お早ようのレビュー・感想・評価
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最も楽しい小津映画!? ーー戦後の新しい住宅街ネットワークと無駄話の効用
1959年公開の小津安二郎のカラー映画での初期作品だ。公開当時のキネマ旬報年間ベストテンでは12位。トップ10入りを果たしていなかった。先日鑑賞した代表作の一つ「晩春」はなんだか緊張してみてしまったが、今回は気楽にみようと思った。上映時間94分と短めだし、子供が主人公の軽めのコメディでもある。
楽しい作品である。〝おなら〟という軽めの下ネタが繰り返され、なんども笑わされる。本作の舞台である、平屋のアパート群は、江戸の長屋のモダンなリメイクのようだ。そして〝長屋〟の住人同士のやり取りは古典落語のようで本当に楽しかった。
同時に、1959年(昭和34年)の東京という場所、そこで生きていた人の姿が保存された社会派ドキュメンタリーの側面も感じられた。楽しさの奥に、社会観察者としての小津のクールな眼差しと凄みを感じ、どんどん引き込まれてしまう。
休日にも関わらず、今回の特集上映の中でも客席は空いていた。しかし、ここまで「晩春」「東京暮色」「秋刀魚の味」と続けて鑑賞してきて、ここまでの3作同様、満点をつけるしかない大傑作だと思う。また次の機会があれば絶対に観たい作品だ。
公開時にはトレンディドラマ的なものだったのかもしれない。新しい住宅街を舞台に、急速に普及する新しい家電「三種の神器(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」の購入をめぐるドタバタ劇でもあるからだ。
しかし小津作品だから、時代の流行を取り入れたというだけではない。その時代に生きる人たちが、どんな行動原理で動いているのか…、その行動を引き起こす社会的圧力は何か…それらが描かれている。
小津監督は、社会学者・人類学者のような視点を持っている。柳田國男のような人でもあったのではないだろうか。本作は、当時の社会を家庭の内側から記録し、保存した作品となっている。時代が経てば経つほど、価値が増す貴重な記録になっているのだ。
ここに登場する人たちは、僕の父母でもあるーーそんな気持ちで、生まれる前の両親とその家族の生活を見るような思いで見させられた。実際、主人公の二人、佐田啓二演じる失業中の翻訳者の福井と、久我美子演じる会社勤めの節子は、僕の父母とそれほど年齢は離れていない。
彼らはどんな思いで生きていたのかを、当時の社会と結びつけて考察してみたい。
本作は、公開された1959年当時の現代劇であると思う。「もはや戦後ではない」という経済白書の宣言は1956年。神武景気から岩戸景気へと移行する高度成長の入り口の時期である。いわゆる消費社会の始まりの時期でもあるし、地方から東京に人が集まり、首都圏を形成し始めた。東京近郊に中流階級の人々が住んで、都心でホワイトカラーとして働く時代の始まりでもあった。
新しい住宅は、小さくて狭い。家族が集まる居間には、ちゃぶ台が中心にあって、夕食後m家族はそこで静かな時間を思い思いに過ごし、時折会話をしている。
この居間に「テレビが欲しい!」というのが今回のもう一方の主人公である子供たち、実と勇の切なる願いだ。この映画の後には、今の中心にテレビがある時間がやってくる。
テレビのない居間の、食後の夜の時間が印象的だった。静かに、それぞれ思い思いのことをしながら、ぽつりぽつりと喋ったりする。携帯やネットなどのメディアに囲まれて、空白の時間などほとんどない今の暮らしから見ると、瞑想の時間でもあり、本当の家族の団欒はこういうものかもしれないと感じた。家族が身を寄せ合って、テレビや携帯に意識を奪われずに時間を過ごした最後の時代でもあったのだ。
今回のテーマはタイトルでも示された挨拶や相槌の言葉だ。
無駄口ばかり叩いて「黙っていなさい」と言われた実と勇の二人が、絶対に喋らないと決意する。その小さな反抗が、家族からご近所、そして学校にまでどんどん波紋を広げていく。
人と人がつながっていた時代だ。実際、一人暮らし用の僕のマンションでは挨拶しない人の方が多い。会社でも、無言で自分の席につく人も少なくなかった。挨拶が大事だという当たり前のことを今更感じるし、そうやって共同体の秩序を大事に守っていた時代を、好ましくも感じるのである。
無駄話ばかりだと叱られた少年・実の、親への抗議のセリフが見事だ。
「おはよう、こんにちは、こんばんは、ごきげんよう。いい天気ですね。ああ、そうですね。何だよ、大人の方が、無駄話ばかりじゃないか」
確かにそうだ…と大人たちは考え始める。自分たちの無意識の挨拶や相槌には一体何の意味があるのだろうかーーと。
ここまで4作品見てきて、小津監督の映画の凄さは、人の無意識を描いていることだと感じている。人は自由意思で動いていると思いつつ、かなりの部分自動操縦で動いている。その場や相手に相応しい型を自動的に呼び出して、その型通りに考え行動する。状況に人は動かされているのだ。
個人を描いているようで、社会システムや人の無意識の規範を描き出してしまうのが小津監督だ。だから、人類学者や社会学者の視点を持っている人だと感じるのだ。
ご近所のおばちゃんたちは、近所を動き回って、情報を流通させることで、ご近所という社会の規範を守っている。会話が筒抜けだから、意図しなくても伝わってしまうことも多い。
どの家庭にどんな家電が導入されて、誰がいい人で、誰がケチか…。そんな情報を流通させることで、ご近所という社会を維持している。時にそれが軋轢を生むが、何らかの努力で解消される。
隣近所の距離が近すぎて、何だか面倒だなあと思う。実際、外国人とのカップルらしきハイカラな夫婦は、そのせいで引っ越していってしまう。テレビを見たがる子供たちを自由に自宅に出入りさせる好人物だが、異質な彼らをご近所は許容せず、子供を遠ざける。
この夫婦だけが持っていたテレビは、数ヶ月から半年分の給料を持っていかれる高額な買い物だ。1957年は7%程度の普及率が、この映画の翌年1960年には、45%と2軒に1軒は持っている状態になった。
この急速な普及を支えたのも、ご近所同士のネットワークの濃さが関係しているだろう。どの家庭には何があるかが話題の中心でもあり、それがこの時代の同調圧力として強力に作用したことが、この映画のご近所コミュニケーションから伝わってくる感じがする。
笠智衆演じるサラリーマンは、定年後やっと再就職先を見つけ、家電の訪問セールスマンになった東野英治郎演じるご近所の男から、テレビを購入する。
ご近所の〝お互い様〟の助け合いだ。同時に定年した先輩に未来の自分の姿を見たのだろう。もうすぐ自分にも訪れる定年への恐怖が描かれていたと思う。
当時は55歳定年である。急速に寿命が伸びて、定年後の暮らしというものに直面し始めた世代だ。しかし、国民年金はまだなかった(1961年が制度のスタートだ)。
そして、本作の主人公の佐田啓二と久我美子演じる20代の二人。この二人がリラックスした演技を見せていい感じである。彼らも当時の社会圧力を受けている。女性は25歳で行き遅れと言われ、結婚圧力が強かった。平均初婚年齢は、男が27歳、女性が24歳くらいの時代である。
この二人は、戦後の自由な空気をまとっているが、それでもそろそろ結婚ということを内心意識していて、その候補として相手を見ている。
久我美子の方が、佐田啓二に翻訳の仕事を依頼して支えているようでもあるし、それを口実に関係を深めるきっかけを作ろうとしているようでもある。
そして、佐田の方は、自分を社会の落ちこぼれだと自虐しつつ、母の勧めにその気になり始める。そして、本作のテーマである挨拶と無駄話を武器に関係を深める予感を抱かせて映画は終わる。
人と人との距離が近かった時代の、潤滑油としての挨拶と世間話の効用を描いた映画。これまで見た小津の映画の中でも、最も多幸感に溢れる楽しい映画であるけれど、その中にも社会システムに動かされる人の姿がきちっと描かれる。そうやって動かされている人それぞれが、戦後社会の倫理を身につけ、良き人として生きようとしていることに、なんか感動してしまうのである。
動かされているというのは、昔の人は、なんだかんだ同調圧力に屈していたとかいうのではない。昔のことだから、それが見えやすかっただけだ。今の僕たちだって変わりない。
現在では、宣伝広告はより巧妙にパーソナライズされるようになり、自分が欲しいから買っているのか、欲しいと思わされているのか、わからなくなってきている。そして、今後は生成AIに判断を任せるようになり、アルゴリズムに人生を乗っ取られるかもしれない…という時代になってきている。
もうそれは巻き込まれるしかない時代だけれど、それでも本作の登場人物たちのように善き人として生きていくしかない…そんなことを思わされる傑作であった。
今回、菊川Strangerでの小津安二郎集上映では、「東京物語」はじめとする有名な傑作を脇に置いて、本作のビジュアルがメインで使われていた。本作はプッシュしたい小津の佳作であるということではないだろうか。
そのおすすめ通りの大傑作だ。小津映画らしくない感じもあるけれど、相手を選ばずお勧めできる作品でもある。未見の人にも伝えていきたいと思ったし、僕自身もまた見返したいと思っている。
音と声のTPO
前半は退屈ぎみでした。オナラの音がリアルではありませんし、下らないお喋りを見せられても面白さがわからないと思った瞬間もありました…と、低評価の無駄なレビューになっちゃうのかと正直心配になりました。
ところが、後半から、没入開始しました!
子どもたちが、ある事情があって、クチにチャックします。家族にも近所の人にも友達にも先生にも、最後の方までずっと挨拶すらしません。前半の下らないお喋りは、子どもと鑑賞者の心を繋ぐため(感情移入するため)に必要だったのです。
ラスト、オナラとお喋りを掛けていたことに氣付き、下らないと思っていたものが、下ったりしてもして、上手いオチに感心しました。結局、面白かったです。
子供たちの反乱
庶民の家庭にもテレビが普及し始める頃
親の言いなりになるだけじゃない子供たち
その吸収力に戸惑いタジタジとなる大人たち
小津監督はその生意気で愛すべき姿を捕らえ
彼らと彼らに振り回される大人を映画にした。
この作品に限らず子供たちの言葉に注目している。
皆、小生意気でも案外理に適っているのが分かる。
'60年代に入るとテレビは色々なものを発信し
映画の時代は衰退、新しいメディアの時代になる。
子供たちはさらにアップデートし羽ばたいてゆく。
これは子供たちの反乱の始まり
怒られてもへこたれない
彼らのルールにのっとり
上手くやっているのだ。
当時の日本の生活文化の姿は
いい時代であり戻れない時代
それで良いと今思う。
良い俳優が多数出演し
さりげなく演じている。
※
大人の挨拶
1年前にDVD観賞した小津監督「彼岸花」(58)がツボにはまり、今作を観てみました。あとで知りましたが、製作年が1959年なので、ちょうど当時の人達と同じ間隔で「彼岸花」と「お早よう」を観ることができました。両作品の題材は全く違いますが、当時の日本人の日常生活に在る些細な出来事を丹念に拾い上げて、あるがままをフィルムに焼き付けているような印象を受けました。今作では、昭和30年代の三種の神器(白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫)のうち、白黒テレビをモチーフにちょっとした騒動が起きます。町内会費の滞納、子供のハンガーストライキ、ボケ老人の存在などがコミカルに描かれていて、クスクス笑ってしまいます。鍵のかかってない玄関から近所の人が入ってきて声をかけ合う日常は隔世の感がありますが、やっかみや誤解から変な噂話が盛り上がっていくところは今も変わらないようでもあり、古い中に新鮮な発見もあってとても面白かったです。小さなエピソードから成る構成の妙でとても引き込まれました。タイトルにある「お早よう」の意味が終盤からラストにかけてリフレインされる展開がすばらしく、何ともいえぬ穏やかな気持ちになりました。小津監督のやさしい眼差しを感じる作品でした。
おでこをつつくと屁がでる芸
1932年の無声映画「大人の見る繪本生れてはみたけれど」をセルフリメイクしたものだそうです。彼岸花につづいて2本目のカラー映画になるそうです。Plexという無料ではありますがCMの多いストリーミングサービスで見ました。
小津安二郎お得意の父娘哀話ではなく、平屋がならんでいる郊外で、お隣と密接に関わって暮らしている人々が巻き起こす、謂わば長屋風のコメディになっています。
舞台は助産婦という看板が目立つ公社住宅風の家並みです。昭和半ばごろまで、子供を産むのに病院へ行くのではなく地域の助産婦さんがそれぞれの自宅へ赴いて分娩を手助けしていたそうです。
中学生と小学生の兄弟、実と勇は、勉強もそこそこにしてテレビのあるお隣宅へいりびたって相撲を見るのが日課になっています。
しらべてみると1953年にシャープが国産第一号テレビを発売したそうです。1959年の映画公開当時、テレビはまだ高嶺の花だったことでしょう。
テレビ所有者であるお隣の男を大泉滉が演じていました。昭和時代、よく見たクォーターの喜劇役者で、顔がダリっぽくダリ髭をつけるとそっくりでした。概してダメ亭主を演じる俳優でしたが、ここでもボヘミアン風の男で、夜職風の女と同棲しています。
この男女はその賤業気配や風体によって近所の主婦たちから白眼視されています。実と勇の父母(笠智衆と三宅邦子)もそこへの出入りを禁じようとしますが、兄弟は隣へ行かせたくなければテレビを買ってくれと駄駄をこねます。
要求を塞がれてしまった兄弟はしまいには結託して緘黙(しゃべらないストライキ)を実施し、兄弟がしゃべらなくなったことで親たちや学校へ不協和が波及していくというドタバタ劇になっています。
子供のころ、友達や兄弟と遊びでなにかの取り決めをしたとき「タイム」を設けておくことは重要でした。たとえば「だべさ縛り」で話すことにしても「タイム」を宣言すると縛りが解除され、親や学校と接するときは「タイム」にしておくことで、取り決めを破棄することなくやり通せるわけです。
しかし実と勇のしゃべらないストライキは基本的にタイムなしでした。弟・勇は緘黙にタイムはありかと兄・実にたずねますがタイムなしと言われてしまったので、学校でも律儀に黙ったままやり通します。ただし常にタイムのサイン──所謂okサインを出して口を開く許可をもとめていました。その姿がけなげで勇を演じた豊頬の子役(島津雅彦)は映画の実質的な主役といえるアイキャンディになっていました。
兄弟の反抗期を通じて、小津安二郎が言いたかったのは、大人の会話のもどかしさです。
父親に「余計なことを言うな」としかられた実が「大人だって(余計なことを)言うじゃないか、お早う、こんばんは、こんにちは、良いお天気ですね、って」と反論したことが題名になっていますが、挨拶はともかくとして大人の会話が目的や立場や状況などによって余計な枝葉をつけるのは社会の理です。ご近所づきあいとテレビ騒動を通じて大人の会話の非合理性が諷刺的に描かれています。
近所に福井という姉弟(沢村貞子と佐田啓二)が住んでいて、その家も実と勇の遊び場になっています。佐田啓二は、実と勇の叔母である久我美子に恋心をいだいていますが、本心を言うことはありません。駅のホームで会ったふたりのそらぞらしい会話がスケッチされています。
福井(佐田啓二)『ああ、いいお天気ですね』
節子(久我美子)『ほんと、いいお天気』
福井『この分じゃ二三日続きそうですね』
節子『そうね、続きそうですわね』
福井『あ、あの雲、面白い形ですね』
節子『あ、ほんと、面白い形』
福井『なにかに似てるな』
節子『そう、なにかに似てるわ』
福井『いいお天気ですね』
節子『ほんとにいいお天気』
ただし諷刺を本題に据えているわけではなく軽いコメディとして着地しています。
映画の起と結になっているのは学校で流行っている、おでこをつつくと屁がでるという芸です。この芸には軽石を削った粉が効くとされているので兄弟は軽石粉を食べています。軽石とはお風呂でかかとなどの角質をおとすものです。今はそうでもありませんが昔はたいてい風呂場にありました。母親は軽石が日毎目減りしていくので軽石ってネズミがかじるものかしら──と夫に相談したりします。
この芸がうまくできない近所の「こうちゃん」は屁じゃないものがでてきます。屁じゃないものがでてきて立ち往生してしまうのが映画の起と結になっているわけです。
映画お早うの笑いはダウンしたテンションの謂わばアレクサンダーマッケンドリック風orジャックタチ風、現代で言うならジャームッシュ風の笑いです。ブラックユーモアともちがう、大人っぽく、笑わせようとしない、穏やかで温かみのある、現代の日本映画では見たことのない笑いでした。
佐田啓二がよかったです。昔の人の意見風に聞こえるかもしれませんが、現代の美男子にはない正統な感じがあり、まるで昔のグレゴリーペックのようです。おそらくこれを見たらご賛同いただけることでしょう。
『息子の中井貴一は、当作品中の佐田について「小賢しくない、余計な芝居のない演技をしていて、父の出演する小津映画の中では一番好きです」と評している。』
(ウィキペディア「お早う」より)
黒澤明の映画をみんなおなじという人はいないでしょうが、小津安二郎の映画をみんなおなじという人はいるでしょう。わたしも東京物語と晩春と、二つ三つ見て、わかった気になっていましたが、しっかり見ていくとそれぞれ主題がちがうものです。わたしは映画をよく見るので、わかった風なことをレビューに書きますが、こうして一人の監督をひとつひとつ見ていくと、よくわかっていなかったことがわかります。
IMDB7.8、RottenTomatoes88%と87%。
おばあちゃんで笑いが止まらない
干したパンツでエンディングを迎える作品が他にあるのだろうか。
押し売りを独特な方法で撃退するおばあちゃんで笑いが止まらなくて。ゲラゲラというよりはクスクスですが。
でも婦人会の会費を預かったのをすっかり忘れていて娘に怒られて悪態ついているのも、可愛い半纏を着ているのも相まって可愛い。
ヴェンダース監督も愛した小津安二郎監督
なんとも完結に色々なことがよく分かる
大人は大人の、子供は子供のそれぞれの世界が入り混じってる
当たり前のことなんだろうけど目に見えてよく分かる
子供には分からない大人の理屈
大人は忘れてしまった子供の理由
伝言ゲームのように捻じ曲がっていく真実
コレが解消されないといつの間にか誰かが悪者になって取り返しがつかなくなる恐ろしさ
誰が一番悪いわけじゃないのに誰かが犠牲になってしまう
SNSの今の時代で言えば「炎上」なんでしょうね
人の噂はあくまで噂、噂を間に受けていいのかな?といつも思ってしまいます
例えば「あそこのラーメン不味いんだよ」と聞くと自分の舌で確かめたくなっちゃうんですよ
結局噂に乗っかって行動はしちゃうんだけどね
人と味覚が違うのかはたまたストライクゾーンが広いのか、今までそんなに不味いものに当たったことが無いのは幸せなことだと思っとります
小津監督の作品は面白いですね、しかしまだ「凄さ」は私には分かりません
でも明らかに海外には無い空気は感じることができます
歳をとると分かること
映画は広くて深いです、人々を気軽に別の世界へ連れて行ってくれる映画館はとてももても大切な場所だと心から思います。
「警視庁方面からも推奨されてまして」
口も尻も色んな物を出す。出さなきゃ出さないで体に悪い。腐して災いを呼ぶこともあれば、笑顔を生むこともある。
子供にしてみたら、一方的に叱られたら納得いかない。納得いかなけりゃ揚げ足取られたとしても意地を張るしかない。そうして黙り込んでしまった子供達を中心に話は進む。
妻に定年の事を言われズシンと重たい空気を纏う笠智衆も良いが、一番印象的なのは三好栄子演じる産婆さん。
押し売り相手に「いらないねー」の一言で取り付く島なし。それでも小刀をチラつかせながら食い下がる押し売りに、大きな包丁を持ち出し役者の違いを見せつけると相手は言葉を引っ込めそそくさと退散。まるで狐と狸の化かし合い。
小津映画を観ていると、作品の世界と現在が確かに繋がっているんだなと毎回感じられる。きっと生活の中にある変化の兆しにとても敏感なんだろうなと感じた。
昭和の懐かしい生活ぶり
時代の写し絵のようにも…
冒頭のタイトルバックの音楽から、
いつもの小津映画とは異なるのでは
と予想したが、その通りの展開に。
オナラのエピソードも含め
ここまで全編に渡りユーモア要素満載の
小津映画は初めて観たような気がする。
そんな中、前半のネガティブ要素に思われた
主婦同士の噂話エピソードが、
後段での、無駄なことや無駄な会話が
社会の潤滑油になるのだとする、
ポジティブ要素へのひっくり返し的構成には
大変驚かされた。
そして、
・市民の服装が和服から洋装に代わる
過渡期的描写
・同じような建売住宅が並び、
他人の家に間違って帰る挿話
・洗濯機や炊飯器が徐々に
各家庭に入り始める中で、
私も全く同じ経験のあるTVのあるお宅に
相撲を見に行くご近所付き合い、等々、
高度成長期の社会変遷の要素の集積には、
この作品は他の小津映画のように
感動を覚える内容ではないが、
当時の匂いがプンプンと漂ってくるような
この時代の写し絵のようにも思えた。
三種の神器♥ 定年はこの頃は55歳だと思う。
『世の中無駄があるからいいんじゃないかなぁ?』
『無駄って言えば、酒、タバコも無駄だけど、テレビなんて一億総白痴化!』
ここに登場する子供達は団塊の世代である。所謂、アプレゲールの初代。
大泉滉さん演じる役は正確にはアプレゲールではないけど、アプレゲールとか周りは決めつけて差別していた。その理由に付いては触れないで置こう。とにかく、
こう言った日本だった。さて、
この映画を見ていて、約60年経ってはっきりした事を思い出した。僕が生まれた時から僕はテレビを見ていた。と言う事だ。テレビの所有が誰であったかは分からないが、1960年には亡父とコンバットやジェスチャーを見ていた。だから、白痴化の先鞭を切ったって事かなぁ。つまり、頭の中は欧米化されていたのである。
しかし、我が亡父はアメリカテレビドラマに出てくる優しい紳士ではなかった。母にも子供達にも手を上げた。フーテンの寅や星一徹の様な父親だった。さて、それが普通であったのか、特殊なのか分からない。しかし、そう言った人に手を上げる人はいたと記憶する。また、軽石に殺鼠剤を混ぜる事や神隠しと言われる誘拐等もこの頃のマイナスな事件だと思う。勿論、向こう三軒両隣のうわさ話は当たり前で、だいたいは差別を生む結果を作っている。さて、再考すると、
『火垂るの墓』でも分かるように、差別は戦後間もなくから、人の命まで奪っているのだ。
しかし、現在はそう言った事は無くなったのだろうか。差別、いじめ、仲間外れ、人を傷つけるうわさ話。
全部、今でもある。
小津安二郎監督の凄い所は、それを『一億総白痴化』と予見している。勿論、総白痴化を予想したのではなく、新しい価値観に対する脆さを語っている様な気がする。
さて、時代は神武景気になるのだが、翌年の1960年には日米安保条約が結ばれ、脱亜入欧に拍車がかかる。
やっぱり、小津安二郎監督は凄い演出家だと思う。しかし、彼は後輩を育てる事の出来ないワンマンな所があったのでは無いかと思う。それは黒澤明監督も溝口健二監督も同じである。
「無駄があるからいいんじゃないのかな、世の中」
昭和34年、今から64年前に公開された本作。今でいうタウンハウスというのか、同一規格の一戸建て風集合住宅に暮らす平凡な庶民の日常を淡々とスケッチした本作に、起承転結的ストーリーはありません。この映画を当時映画館で観た観客たちはどう思ったのでしょう。「あるあるw」なのか「モダンで素敵!」なのか「平凡w」なのか。小津監督はもしかしたら、リアルタイムの観客よりも遠い未来の私たちの方を意識しながらこの映画を作ったのではないか、そんなことを思いました。
「江戸時代の長屋暮らし」→「昭和30年代のタウンハウスの暮らし」→「現代のマンション生活」
時代の変遷とともに日本人の生活様式も随分大きく変わって来ましたが、そのなかで私たちはなにを得てなにを捨ててきたのか。得たものは、おしゃれな暮らし、電化製品に囲まれた便利な暮らし、オートロックや個室に守られるセキュリティとプライバシー。捨ててきたものは、火鉢とちゃぶ台を囲む家族の団らん、ご近所づきあい、無駄話。
林家は熟年夫婦(敬太郎:笠智衆、民子:三宅邦子)+男の子2人(兄は中学生、弟は小学生)+民子の妹の若い女性(有田節子:久我美子)の5人暮らし。兄弟は親にテレビを買わせるため、ストを決行します。謹厳で口下手な父は当時の評論家の言葉を借りて「一億総白痴化」とテレビを批判しますが、自分の言葉で子供達を説得することはできず、ついに根負けしてテレビを買ってしまいます。林家の食卓では、今後テレビの話題が中心を占めるようになるでしょう。父にそれを止めることはできませんでした。生活の急激な変化を推し進める原動力は子供や女性たちの欲望のようです。茶の間にテレビが入ることで林家が失ったもの、それは何もない時間を共有することで家族の間に流れる目には見えない情のようなものでしょうか。小津監督も笠智衆も、それを言葉で説明しようとはしません。
大人と子供の対立を仲介するのは二人の若者です。一人は叔母さん節子であり、もう一人は近所のモダンアパートに住む福井平一郎:佐田啓二。イケメン、英語堪能の彼は翻訳のバイトで食いつないでいるようで、度々節子も仕事を依頼しています。どうやら二人は相思相愛のようですが、お互いに自分の言葉で自分の気持を率直に伝えることはできません。
林家の兄弟は戦後教育の申し子たちであり、現代っ子です。親に平気でウソをつく、出された飯に文句を言う、親父に向かって「怖かないやい、へっちゃらだい」と減らず口を叩く、説教されたら「そんなのこっちの自由だい!」と生意気な口ごたえをする、やたら口数が多い、面白くないと「わー!」と奇声を上げて暴れる、ダダをこねる、聞き分けがなく強情、前髪が長い。そんな聞き分けのない子どもたちに親父は声を荒げることはあっても手を上げることはありません。本作に出てくる大人の男たちはみな、まだ敗戦の影を引きずっているかのような負け犬感を醸し出していますが、彼らは家族に暴力を奮いません。
まどろっこしい大人や若者たちと違い、林家の子供たちは単純なデジタル思考です。彼らは大人たちの挨拶や会話は中身がなくてすべて無駄と決めつけ、父から「男が無駄口をきくな」と叱られたら一切言葉を発しなくなります。微妙な感情の機微や父の言葉の真意を理解しようとはしません。興味はテレビの相撲と野球、あと、いつでも好きに屁をこく訓練。戦後生まれの彼らには全く屈託がありません。
原口家は、熟年夫婦(きく江:杉村春子、婿養子の辰造:田中春男)+男の子1人(中学生)+きく江の母(みつ江:三好栄子、助産婦)の五人暮らし。最近電気洗濯機を買ったきく江は、婦人会会長の立場を利用して会費を横領したのではないかという噂を立てられ、会計係の民子と険悪な雰囲気に。でも母のみつ江の勘違いと判明し、なんとか取り繕います。ご近所あるあるでしょうか。それはいいとして、お互いに気の強い似たもの同士のみつ江ときく江の母子はお互いになじり合うばかりで、関係性は破綻しているようです。老人世代代表のみつ江はなにかあれば神頼み、古い因習に囚われた女性ですがまだ耄碌はしていません。怖い押し売りのおじさんも一歩も引かずに撃退し「またおいで」。どの女優もいいですが、特に三好栄子は怪演です。自分を厄介者扱いする娘に対し「どうしてあんなやつが生まれちまったもんだか、あーあ…」と画面に向かって一人嘆息しています。
大久保家は、熟年夫婦(しげ:高橋とよ、善之助:竹田法一)+男の子1人(中学生)の三人暮らし。無駄話と噂が好きなしげは余計なことばかり喋り主婦たちの間に不和をもたらします。全く悪気はないのにトラブルを巻き起こす鬱陶しいおばさん代表です。
富沢家は、熟年夫婦(汎:東野英治郎、とよ子:長岡輝子)と猫のミイコの二人と一匹暮し。定年を迎えた汎は今後の生活の不安に鬱々としており、全くモダンではない古びたおでん屋で酒をあおります。その店は時代から取り残された男たちの墓場です。もちろん敬太郎も常連です。そこだけは戦前から時がとまっているようです。もちろんテレビもカラオケもありません。
丸山家は若者夫婦(明:大泉滉、みどり:泉京子)の二人暮し。熟年夫婦の専業主婦たちはみな和装ですが、みどりは洋装で室内も洋式です。「昼間っから西洋の寝巻き着てw」「池袋のキャバレーにいたらしいわよ」と他の主婦たちから白い眼で見られています。長屋に毛の生えた様なプライバシーのないここでの生活に嫌気が差し、引っ越してしまいます。
この映画では老年、熟年、若者、子供と、世代間の断絶が描かれていますが、さいわい夫婦間の断絶はまだないようです。64年後の今、「近所」も「家族」も「夫婦」も「兄弟」も崩壊し、みんな個室に引きこもる私たちの暮らしぶりを見たら、小津監督はなんと言うでしょうか。コスパやタイパにばかりこだわる子供たち。子供を虐待してしまう親たち。確かに、「あんまり世の中便利になるとかえってあきまへんがなあ」。
微笑ましいユーモアを誘う演出の巧さにみる小津イズムの洗練されたコメディ
昭和30年代の時代と風俗が色濃く反映されて、小津監督独特の映画様式美に子供たちの微笑ましいユーモアが溢れる小市民映画。簡素ながら一戸建ての新興住宅地を舞台に、波風が立つ大人の近所付き合いとテレビを欲しがる子供の反抗期が絡み合うお話で、色んな人間模様を見せてくれます。小津監督のサイレントの名作「生まれてはみたけれど」を彷彿とさせる子役演出の巧さと、野田高悟と共作の脚本は志賀直哉の短編小説のような味わいと面白さがあって、とても楽しめました。多くの登場人物を巧みに交差させて物語を進展させる脚本は見事です。赤を際立たせた色彩のコントロールが行き届いたフィクス撮影のカメラワークも、隣の家まで見通せるカメラアングルで奥行きを出し、また様々な人物の細かい動きで変化を付けて映像のリズムを形成しています。作品的には小品ですが、充分に練られた場面構成と映画演出が成されていて素晴らしいと思いました。
この時期の日本の経済成長を象徴するのが、テレビと洗濯機と冷蔵庫の「三種の神器」であり、一般的な家庭にとっては高嶺の花の家電製品でした。(1960年時のテレビの価格を調べると、今の値段に換算してカラーテレビが280万円、白黒テレビが33万円程だったとあります)この作品が公開された前年の昭和33年は、全国の映画館数がピークを迎えた日本映画興行全盛期であり、同時に電波塔の東京タワーが竣工してテレビ放送が本格的に始動した象徴的な年でした。それでもテレビを所有している家庭が近所に一軒しかなく、相撲中継が見たくて他所の家に上がり込む子供たちの姿は、この時代ではしばしば見られたことです。大泉滉演じるそのテレビ所有者の丸山が引っ越しをするのを挟んでから、笠智衆演じる林敬太郎がテレビ購入を決意する展開の伏線の忍ばせ方も巧いです。テレビ買ってと強請る子供のストライキと、うるさい黙っていろと叱る頑固な父親の単純な親子喧嘩をストーリーにしながら、そこに父親の秘めた想いを廊下に置かれたテレビのワンショットで決着をみせる巧さは流石であり、その時代を知っている私には泣けてしまうくらいの映画演出でした。
細かく観ると指摘したい演出の巧さは数多く、書き切れないのがもどかしいです。先ずは林家の次男坊勇の島津雅彦少年の演技の可愛らしさを挙げたい。小津監督の要求に全て応えた上手さは、あくまで自然な子供の演技をして、世にいう大人顔負けの熱演ではない。そこがいい。アイラブユーを口癖にするおしゃまさ、怒りを表す両手のブロー、歳の離れた兄の実に素直に従いながら大人たちを観察する鋭さ、最後は嬉しさのあまりフラフープを上手に回す無邪気さまでと、兎に角この映画の主役級俳優の杉村春子、笠智衆、三宅邦子、佐田啓二、久我美子などの名優の大人と並んで、つまり溶け込んで邪魔せず、この楽しい家庭劇の重要な役を全うしています。脇を固める沢村貞子、東野英治郎、長岡輝子、田中春男、殿山泰司、櫻むつ子のキャスティングの適材適所の隙の無さ。またこの作品で強烈な印象を残すのは、杉村春子の母役三好栄子と、大泉滉のパートナー役泉京子の御ふたりです。対極的な女性像にそれぞれ存在感を持たせ、作品に深さと彩を与えています。泉演じる丸山みどりは、近所の主婦たちから色眼鏡で見られる昭和の女性には無いモダンさを持ち、嫉妬と羨望含め疎まれる女性の役割も、人物の対比の面白さになっています。調べると当時和製シルヴァーナ・マンガーノと謳われたとあり、納得のプロポーションと雰囲気を兼ね備えていました。
公開当時は極ありふれたお話の、いつもの小津タッチの映画として観られていたと想像します。しかし、今令和の時代から見直すと、当時の風俗や人間関係を知る資料的価値があります。勿論小津演出の美意識が最優先された映画の特質から、実際の一般人より美化された生活実態と恵まれた生活環境の小市民映画と断りを得ませんが、映画演出の見所が詰まった小津イズムを堪能するのに最適の作品でした。何より微笑ましいユーモアを誘う洗練されたコメディ映画として楽しめることが素晴らしい。映画は時代を超えて観る者を虜にします。
反抗期
昭和34年、今から64年前の小津映画、やはり人間描写では巨匠と呼ばれた所以が分かります。冷蔵庫、洗濯機、テレビが三種の神器と言われた時代、どこの家庭でもありそうなエピソードをちりばめた人情喜劇、佐田啓二(中井貴一の父)と華族出身の久我美子さんと美男美女カップルのロマンスもどこか奥ゆかしい・・。
テーマは世間話、日常会話を含めて他人ばかりか家族間でのコミュニケーションの大切さなのでしょう。簡単なようで難しいことなのが良く分かります。
噂や妬み嫉み下町のご近所付き合いの難しさのリアリティ、時代なんでしょうが異常なまでに高圧的に大人の立場を子に押し付ける躾け、小言の多さには、私でも逆らいたくなりそうです。
ただ、コメディ仕立てにあたって、定番の下ネタ、おならを持ってくるセンスは如何なものか、大衆受けを狙ったのでしょうが案外、巨匠も根は俗人の一人だったのかも知れませんね。
高度経済成長への警告? そして、カラリストとしての小津
いや~、面白いなぁ。じつに味わい深い作品です。平凡な日常を描いた、なんてことのない話に見えるけれど、よくできたストーリーです。
どこにでもあるような出来事を、ここまでエンターテインメントとして、かつ芸術性も損なわず、面白く見せる手腕はさすがだと思います。
古くさい感じは全然しない。むしろ、斬新ささえ感じる。人間というものを、また「面白み」ということをよくわかっていないと、こういう映画は撮れないでしょう(おならのギャグは、ちょっとしつこいなと思ったけれど)。そして、画面から、あたたかみと大らかさを感じました。やっぱり昭和って、いい時代だなぁ。「無駄も大事」というメッセージもよかった。というか、この、高度経済成長——なにかにつけ効率性が優先される社会——への警告であるかのようなメッセージこそ、本作で監督がいちばん伝えたかったことなのかな?
お話も面白かったけど、画面そのものを眺めていても楽しめました。冒頭のクレジットからして、なんとも味わい深い。そして舞台となった住宅は、どの家庭も質素だけれど、こざっぱりとした室内は感じが良く、「ああ、こんな家に住みたいなぁ」とちょっと羨ましい気持ちになった。また、飲み屋のポスター、子どもや学校の先生の衣服、色ちがいの引き出しが印象的なタンス(?)、格子柄のカーテン、ランプシェード……などなど、小道具が可愛らしく魅力的だった。色のきれいなものもたくさん登場し、それらが画面をカラフルに彩っていて、小津安二郎ってカラリストだったんだなぁと感心しました。カラリストといえば、この映画、画面が暖色系でまとめられたシーンが多い。だから、さっき書いたように、あたたかみを感じたということもあるのでしょうね。
さいごに、これはどうでもいいことかもしれませんが、ちょっと気になったことを。本作に登場する子どもたちの親は、下手をするとおじいさん、おばあさんに見えるくらい、みんな年齢が高いように思うのですが……。戦争の影響で婚期が遅れたのですかね。
もはや戦争の影は無くなった
ほのぼの
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