神阪四郎の犯罪のレビュー・感想・評価
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モヤのかかった真実と、印象的な利己心の表現。
◯作品全体
誰が正しく、誰が悪いのか。最後までモヤがかかったかのような物語は好き嫌いが分かれそうだが、個人的には「善人・悪人」、「加害者・被害者」というような、記号で縛られない登場人物を見るのが面白かった。
推理サスペンス作品や法廷モノでは推理や供述の中で加害者や被害者から言質を取り、真実を見つけていくのが定石だ。その言質は確かに真実だし、その言質の裏にあるそれぞれの思惑も真実として存在する。
本作も表面上は法廷モノで、物語にある供述の方法もそれに則ったものだけど、根本的に異なるのは、最後まで登場人物の真実が見えないところだ。物語の出発点や物語を動かす手段は同じなのに、目指している「真実」という着地点が非常にあいまいになっている。これを「けむに巻いたオチ」と捨て去ることもできるけど、個人的にはそのあいまいさにとても人間味を感じて、登場人物の奥行きを味わえるオチだと思った。実際、人の起こす行動が「善悪」のどちらかに一貫しているわけではないし、その行動が善なのか悪なのかは人の立ち位置によっても違う。本作は70年も昔の作品だが、今も変わらない人間の利己心の描き方にリアリティがあって面白かった。
そういったリアルで立体的な利己心を強調させるのが複数による証言と、法廷という舞台だ。法廷は人によって立ち位置の違う善悪を法の下に一元化する舞台だ。しかし、それでありながら複数による利己心により本作では法の力強さが機能していない。しかも、フィクションでは現実以上に強調される裁判官や検察の権威が、本作ではあまり発揮されていない。審判の結果や罪の重さもほとんど語られず、フィクションには珍しく法の力を示すシーンが非常に少ない。主張の少ない法を司る人物と饒舌に語られる真偽不明の供述とを対比させることで、立体的な利己心を強調させているように感じた。
神阪に与えられる罪は変わらないが、明らかにされるものは神阪の悪行ではなく、登場人物の利己心。真実はわからないままだが、登場人物たちが影に隠した心の映し方は見ごたえ抜群だった。
〇カメラワークとか
・法廷のシーンは同じような画角がずっと続くところもあって、少しカメラの置く場所に困ってた感じがした。神阪の子どもが神阪のもとに来るところは法廷を巧く使ってた。供述者と傍聴人の間にある柵を唯一潜り抜けられるのは子どもで、両方を行き来することができる子どもには裏表がない。神阪に関係する人物で唯一裏表がないのと重なる。供述をする場所も、本作だと「本人にとって都合の良いことを話す場」として使われていて、子どもにとって都合が良いのは本心からくる「早く帰ろう」だけっていうのも面白い。
・編集員・さち子の供述はラストで神阪の妻・雅子に触れる。その流れで雅子の供述が始まるんだけど、窓の外をマッチカットとして使っていて、シームレスに演出していたのが面白かった。
〇その他
・神阪の会話のテンポとか口調はそれぞれの回想のなかでまったく違う、っていうのが面白かった。千代の時には女口調になってたり。
・千代が四郎をビンタするときの音がめちゃくちゃ良い音してた。凄い痛そうだったけどあれは編集で音を足してるのかな。
・当然のごとく部下や店員さんにセクハラしてるのが一番古さを感じる文化だ。むしろ新鮮に見える。
・50年代の街並みが見られるのも面白かった。編集会社の前が電車の高架だっただけど、あれは山手線だろうか。ラストの東京地方検察庁から出てくる場面、本当に庁舎を使っているとしたら日比谷公園とか映ってそうだけど、検察庁のHP見る限りもっと立派な庁舎だったみたいだし、違うところで撮ってるんだろうな。
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