鰯雲のレビュー・感想・評価
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両義的な時代、両義的な人間
1958年。成瀬巳喜男監督。神奈川県厚木周辺でかつて地主だった農家を舞台に、農地解放と近代化によって人々の意識が変わっていく様子を切なく描く。同時代(昭和30年代初頭)が想定されていると思うが、あらゆることが変わろうとしている過渡期だということが強調されている。田んぼを耕すのは牛だったり耕うん機だったりするし、農家の子どもたちは高校や大学に行ったりいかなかったり、農民になったり銀行員になったり工員になったりする。祭りや地鎮祭のような地域のつながりがしっかり残っている一方で、若い男女が親に黙って同棲するのを助けようとする大人もいる。地主と小作、本家と分家、親と子といったかつての社会構成が確実に変化していく姿を両義的なままに描いている。耕うん機もそうだが、車や電車が意図的に農村風景の中に入り込んでいる。
しかも、古い因習的な田舎の暮らしが個人と自由を尊重した近代的な暮らしに移り変わっていくことを肯定的に描くわけでもなく、両義的な態度を貫いている。インテリの農家の未亡人として新聞に投書する進歩的な淡島千景も、頑固な兄の中村鴈治郎(二代目)が土地に執着することには同情的だったりする。
淡島千景自身が両義的な空気をまとっていて、モンペ姿(農家の嫁)と和服姿(インテリ貴婦人)とで雰囲気が一変している。新珠三千代とのやりとりでは学生らしさを残した華やぎがあるが、不倫相手の新聞記者との関係は終始重苦しい。前者は車とともに描かれ、後者は電車とともに描かれる。
カラーのワイドスクリーンで、のびやかだが因習の残る農村の風景や家屋敷と、そこから離れようとする若者たちが依拠する料理屋や下宿とがゆったりと描かれる。
農地改革と高度成長の狭間にある近郊農村の時代変化を描いた成瀬監督の手堅さ
成瀬巳喜男監督としては分かり易い商業映画の位置付けの標準作になるのだろうが、題材が戦後日本における農地改革後の近代農業の原風景を孕んでいる点で、とても興味深く鑑賞出来た。これまで経験した成瀬作品からかけ離れた脚本(橋本忍)ながら、流石に手際よく演出している。当時のスター級俳優の豪華共演が示す、東宝映画の大作の見応えと併せて満足する作品だった。
主人公は大地主の名家からごく標準的な農家に嫁いだ八重という女性、これを淡島千景が演じている。彼女の兄が本家の当主和助で、中村鴈治郎の哀愁を帯びた頑固な男の演技が味わい深い。それは結婚相手が見つからない長男の将来を心配する父親の切実な姿なのだが、何処となくユーモラスな人物表現の厚みがある。そのお嫁さん候補を紹介する新聞記者の大川は、戦争未亡人の八重と密接な仲になって行く。木村功のキャスティングで、この関係性が唯一の映画らしいお話なのだが、妻子ある身の記者は終始自己を戒めるプラトニックな愛に踏み止まり、特にドラマ性は薄い。どうせならこの恋愛部分を省いて、地味ではあるが農業問題だけを扱った方が良かったのではないかと思われた。たぶんそれだけでは観客を呼べない営利的な配慮が為されたのであろう。
しかし、旧地主の名誉と面子に拘り、新しい時代の波と対峙せざるを得ない和助の心情が、中村鴈治郎によって見事に描かれている点を鑑みて、成瀬監督ならば充分な映画作品に仕上げたと思われる。個人的にはそれほど観て来てはいないのだが、この中村の演技には初めて感心しないではいられなかった。脚本もいい。長男の結婚資金が足りないと妹の八重に縋ろうとしたり、それを断られれば分家のところにいって説得を依頼し、哀願する。田植えの人員確保の為に嫁を貰いたいと結婚を急ぐのも、当時の価値観を窺わせる可笑しさがある。あくまで働き手の一人に過ぎない事情は、機械化される前の農家の偽らざる本音なのだろう。また分家の一人娘が大学に進学したいと聞きつければ、家に押し掛け弟夫婦に猛反対を貫き通す。“女性が大学へ行けば、その夫になる男性も大学卒になって、農家の後継ぎがいなくなる。それでもいいなら大学に行かせろ。その時は、分けた土地を返してもらう”と、和助の怒りは収まらない。
物語は、そんな旧態依然の佐助の時代の終焉を、息子3人のそれぞれの進路の選択で描き終える。特に三男が土地を売ったお金を資金にして東京に上り修理工の仕事に就くのは、農業だけの産業に限界があることや、戦後復興の基盤が漸く整い労働者不足に対応した集団就職の社会背景まで窺える内容になっているのではないだろうか。そのような日本社会全体の変化を、農村を舞台にしてのんびりと長閑に描いて、一抹の人生の寂しさが滲むところに、この作品の良さがあり、地味ながら光っていた。この題材を更に膨らませドラマチックにしたら、テキサスの時代変化を壮大に描いたジョージ・スティーヴンスの「ジャイアンツ」に近い感銘が生まれたと思われる。
1979年 9月21日 フィルムセンター
嫁探し
新憲法やら農地改革などの話題。その上農村には嫁が来ないとか、戦後の農村を描いた社会派ドラマ?と思っていたら、いきなりメロドラマへとなった。とビックリするのも束の間、またもや嫁問題、婿問題などが中心となっていく。
小津、成瀬と、大家族を描いた監督の作品でも、名前や人間関係を把握しづらい映画は苦手の部類。この映画もとにかく名前は多く出てくるけど、把握するのにひと苦労。それでも淡島の叔母さんを中心にした新しい考え方が本家・分家に隔たりを失くしていく過程が面白い。
不倫やできちゃった結婚、現代的なテーマにも取り組んで、やがては農業を離れていく順三なんて扱いもリアル。全体的なストーリーには面白味がない分、そうした戦後の農村ドキュメントとして見ることができれば儲けもの。
時は止まらない
「今、時代が動いている」
「今、変革の波がうねりをもって進んで来ている」
よくテレビの討論会等で使われる言葉だ。
でも本当にそれが解るのは後々の事であって、この言葉やそれに近い意味の言葉を叫ぶ文化人の胡散臭さは枚挙にいとまがない。
でも自分の周辺で起こる出来事に関して、「ん?これは?」とか。「こうした方が良いのかな?」と言った類の事は度々起こる。
そんな時は「仕方が無いか…」や、「そうゆう時代になったんだなあ〜」とゆう様な気持ちになる時があります。
『鰯雲』には、東京近郊に住む農家の一家とその親戚に巻き起こる時代の波が描かれている。
農地改革によって一部の土地は取り上げられ。跡取りとなるべく息子達は次々と家を飛び出して行き農業に見切りをつけるのだ。
父親役の中村贋治郎はそれを許そうとはしないが、心の中ではこの土地で農業を続けて行く事の限界を感じ始めている。」
舞台となっているのは神奈川県の厚木地域で、今日では東京や横浜のベッドタウンだ。
小田急のロマンスカーが画面に映るが周辺は農地ばかりで、付近に詳しい人ならば今日との変わり映えの激しさに驚く事でしょう。
「みんな東京に行く」…こんな類のセリフがあるが、今では厚木から都心部までは1時間少しの距離でしか無いのに…。
淡島千景演じる戦争未亡人が妻ある新聞記者木村功と不倫関係になるのだが、木村功が東京に転勤になってしまう。2人の間にはまるで今生の別れの様な雰囲気が漂ってしまうのだから…如何に当時の距離感が現在と違うのか解ります。
登場人物の相関図が複雑の為にとっつき難いのは致し方ないところでは在りますね。でも昔の農家って、本家が在って分家が幾つも存在していたんですよね。
分家と分家の間で、いわゆるいとこ同士の結婚が相継いで行われていた時代が在りました。まだまだ恋愛結婚よりも見合い結婚の方が多かった時代。戦後になって猫も杓子も若者が都会を目指し、恋愛結婚の割合が増えて行くに連れて、その様な風習は廃れて行く訳です。
話を映画に戻します。
父親役の中村贋治郎が、表向きは頑固な父親で在りながらも、心の内では理解ある人間像で出演場面は少ないながらも素晴らしい。特に元妻役の杉村春子と昔を懐かしむ場面は素晴らしいの一語です。
確かに「もう時代が変わったんだなぁ!」と感じてうなだれている姿は、何だか貴族と農民の違いこそあれ、ルキノ・ビスコンティ監督作品に於ける『山猫』で、時代の変換を感じ舞踏会が終わった後、1人で街並みを歩きながら感慨に耽っていたバート・ランカスターを思い起こしました。
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