「中国版ノマドランド──資本の論理に翻弄される普遍的な痛み」長江哀歌(エレジー) ノンタさんの映画レビュー(感想・評価)
中国版ノマドランド──資本の論理に翻弄される普遍的な痛み
20年前の中国をリアルに記録している。検閲をどうにかくぐり抜けた作品だと思う。そこに二人の主人公を据えて、変わりゆく社会を生きる人の姿を象徴的に描いている。
社会や経済の変化によって地域社会は崩壊し、家族も離散する。先の見えない未来を抱えつつ「何とかなるさ」と漂うように生きていく。クロエ・ジャオの『ノマドランド』と共通の構図であると思った。本作の方が20年近く先行しているのだけれど。
映画には当時の中国の社会状況が見事に刻み込まれている。
舞台は清朝以来の国家的悲願とも言われた三峡ダム建設で、数年かけて水底に沈んだ地域だ。
主人公の炭鉱夫は、おそらく一人っ子政策の影響で女性が少なく結婚が困難な時代に、高額の持参金を工面して結婚した。しかし妻子とは16年も離れ離れだ。
それは農村の労働者が出稼ぎに出なければ生きられない時代になりながら、家族そろっての移動は制限されていたという、経済は資本主義的に回しつつ強力な共産党体制で管理するという社会の矛盾の産物でもある。
思えば日本でも似たことはあった。高度成長期の出稼ぎ労働や都市移住で、地縁や血縁が大きく崩れた。私自身も地方の本家の長男だが、親戚関係の継続はもう無理で、私の代で終わるだろうと感じている。
この映画から見えてくるのは、経済と資本に支配された社会での人間関係の脆さと儚さだ。その点で、現代の私たちとも共通する課題を生きている。
そして今、西側世界では、資本の論理や自由主義的な能力主義からこぼれ落ちた人々が「反乱」とも言える動きを見せている。
『長江哀歌』に映し出された人々のように、社会構造の変化に翻弄され、孤立しながらも生き抜いている。何かを奪われてしまったような痛みを感じるのは当然なのだけれど、痛みはゆっくりやってくるから、気がつけない。私たちはゆでガエルなのだ。いつのまにか辛いことになっている。
だからこそ、この映画を観ることは「対岸の国の出来事」ではなく、私たち自身の社会にも潜んでいる普遍的な痛みを感じ取る経験となるのだと思った。
近現代中国の実像を見る機会も少ないから、その意味でも貴重な作品。この機会に見れて良かった。