「「無駄があるからいいんじゃないのかな、世の中」」お早よう jin-inuさんの映画レビュー(感想・評価)
「無駄があるからいいんじゃないのかな、世の中」
昭和34年、今から64年前に公開された本作。今でいうタウンハウスというのか、同一規格の一戸建て風集合住宅に暮らす平凡な庶民の日常を淡々とスケッチした本作に、起承転結的ストーリーはありません。この映画を当時映画館で観た観客たちはどう思ったのでしょう。「あるあるw」なのか「モダンで素敵!」なのか「平凡w」なのか。小津監督はもしかしたら、リアルタイムの観客よりも遠い未来の私たちの方を意識しながらこの映画を作ったのではないか、そんなことを思いました。
「江戸時代の長屋暮らし」→「昭和30年代のタウンハウスの暮らし」→「現代のマンション生活」
時代の変遷とともに日本人の生活様式も随分大きく変わって来ましたが、そのなかで私たちはなにを得てなにを捨ててきたのか。得たものは、おしゃれな暮らし、電化製品に囲まれた便利な暮らし、オートロックや個室に守られるセキュリティとプライバシー。捨ててきたものは、火鉢とちゃぶ台を囲む家族の団らん、ご近所づきあい、無駄話。
林家は熟年夫婦(敬太郎:笠智衆、民子:三宅邦子)+男の子2人(兄は中学生、弟は小学生)+民子の妹の若い女性(有田節子:久我美子)の5人暮らし。兄弟は親にテレビを買わせるため、ストを決行します。謹厳で口下手な父は当時の評論家の言葉を借りて「一億総白痴化」とテレビを批判しますが、自分の言葉で子供達を説得することはできず、ついに根負けしてテレビを買ってしまいます。林家の食卓では、今後テレビの話題が中心を占めるようになるでしょう。父にそれを止めることはできませんでした。生活の急激な変化を推し進める原動力は子供や女性たちの欲望のようです。茶の間にテレビが入ることで林家が失ったもの、それは何もない時間を共有することで家族の間に流れる目には見えない情のようなものでしょうか。小津監督も笠智衆も、それを言葉で説明しようとはしません。
大人と子供の対立を仲介するのは二人の若者です。一人は叔母さん節子であり、もう一人は近所のモダンアパートに住む福井平一郎:佐田啓二。イケメン、英語堪能の彼は翻訳のバイトで食いつないでいるようで、度々節子も仕事を依頼しています。どうやら二人は相思相愛のようですが、お互いに自分の言葉で自分の気持を率直に伝えることはできません。
林家の兄弟は戦後教育の申し子たちであり、現代っ子です。親に平気でウソをつく、出された飯に文句を言う、親父に向かって「怖かないやい、へっちゃらだい」と減らず口を叩く、説教されたら「そんなのこっちの自由だい!」と生意気な口ごたえをする、やたら口数が多い、面白くないと「わー!」と奇声を上げて暴れる、ダダをこねる、聞き分けがなく強情、前髪が長い。そんな聞き分けのない子どもたちに親父は声を荒げることはあっても手を上げることはありません。本作に出てくる大人の男たちはみな、まだ敗戦の影を引きずっているかのような負け犬感を醸し出していますが、彼らは家族に暴力を奮いません。
まどろっこしい大人や若者たちと違い、林家の子供たちは単純なデジタル思考です。彼らは大人たちの挨拶や会話は中身がなくてすべて無駄と決めつけ、父から「男が無駄口をきくな」と叱られたら一切言葉を発しなくなります。微妙な感情の機微や父の言葉の真意を理解しようとはしません。興味はテレビの相撲と野球、あと、いつでも好きに屁をこく訓練。戦後生まれの彼らには全く屈託がありません。
原口家は、熟年夫婦(きく江:杉村春子、婿養子の辰造:田中春男)+男の子1人(中学生)+きく江の母(みつ江:三好栄子、助産婦)の五人暮らし。最近電気洗濯機を買ったきく江は、婦人会会長の立場を利用して会費を横領したのではないかという噂を立てられ、会計係の民子と険悪な雰囲気に。でも母のみつ江の勘違いと判明し、なんとか取り繕います。ご近所あるあるでしょうか。それはいいとして、お互いに気の強い似たもの同士のみつ江ときく江の母子はお互いになじり合うばかりで、関係性は破綻しているようです。老人世代代表のみつ江はなにかあれば神頼み、古い因習に囚われた女性ですがまだ耄碌はしていません。怖い押し売りのおじさんも一歩も引かずに撃退し「またおいで」。どの女優もいいですが、特に三好栄子は怪演です。自分を厄介者扱いする娘に対し「どうしてあんなやつが生まれちまったもんだか、あーあ…」と画面に向かって一人嘆息しています。
大久保家は、熟年夫婦(しげ:高橋とよ、善之助:竹田法一)+男の子1人(中学生)の三人暮らし。無駄話と噂が好きなしげは余計なことばかり喋り主婦たちの間に不和をもたらします。全く悪気はないのにトラブルを巻き起こす鬱陶しいおばさん代表です。
富沢家は、熟年夫婦(汎:東野英治郎、とよ子:長岡輝子)と猫のミイコの二人と一匹暮し。定年を迎えた汎は今後の生活の不安に鬱々としており、全くモダンではない古びたおでん屋で酒をあおります。その店は時代から取り残された男たちの墓場です。もちろん敬太郎も常連です。そこだけは戦前から時がとまっているようです。もちろんテレビもカラオケもありません。
丸山家は若者夫婦(明:大泉滉、みどり:泉京子)の二人暮し。熟年夫婦の専業主婦たちはみな和装ですが、みどりは洋装で室内も洋式です。「昼間っから西洋の寝巻き着てw」「池袋のキャバレーにいたらしいわよ」と他の主婦たちから白い眼で見られています。長屋に毛の生えた様なプライバシーのないここでの生活に嫌気が差し、引っ越してしまいます。
この映画では老年、熟年、若者、子供と、世代間の断絶が描かれていますが、さいわい夫婦間の断絶はまだないようです。64年後の今、「近所」も「家族」も「夫婦」も「兄弟」も崩壊し、みんな個室に引きこもる私たちの暮らしぶりを見たら、小津監督はなんと言うでしょうか。コスパやタイパにばかりこだわる子供たち。子供を虐待してしまう親たち。確かに、「あんまり世の中便利になるとかえってあきまへんがなあ」。