「映画のシュールレアリズム」紀子の食卓 あき240さんの映画レビュー(感想・評価)
映画のシュールレアリズム
園子温監督作品独特の表現の映画です
普通の映画は第三者の客観的な目に見えることを写していますが、園子温監督作品は違うのです
その写されている人物の頭の中のことが写されているのです
映画のシュールレアリズムと言うべきものです
誰しも頭の中にあることを、人に伝えようとするとき、主語と伝えるべき主題が一つの塊として整理されて言葉なり、仕草なり、表情として、それが演技として、実際に起こっているかのようなリアリズムで表現されます
映画もしかりです
時にスローモーションになり、時にあっという間の事になることはあっても、それはその人物の主観がそうであったというリアリズムです
ところが本作をはじめ園子温監督の作品は、登場人物の頭の中のあるがままが映像となっているのです
人の頭の中は普通未整理なものです
何かを見て、何かを感じる
それが頭の中で言語化されます
しかし、それは取り留めのないもので、連想して違うことや、今考え無くても良いことを空想したり、そういえばこうだったと過去の事を思い出して、それがさらに次の連想や空想を呼んでいて、ふと気付くと最初のことからかなり離れた事を思っていたりします
一瞬と思ったことが何分か経っていたりします
その人の頭の中の混沌とした思考そのものが、ずるずると垂れ流がされて映像となり、カットとなりシーンとなって積み重なり映画となっているのです
具象的に正面から見たものではなく、多方面から見たり、感じたことが、絵画となっているピカソの抽象画のような映画なのです
本作はそれそのものだと思います
もしかしたら、本作の物語全てが、食卓の上の灰皿の中でみかんの皮が膨らむ間の一瞬に、紀子の頭の中で浮かんだ空想だったのかも知れません
もしかしたら、あの再現された家での血塗れの惨劇までは本当にあったことで、その後の惨劇の痕跡の全くない、すき焼きの夕飯や団欒、自室での就寝は紀子の空想なのかも知れません
いや、それも全てが空想で、あの豊川の家のことも空想、紀子の家出から始まる物語も、何もかもユカの空想なのかも知れません
再現された家が本当で、ユカがこれから家出するのが本当かも知れないのです
ラストシーンの台詞
さようなら、ユカ
さようなら、わたしの青春
さようなら、廃墟.com
さようなら、ミツコ
わたしは紀子
つまり、それは何もかも全てが、自殺サークルのニュースを聞いた紀子の多感な思春期の空想に過ぎなかった
そういう意味なのかも知れません
ユカすら存在しなかった
彼女は紀子の空想の存在だったのかも知れません
わたしは、わたしの関係者ですか?
わたしという実存は何なのか?
わたしとは何者なのか
本当のわたしとは誰のことなのか?
今考えているわたしが本当のわたしなのか?
本当のわたしは違うわたしで、わたしはわたしが空想した仮のわたしなのか?
関係者ということは、本人ではないのか?
本人を知っているわたしなのだろうか?
あやふやな実存
ならば、生と死もまたあやふやなことだ
なんだか、ギヤをニュートラルのまま、思考のエンジンを思いっきり空ぶかししたかのように疲れました