなかったのでは無いでしょうか
京都の街並みは冒頭の遠景、祇園の路地の光景、何の変わりも有りません
祇園の舞妓達の日常もまた変わりは無いのです
木暮実千代35歳
彼女の演じるベテランの売れっ子舞妓美代春は、身体の曲線といい、挑戦的な目鼻立ちといい実に艶っぽく大人の女性の魅力が最高潮にある姿形で、見とれてしまいます
若尾文子20歳
栄子、舞妓となって美代栄
彼女が家から逃げて来た初登場時の役設定は16歳
舞妓デビューは1年の修行を経たので17歳という役設定です
まだ子供のような固い蕾といった風情があり、後の若尾文子の成熟した肉体が発散する性的な魅力はまだ微塵もありません
美代春は17年前の祇園の姉妹の時代いくつであったのか?
彼女は18歳頃であり、本作での妹舞妓となった美代栄と同じ頃であったと言うことです
つまり本作は戦争を挟んで二人の舞妓の人生の対比を描くということで戦前と戦後の何が変わったのかを描くことがテーマなのです
美代栄は舞妓デビューで酔わされてしまい
本音を放言したという形で、監督は本作の構造を明らかにします
私がアプレゲールなら、お姉さんはアバンゲールやわ
美代栄は舞妓の修行の時に女性の人権という言葉に反応している女性なのです
結局、戦後になり憲法もかわり、男女平等となっても、祇園の世界は何も変わっていなかったと言うことです
ラストシーンは二人連れ立ってが、祇園祭りのお囃子が聞こえる中、暮れゆく祇園の街並みをお茶屋に向かうシーンです
ここで初めてワンカットワンシーンの手法が効果的に使われています
通りの奥から現れて、カメラの手前を通り過ぎて祇園の雑踏に消えていくのです
このように祇園の舞妓達は、過去も現在も、そしてこれからも何も変わらずに時は過ぎ去っていき時代も変わっていくのです
それは祇園の舞妓だけなのだろうか?
それは日本の社会そのものも同じなのでは無いだろうか?
進藤英太郎の演じる栄子の父は戦前の旦那の象徴です
河津清三郎の演じる楠田専務は戦後の旦那の象徴なのです
戦前の体制は没落して、新しく体制が変わってもやっていることはそれまでの拡大再生産であるだけなのです
何も変わってはいないのです
それが本当の本作のテーマだったのだと思います
傑作です
そして今は本作から62年後の2020年令和2年です
今年の祇園祭はコロナウイルス禍によって山鉾巡行中止だそうです
でもこの構造は今も変わってはいないのかも知れません
【祗園で呑んだ翌日に「祗園囃子」を観て思った事、幾つか。】
現代の京都の花街文化は、表面上では今作品で描かれる昭和28年当時と変わっていないように見える。
が、この映画を観ると当時の京都花街の因習、及び、舞妓・芸妓の置かれた哀しい立場が良く解る。
小暮実千代演じる芸妓の品性高き美しさと若尾文子演じる舞妓(何歳だったのかな、少女のあどけなさが残る)の自由奔放さが、この作品の趣を醸し出している。
それにしても、「アプレ」という単語は10数年ぶりに聞いた。(アプレ舞妓・・・現代の花街で使ったら、通じるだろうか?)
昭和20年代、日本の思春期映画の走りの作品。
滋味深くも、切ない作品でもある。
〈2019年8月13日 酷暑の京都にて鑑賞〉
新進女優・若尾文子への視線
何度かTVで観たことのある作品。溝口健二監督の作品として意識して観るのは初めて。
若尾文子がまだ10代だろう、とてもみずみずしく、それでいて男の目を離さない魅力をすでに放っている。
京都・祇園の花街の人間模様を、その裏側の薄汚い部分も含めて描いている。華やかな世界には必ず裏が存在すること、これを映画を通して描いたその意図はどこになるのだろうか。
映画の世界に飛び込んできたばかりの若尾と、舞妓になったばかりの美代栄の姿が重なる。映画の世界もお茶屋の世界も生き馬の目を抜くようなことがある。そこで生きていく覚悟を問う視線が女優・若尾文子に注がれているように見えるとしたら、それは若尾に肩入れしすぎであろうか。
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