「生きる、ということ」もののけ姫 ぴこさんの映画レビュー(感想・評価)
生きる、ということ
映画館という、作品に最も没入できる環境でこの作品を観るのは初めての経験だった。
最初に出てくる感想は何回観ても名作は色褪せないという一種の普遍的なものであったが、王道でありながらも魂を真正面から見つめられ、強いテーマ性をもちながらこれでもかと叙情を揺さぶられるような作品には、最高に合う文句であるように思う。
以下映画を振り返っていく中で率直に感じ取ったこと、感想を述べようと思う。
人生において映画レビューは初めてなので、言いたいことが上手くまとまらず支離滅裂であることを留意いただきたい。
本作品の根底には生と死は等価値であるという価値観が前提としてある。
自然の中においては、生も死も分かちがたく、等しく「あるもの」として受け入れられている。
この作品における「自然」を象徴する存在ともいえるシシガミは生と死を同時に司る神として描かれていた。
けれどこの物語は、その等価性をただ説くだけのものではない。
たとえ生と死が等しいとしても、死は新たに何も生まない。一方で、“生きる”という行為によってこそ、生まれる、生命固有の美しさがあることを、神々含む登場人物たちの生き様を通して伝えているのだ。
文明の発展というものは生命としての一種の進化であり、また、生命たる以上、どうしても無くすことができないものである。それを無理やり抑え込むなぞ出来ないのも、エボシ御前やたたら場の人々からも感じ取ることができる。
でも、それゆえに生存本能としての破壊も生まれる。まず己を守ることに必死になるのが生命の性であり、それに伴う暴力の行使は自然の摂理の一部でもあるのだ。「祟り」として表出される憎しみや恨みも「自分の居場所を奪われた」ところから来ており、この摂理に帰結する。
しかし、過剰な破壊は自身にとっても毒となる。自身の居場所を守ろうとするために行使した暴力は、直接でなくとも、そのうちになんらかの形で跳ね返ってくる。
だからこそ、アシタカは曇りなき眼で「共生」という道を見定め、模索する。
自己や他者を傷つけることは生きる上で仕方がない。でも、傷つけ合いながらも共に生きていく、という選択肢である。
これは、自然と共に生き、死ぬことを選びとる、日本古来のアミニズム思想にも繋がっている。
民俗学者である和辻哲郎が著書「風土」にて述べたように、日本は災害が多い国であるからこそ、自然と共に暮らし、神に寄り添う文化が育った。
『もののけ姫』の世界における“共生”の思想は、まさにこの価値観を体現しており、それはアシタカの生き方にも通底している。
縄文的価値観が色濃く残っている蝦夷の生き残りであり、祟り神の呪いと運命を共にしたアシタカだからこそ、文明と森を繋げられたのである。
シシガミは死んでしまったが、森は再生し、新たな命が生きようとする。
どんな状況下になっても、生命は芽生え、生き続けていく。
自然と文明との橋渡しとして、アシタカは再びサンに会いに行くのだ。
