劇場公開日 2023年5月26日

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「映画史上、最もエモい冒頭10分(個人的見解)。猫とキャメルとマーロウと。」ロング・グッドバイ じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0映画史上、最もエモい冒頭10分(個人的見解)。猫とキャメルとマーロウと。

2023年6月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

『ロング・グッドバイ』の冒頭10分は、まさに「魔法」の時間だ。

僕はこれだけ魅力的な映画の冒頭10分を他に知らないし、
何千本と映画を観てきた今も、その意見は変わらない。

何度でも観たくなる映画というのがある。
『ロング・グッドバイ』の場合、
全体を何度も観直したいというわけではない。
でも、冒頭10分に関しては、本当に何度も、何度も、観直したくなる。

何が描かれているわけでもない。
孤独な中年の私立探偵が、深夜に自室で猫にせがまれて餌をやろうとするが、ありあわせの残り物では食べてくれない。
そこで猫の好きなカリー印のネコ缶をスーパーマーケットまで買いに行くが、あいにく売り切れている。別の銘柄を買って部屋に戻る。猫にやる。でもやはり食べてくれない。
猫は猫用ドアからぷいと出ていく。探偵は「勝手にしろ」と最初は怒鳴ったものの、すぐに猫のゆくえが気になって……。
ただそれだけだ。
だが、ただそれだけが、ただただ素晴らしい。

何ということもない描写を、殊更技巧を誇るようすもなく撮っているようでいて、考え抜かれたカメラワークと、研ぎ澄まされた編集テクニックがつぎこまれている。エリオット・グールドの自然な演技と、猫の堂々たる猫っぷり。マッチを擦る音。空間を充たす硫黄の香り。くゆり立つ煙草の煙。餌をねだる猫の声。同じ階に住むヌードダンサーたちの嬌声。古風なエレベーター。マーロウのネクタイ。バーバラ・スタンウィックの物まねをする守衛。夜の街。行きかうヘッドライト。ひときわ明るい光を放つスーパーマーケット。猫の餌に変な粉をかけちゃうバカなマーロウ……。
うーん、たまらん。
たまらなさすぎる。

自分も大学時代から結婚するまでのあいだ、アパートの一間でわびしい一人暮らしを満喫していたからか。34で入院したのを機に一日50本も喫っていた煙草を辞めたからか。
この空気感。この肌感覚。この作業感。
この静かな室内と、一歩繰り出した夜の街の対比。
すべてがこたえられない。
猛烈なノスタルジィに襲われる。
なぜか目元に少し涙がにじむ。
こんなに映画的で、こんなに心をゆさぶる「男のとある夜の日常」があっていいものか。

舌を巻くのは、アクロバティックな音楽の使用だ。
一連のシーンで流れているのは、実はずっと同じジョン・ウィリアムズの主題曲なのだが、それが室内のシーンではエリオット・グールドの鼻歌、テリー・レノックスの車のなかではラジオから流れる男性歌手の歌唱、マーロウの乗る車のなかでは別の女性歌手の歌唱、入ったスーパーマーケットでは店内を流れるムード・ミュージックと、その様態を変えながら数珠繋ぎにどんどん乗り換えられていくのだ(ちなみに映画の後半ではラテンバージョンの編曲も登場する)。
この音楽のおかげで、ありきたりな探偵の日常描写が、メロウでやるせなくノスタルジックで情感豊かな「特別な何か」に塗り替えられる。
なりゆきを主張する映像と、技巧性を主張する音楽が、ハレーションを起こす。
そうして、冒頭10分の「魔法」が生まれる。

しかも、この冒頭10分は、ただの日常描写ではない。
歌劇でいえば、本編で展開されるすべての主題と変奏が詰まった「序曲」と同じ。
映画で描かれる内容のすべてが込められた、物語の「核心」でもあるのだ。
ここで描かれるマーロウと猫の関係性は、
映画内でのマーロウとテリー・レノックスの関係性の「前触れ」であり「予型」なのだ。

要求は多いが、愛嬌のある仔猫。
どこかで拾ってきたのか、気づくと居ついていたのか。
マーロウは、そんな猫になにがしかの友情を感じているし、大切に思っている。
でも、仔猫のほうは、なにを考えているのだか、よくわからない。
マーロウは、口では悪く言うし、猫缶の中身を入れ替えるようなインチキも施す。
でも彼は、基本的には「愚直に」ただ猫のために行動し続ける。
でも、猫がそれに応えてくれるとは限らない。

適当そうに見えるが、義に厚く、友を裏切らないマーロウ。
何が儲かるわけでもないのに、事件の真相を探り続けるマーロウ。
冒頭で呈示されるのは、この物語のなかで繰り返されるマーロウの行動原理そのものだ。

きわめて身近かつインティメットな距離感で、エリオット・グールドの演じるフィリップ・マーロウという男の「あり方」を、冒頭で猫を触媒として描き出す。
そこで鮮烈な印象を与えた彼の人となりは、作品を通じて一貫して変わらない。
だから、本作のヒーローは映画のなかで「生きている」。
斜に構えてはいても、冷笑的ではなく、人好きのする親切な好漢。
人から「親切ね」と言われると、私立探偵だからさ、とまぜ返す。
そこかしこでマッチを擦っては煙草を吹かしまくる迷惑者だが、
律儀にスーツを着て、いつもネクタイを締めている。
そんな彼の姿を、アルトマンは冒頭10分で僕たちの心に焼き付ける。
だから、この映画の冒頭は得難く、魔法のようなのだ。

― ― ― ―

人によっては、こんなのマーロウじゃないという人もいるだろう。
実際、そのことでこの映画について怒っている知り合いを何人も知っている(笑)。
でも、僕はこのマーロウで、いったい何がいけないのかと思う。

ちなみに、僕は高校生のときにチャンドラーの聖典7作(清水俊二訳他)は全て「音読しながら」読破しているし(お恥ずかしい!!)、とくに『さらば愛しき女よ』と『長いお別れ』はけっこう偏愛している口だ。
本来の守備範囲は本格ミステリとノワール、モダン・ホラー、「奇妙な味」の短編あたりを主食に生きてきた海外ミステリ読みではあるが、ハードボイルドに関しても、主だった作品はひと通り読んでいるつもりだ。

原作のフィリップ・マーロウは、たしかに寡黙な男だ。
のべつ幕なしに軽口を言い倒しているグールド版マーロウとは、だいぶ違う。
だが、もともと原作は、そうはいっても一人称の小説。
口には出さない心の声がずっと書き記されている。
映画版のマーロウは、それを片端から口に載せているだけだ。
メディアの特質上、「一人称小説」が「独り言を言い続ける映画」にすげ替わっていると考えればよろしい。なかなかの発明じゃないか。

原作のマーロウはもっと冷静で、もっと落ち着いている。たしかに。
でも、僕はマーロウの本質は「ウェット」な部分にこそあると思っている。
ハメットを模倣して、ドライに、ハードに書こうとしたのに、なお抑えきれず溢れだしてくるロマンティシズムこそが、チャンドラーの真骨頂だ。
そのあたり、ロス・マクドナルドやミッキー・スピレインよりも、もっと「ツンデレ」な部分がチャンドラーにはある。
作家性の本質はもっとウェッティなのに、それを糊塗して「ハードボイルド」の型を遵守することで、逆に行間からあふれ出す「何か」を手に入れたのが、チャンドラーという作家だ。

チャンドラーの魅力を最も巧みに「模倣」してみせたのは、ハワード・ホークスでもロバート・B・パーカーでもなく、おそらく日本の原尞だと思うが、ロバート・アルトマンとエリオット・グールドが創造したマーロウ像もまた、一見原作破壊的に見えて、意外に的を射ているのではないか、というのが僕の個人的意見だ。
たしかにこれはマーロウというより、ただのエリオット・グールドかもしれない。
でも、ある種の型にはめた生き方を必死で送りながら、言動の端々にウェットさをにじませるグールドのマーロウは、僕にとってはとてもマーロウらしく見える。
年齢設定的にも、原作時点のマーロウは42なのだから、46歳のボガート(年齢より爺くさいw)や58歳のミッチャム(ほぼ老人である)よりも、当時35歳のグールドはなかなか適任だったのではないか。

ラストで、マーロウは絶対あんなことはしない、との意見もある。
たしかに。ちょっとラストのマーロウはマイク・ハマーのようだ。
でも、別の原作(『大いなる眠り』)ではあんなこともやっているし、
必ずしも「そういうことをしない」探偵というわけではない。
そもそも、テリー・レノックスは、もう「死んでいる」のだ。
死んでいる人間は、殺せない。そこを忘れてはいけない。

何より、チャンドラーの聖典のうち6作を翻訳した清水俊二も『長いお別れ』のあとがきで、「この五人のフィリップ・マーロウのなかから、しいて一人を選ぶとすれば、『長いお別れ』のエリオット・グールドである。監督がハリウッドの知性派ロバート・アルトマンだったので、映画のできばえも、チャンドラーの文明批評、社会批評をとりいれているところなど、五つの映画のなかではもっともチャンドラーらしい匂いがあった」と述べている。
まあ、清水俊二がそういったからどうだというわけでもないのだが、原文とがっぷり四つで向き合ってきた人が「いちばんチャンドラーらしい」と言っているという事実は、重いと思う。

― ― ― ―

とはいえ、ロバート・アルトマンの『ロング・グッドバイ』が原作至上主義者のお眼鏡にかなう日は、永遠に来ないかもしれない。
なにせ、話の大筋は一緒だが、原作に出てくる過半の人間が出てこないうえ、代わりに大量の面白人間が脇キャラとして加えられている。原作に出てくる大量の気の利いた台詞も割愛され、代わりに同じくらい大量の映画版独自の面白軽口が導入されている。
あれだけさっき激賞した冒頭の猫のシーンも、原作には出てこない映画オリジナルだ(先述の翻訳者・清水俊二は、チャンドラーが大の猫好きだったことへの目配せだろうと、指摘している)。
全体として原作を大切にしているかといわれると……、そりゃまあ、あんまりしてないかも(笑)。
でも、だからといってあまり怒らないでほしい。
アルトマンは、原作の大枠と、空気感の本質と、精神性の核心だけを受け継いで、まったく新しい『ロング・グッドバイ』を創造してみせたのだ。

この映画は、『長いお別れ』を素材としながらも、ヘミングウェイ、ハメット、チャンドラーと連なるハードボイルド文学史そのものを批評する試みであると同時に(作中に登場する作家ロジャーはあからさまにヘミングウェイを元ネタとするキャラだし、アル中化した作家夫婦が隠棲して生活する様子は執筆当時のチャンドラーの境遇を反映している)、ハリウッド映画史を批評する試みでもある。
バーバラ・スタンウィックやウォルター・ブレナンやジェイムズ・スチュワートの真似をする守衛はその象徴的なキャラだが、そこかしこに40年代~50年代のフィルム・ノワールへの目配せと、当時「現代」だった70年代の対比が見られるのは見逃せない。たとえば、40年代から借りてきたフィリップ・マーロウはリンカーンに乗って頑なに黒スーツを決めてキャメルを喫うが、レノックスがかっ飛ばしているのはフェラーリだ。
何より、この映画のラストの並木道とマーロウの行動、すれ違う女の車という道具立ては、誰が見ても一目でわかる『第三の男』の明快なパロディである。
その意味では、アルトマンは単に『長いお別れ』を映画化しているわけではなく、ハードボイルド/ノワールの映画史そのものを映画化しようとしているのだ、ともいえる。
ちなみにチャンドラー自身が、ハリウッドにどっぷり浸かって、映画やドラマの脚本を散々書かされていたという事実も、本作を語るうえで忘れてはならないだろう。

……とかなんとか書いている間に紙幅が尽きてしまった。
この映画には冒頭の10分以外にも、映画史上に残る名シーン(遠浅の海岸での大波のシーンの素晴らしさ!)や、その後多くの追随者を生んだと思しきショッキングな暴力シーン(マーロウを脅すただそれだけのために愛人の顔面をコーラ壜で粉砕するマーク・ライデル)、ジャック・タチの映画のようなほのぼのとしたスケッチ(尾行する三下とマーロウのやりとりの絶妙さ!)、某有名俳優のちょい役出演(留置所とヤクザのオフィスに注目。すっげえフリーキーな腕の筋肉!)など、本当に見どころが満載である。

未見のみなさんは、ぜひ一度騙されたと思って触れてみていただけると、本作の大ファンとして本当に嬉しく思う。

じゃい