「ロバの受難とその目に映る愚かなる世界」バルタザールどこへ行く じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ロバの受難とその目に映る愚かなる世界
先月『異端の鳥』を鑑賞し、戦争映画に偽装したボス・ブリューゲル的中世ワールドと、「七つの大罪」をめぐる少年の「地獄めぐり」を堪能した余勢をかって、「地獄めぐり」映画(『ベン・ハー』『時計じかけのオレンジ』『ジェイコブズ・ラダー』……etc.)の源流のひとつでもある、ブレッソンの『少女ムシェット』と本作を続けざまに視聴。いいときにシネマカリテは小屋にかけてくれた。
『バルタザールどこへ行く』と『少女ムシェット』は、万人が認める「姉妹作」である。
両作とも、徹底的にひどい目に遭う主人公が登場する。
かたや、ロバ。
かたや、少女。
どちらも基本は無垢で受動的な存在だが、ときに逃げ出したり歯向かったりする反骨心を併せ持ち、しかしキャパシティがいっぱいになると、ころっと死んでしまうような脆さ(これもある種の厭離穢土か?)も併せ持つ「受難」の行者だ。
『ムシェット』の場合は、ムシェット本人が専らサンドバッグのようにやられまくるうえ、フェミニズム的な問題意識の先駆け(彼女が与えられる苦難の大半は、女性ならではのリアルなものだ)ともなっていて、どちらかというと『バルタザールどこへ行く』でやったことの一部を集中・純化のうえ、「少女版」としてセルフリメイクしてみせている感じがある。
その点、『バルタザール』は、徹底して無垢なるロバを主人公とするぶん、語り口はより寓話的だ。
本人の苦難半分、周りの愚行めぐりが半分と、「地獄めぐり」のあり方は、『ムシェット』以上に『異端の鳥』に近い。要するに、ロバは受難を甘んじて受ける行者であると同時に、さまざまな人間の愚行と堕落を観察する、『神曲 地獄篇/煉獄篇』におけるダンテに近い役回りも担っている。
棒でしばき倒したり、ケツに蹴りを食らわせたり、尻尾に火をつけたりと、今の動物虐待禁止に縛られた映画製作ではとても作れそうにないシーンが頻出するが(そういえば、『ムシェット』の鶉狩りや兎狩りも今は到底無理っぽいw)、いちばん観ていて大変そうなのは、いつ終わるとも知れぬ粉引きの労役シーンだろう。
叙述と演出がきわめて抑制的で、決してわかりやすい映画になっていないのは、『ムシェット』と同様(ブレッソンの独特のスタイルについては『ムシェット』の感想を参照)。
ただ、本作ではそこまで禁欲的な描写や切り詰められたナラティヴが投下されるわけではなく、それなりに映画的なアクションやモンタージュの妙も楽しめるので、こちらのほうがずいぶん見やすい気がしたのはたしか。どこか宗教説話でも語り聞かせているようなおおらかな感じがあって、『ムシェット』ほどとんがっていない。
シューベルトのピアノソナタ第20番をうまく劇伴として用いているのも、飲み込みやすさが増している一因だろう。19番や21番ほどには頻繁に演奏されないが、アンダンティーノは本当に不気味で、不安で、そして美しい。
なにより、ロバは顔をアップにして、あの潤んだ目を大写しにするだけで、問答無用で可愛さと不憫さと健気さを印象付けられる点で、人間の「モデル」より格段に扱いやすい記号である。
ロバの歩む受難の生涯が、リアリスティックな弱者(労働者)の苦難と現状を反映、象徴しているのはもちろんだろうが、トルストイ『白痴』の一挿話を原作とすることからも察せられるとおり、どちらかというと宗教的な隠喩が大きいのではないかと思う。
なんといっても「ロバ」というのは、中世図像としては「愚鈍」を象徴すると同時に、キリストの生誕に立ち会い、マリアと幼子イエスのエジプト逃避の乗り物となり、イエスのエルサレム入城(このあと受難が始まり一週間後に処刑される)の乗り物ともなった聖なる動物でもある。
「受難」と「再生」の物語の主人公を担わされるには、うってつけのセレクトなのである。
茨の髪飾りをマリー(マリア)の手で掲げられ、信者の象徴である羊たちに囲まれて眠るようにこの世を去るロバは、まさにイエスの生涯を表しているかのようだ。
ロバの目にうつる世界は、キリスト教的にいえば、「七つの大罪」の広がる愚者の世である。
ヒロインであるマリーの物語は、そのままムシェットの物語へと変奏され、酔っ払いと厳格家のキャラクターも次作にそのまま持ち越される。作品内ではパン屋の兄ちゃんを筆頭とする愚連隊が一番楽し気に活写されているが、多少話の転がし手として都合よく使われすぎの気もしないではない。
総じての感想としては、『少女ムシェット』同様、監督の力量と理想は十分伝わったし、「映画とは何か」について考えさせられ、知的興奮を味合わせてくれたが、おもしろかったかといわれると、別に万人には勧めない(笑)。