「アシタカの選択。生きろ。」もののけ姫 葵須さんの映画レビュー(感想・評価)
アシタカの選択。生きろ。
見た後の感想は見てよかったというもの。
もののけ姫は子供の頃に一度か二度見た記憶がある。サンが山犬の前で口元を血に染めて血を吐く場面(CMでの印象の方だと思うが)や、アシタカが呪われた右腕で弓を放つと敵武者の腕や首が小気味よいと感じるほどの描写でパッと体から離れる描写がまず第一に思い浮かぶ。その次に、シシ神の再生の力とダイダラボッチへの变化の様子が思い浮かぶ。そして物語の背景として青々と描かれた自然風景と首を揺らす木霊。子供の頃に見た記憶の表層としては、人体破損の暴力的で刺激的な部分と、躍動感ある日常では見ることができない人智を超越した生物=神の描写に映像的記憶が焼き付いているわけではある。しかし、そのテーマの深さについては子供の頃みた時から言語化はできなくともなんとなくわかっていたし、思い焦がれてまた見てみたいなという思いもずっとあった。それを今回見ることにした。(私が子供の頃に見た映画作品を機会があればまたそれぞれ今の自分の思いをもって再度見てみようとしているその個人的プログラムの一貫ではあったし、日本のおたく文化や日本の神々に好意的な興味を今持っている自分が再度その原点ではないが、宮崎駿さんという偉大な先駆者が作った作品をまた一度見てみたいと思っていたから。岡田斗司夫のyoutubeチャンネルでよく話すジブリの解説動画も見たいと思うきっかけの一つである。)
この作品を見る中で一番に興味がいくのは、本作の主人公アシタカの選択である。彼は山犬達、タタラ場の勢力どちらにも取り込まれず、的か味方かの二者択一ではなく、どちらとも真摯に話し、考え、自分が何をすべきか考える。その行動はどっちつかずで八方美人にも映るが、彼のやり方は『人を助けたい』という行動原理に常に従うという意味で揺るぎない意思を持った行動である。(自分を狙う侍にも積極的に攻撃はしない)彼のような人間性と強い意思を持った若者が、どちらかに与しそれを貫いたならば、その勢力は一方を蹂躙できるまでになったとも思う。しかし彼はそれをしない。このような社会に組み上げられた何処かの勢力の行動原理に自分を委ねない覚悟は、巨大組織による搾取構造の元で生きる現代人にとっても啓発を与える一つの正しい行動原理だと思う。昨今はウクライナ戦争でアメリカ(ウクライナ)側から発信された報道を見聞きして一般大衆の多くがロシア人の人権を度外視した憎しみを懐き罵倒し、その死をあざ笑う傾向があるのを見た。これは、一つの勢力に組し、その『正義』に自分を同一化させればいつも起こりうるエゴの肥大化による現象だ。それを自覚できない人間は常にいる。この映画はそのような人間(たとえるならば偏見ではるがアメリカ人のような正義と悪の二者択一構造をとりがちな人種)にとって一つのアンチテーゼを教えてくれるだろう。
キャッチコピー「生きろ」という言葉は直感的に自分の中ですぐ思い浮かぶ作品がある。それは『亡念のザムド』(2008)という作品で、個人的にそこまで気に入っている作品ではないが、彼が変身するシーンの郷愁をさそうようなBGMと嘆きの中で羽ばたきを促すような言葉とともに少年につきつけられる怪獣的ヒーローへの変身には強く感情を揺さぶられるのを感じ、そのシーンはもしかしたらもののけ姫の影響を受けていたのかもしれないと自分の中で勝手に思っている。
宮崎駿監督がこの作品のインタビューで、子供を餌にする創作物やゲームは良くないと言っていた。そのような言葉は彼の他のインタビュー記事でも見聞きしていて、彼の創作物はこうあるべきだという姿勢が伺われた。自分なりに解釈すれば、監督は創作物とは例えばその時代の問題を人につきつけ、人があぐらをかいて眼をそむけている問題を考えさせようとする教育的な側面があり、彼の中では教育以上に、その教育的価値を評論される以上に人々が作品を見てよりよく変わる事を目的としているのだと思う。それが『もののけ姫』だった。昨今のムーブメントであるエゴの充足を目的としたファストフード的な創作群(なろう作品、異世界転生系、悪女うんたら)への真逆な態度である。そのような意識(創作物をつくりながら、一種の矛盾ではあるが、創作物に依るなと突き放す姿勢)は、庵野秀明のシンエヴァの終わらせ方にも共通する意識がある。甘えるなと思いながら創作するその気持ちはどういうものだろうか。イエス・キリストも、ブッダも教えたのはどう生きるかでしかなかったが、その後の宗教の繁栄の中で信徒は信者をどうやって増やし、どうやって甘えさせ、どうやって金をむしるかに腐心している部分があると思う(これは自分の偏見で誇張したものである)。その最先端のものとして、新興宗教の教祖は自分に甘える信者を搾取し、心と金を奪い続ける。そのような構造を否定するには、大衆を切る覚悟、売れない覚悟、それでも教えたい、お前らの眼を覚まさせたい、そういう強い意思がないと難しいだろう。
そうではあるが。限りなくエスカレーションしていく夢や願望実現としての創作物を否定し、そのテーマ性を武器に戦う作品は、当然ながら、その武器だけでは世の大衆に受け入れられない。例えて言うならば、難しい哲学書はベストセラーにならない。もののけ姫が受けたのはサンという少女の存在やバイオレンス、超自然生物の映像表現も必要であった。シン・エヴァンゲリオンでも同様だ。世間に受ける『受けるだけでなく、意義のある』作品は多重層的だ。表層的にキャッチーな受けがあり、深層心理においてそのテーマを問いかける。そのような作品が今後も望まれるし、自分も作りたいものである。
以下蛇足。アシタカが複数の派閥に出会いどれを選ぶかを迫られるというシナリオ(実際どちらも取ったのだが)については、現在自分がプレイしている洋ゲーでも主人公が複数の勢力と会い、どれかを選ぶことでエンディングが変わってくるというシステムなので、それを連想させ、ゲームの主人公的だなと思った。アシタカが物語の全ての伏線を引っぱる主人公なのだから当然ではあるが。