(ハル)のレビュー・感想・評価
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かなり久しぶりに見直した
ほんわか温か。
今でこそ二人がコミュニケーションを取る手段には事欠かないと思いますが、会うか電話するかくらいしか方法がなかった当時は、文字だけとはいえ、周囲を気にすることなくコミュニケーションができるパソコン通信は、画期的な通信メディアであったことは、間違いありません。
(パソコン通信はしりの当時は、スマホはおろかガラケーも普及していなかった時代。電話といえば、家族のが共用する、いわゆる黒電話(600型電話機)が、まだ一家に一台だったりした頃。)
そんな中で、少しずつお互いを知り合っていくホシとハルの様子が、ほんわかと心に温かい一本だったと思います評論子は。
そして、走る新幹線の中から、ほんの一瞬だけ「出会う」二人…。
胸にジーンと来たのは、果たして評論子だけだったのでしょうか。
佳作であったと思います。
(追記)
いまは、彼(彼女)の電番をスマホのディスプレイでタップすれば、何ということはなく電話が繋がって話ができますが…。
上記のような評論子の世代では、まだ学校にいるうちから「今日の何時に」と約束しておいて、その時間にかけると、首尾良く彼女が受話器を取ってくれる…。
そんな感じでした。
たまたま彼女の家族が先に受話器を取ってしまったしすると…。
母親が取ったときは「はいはい、娘ですね。少し待ってくださいね」と平和なのですが、間違って父親が取ったりすると「オレの娘に何の用だ?悪い虫がついたか?」みたいな感じで、バツの悪い思いをしたりします。
その困難が、二人の気持ちを育んでいたと考えるのは、単なる評論子の思い過ごしでしょうか。
【”パソコン通信”により、知り合った(そしてお互い偽りの部分もありながら)男女の恋物語。森田芳光監督作品の中でも、特に斬新な設定と、それを支える深津さんと内野さんの演技に魅入られた作品。】
ー ”パソコン通信”と言うのは今でいうSNSの遣り取りの初期段階なのだろうか・・。
冒頭から、”ほし”と”ハル”のメールの遣り取りを画面で映し出す演出が、斬新である。
(今作の公開は、1996年である!)
それを支える、”ほし”を演じた深津絵里さんと、”ハル”を演じた内野聖陽さんの、日々の屈託を抱えながら仕事をしつつ、相手の着信を待つ姿が切ない。-
■“ハル”という名前でパソコン通信を始めた昇(内野聖陽)は、“ほし”と名乗る男性と意気投合。
お互いに本名も顔も知らない気軽さから、それぞれの悩みを打ち明け合ったりする仲になっていくが、実は“ほし”は男ではなく、藤間美津江(深津絵里)という女性だったことが判明する。
◆感想
・森田芳光監督作品は殆ど鑑賞しているが、この作品はノーチェックであった。
ある映画雑誌を読んで、慌てて鑑賞した。(現在、午前4時。今日、大丈夫かな・・。)
■結論から言うと、とても面白かった。
理由は、”パソコン通信”のある意味無機質な遣り取りと並行して、昇と、美津江の厳しい日常がキチンと描かれているからである。
二人は、相互補完するように、相手が誰だか分からないからこそ、日々の辛さや愚痴を言い合うのである。
その中には勿論自身の嘘を含めてである。
◆感想<Caution! 内容に触れています。>
・今作で、アクセントになっているのが、戸田菜穂演じるローズであろう。
自由奔放な彼女は、”ハル”の恋人になり、彼と行動を共にするが、別の男と良い仲になるだけではなく、実は“ほし”の妹であったという設定の妙であろう。
更に言えば、“ほし”は東京に住んでいる”男性”のふりをしながら、実は盛岡に住む女性である事である。
・だが、二人は”パソコン通信”を通じて、自分の本名、年齢も開示していく。
そして、”ハル”が東北出張に行った際に、東北新幹線の脇で、白い車で赤い服を着た“ほし”が合図をし、お互いに300キロ出ている車中と外からお互いを捕らえようとする姿。
<ラスト、二人が初めて東京駅で会うシーンは、白眉であろう。
笑顔と、恥じらいを浮かべつつ、最前列の車両に乗っていた”ハル”に素顔で近付いていく“ほし”の姿。
故、森田芳光監督作品と言えば「それから」「武士の家計簿」・・・と、「僕達急行 A列車で行こう」と、外せない「家族ゲーム」と思っていたが、今作を観て森田監督の先見性と、映画構成能力と製作作品の幅広さに改めて、深く頭を垂れた作品である。>
26年も前。SNSで出会った2人の本物の恋
1996年。監督:脚本:森田芳光。
主演のふたり。深津絵里と内野聖陽が若い。
パソコン通信で知り合う(ハル)と(ほし)
グループでチャットがいつのまにか一対一のかけがえの無い“話し相手=相談相手)になって行く。
(ほし)がはじめ男性のふりをしてたり、
(ハル)の彼女が外国へ行ってしまって失恋したり、(ほし)にはしつこいストーカーがいたり、
(ハル)が(ほし)と同時進行で付き合ってた(ローズ)が、まさかの(ほし)の妹・・・
ショックだった!!
今ならSNSで知らない人とメールするなんて珍しくもないが、26年前は、最先端の
ネット黎明期だったんだ!!
パソコンの文章画面が半分を占める。
でもドラマティックだった。
ドキドキした。
応援してた!!2人を!
この映画、20数年前に観ています。
その時は内野聖陽を見て、なんでこの人が主役の(ハル)なの???
とても不満だった。
内野聖陽は今かなり好きな俳優だが、当時は(ハル)にはもっと甘いハンサムがいいな・・と思い込んでいた。
深津絵里さんが美しいこと!!
今とイメージが殆ど変わらない、美人で感じがイイ。
まさかこんなに感動するとは夢にも思わなかった。
森田芳光、最高!!
赤いワンピースとグレーのスーツ。”七夕の逢瀬“を固唾を呑んで見守る。
「人と人の間には、今まで誰も知らなかったこんな出会い方もあるのだ」と示した、「パソコン通信黎明期」の映画。
・仲人さんを介したお見合いでもなく、
・共通の友人からの紹介による出会いでもなく、
・偶然同じ場に居合わせて顔を合わせた=同じ学校のクラスメートとか職場の同僚=というのでもなくって、
独りで村上春樹を読むように、
独りでアパートの自室で自分の日記帳を読み返している人たちのように、
モニターの字を辿っていく読者たちが愛読書の著者の世界に出会っていくように、そうして見ず知らずの二人がお互いのメールの文章に惹かれていく
・・という物語です。
でも悲しいかな、新しくて美しかったけれど、あっと言う間に終わってしまった出会いの方法でしたね。SNS犯罪がこれだけ隆盛になってしまうと。
一瞬だけの。花火のような。
宇多田ヒカルの、16歳での衝撃的デビュー作「AUTOMATIC」にも印象的なリリックがあるな
〽It's automatic
アクセスしてみると
映るcomputer screenの中
チカチカしてる文字
手をあててみると
I feel so warm
↑これ大好きなフレーズなんです。
モニターの明かりに浮かぶ深津絵里がとても綺麗だ。
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【台本から】
(ほし)
何かほっとしました。ちゃんと時間通りの新幹線にハルがいたことが・・
私に沢山のメールをくれたハルが、私の生まれ育った場所を200キロのスピードで通過して行きました。
このビデオは大切にさせていただきます。
苦しい時、寂しい時、このスピードのハルを見ることにします。
(ハル)
こんな方法でほしの姿を見られるとは思わなかった。今までメールで色々なことを書いてきた人がこの人だなんて・・
赤い服がとても似合っていた(良く見えなかったけど)。ともかく不思議でしょうがない。小学校の同級生に久し振りに出会ったような・・面影があるようで。面影どころか初めて会ったのにね。
僕もこのビデオを大切にしようと思っている。
・・森田芳光、いい脚本。いい台詞だ。
若い二人の小さからぬ高揚を感じて、スクリーンを見守る僕も手に汗を握る。
DVD特典には森田のインタビューが載っている、いわく「文字」と「字幕」に主役になってもらった理由。
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迷惑メールの削除とBL登録が朝のルーティン。毎日忙しい。
実は、我が家の近くの高速道路のパーキングで、殺人犯の夫婦が逮捕されたことがあるのです、それは北関東でSNSで呼び出した女子高生を死なせた夫婦でした。
今やこんなふうに、残念ながらメールもSNSも、凶悪犯罪の落とし穴や 詐欺グループの仕掛ける罠の非常に危険なツールとなってしまった。
時速200キロですれ違い、お互いのhonesty をハンカチで確かめ合った二人だったのだが、あの映画史に残るだろう美しいシーンは、あの速度のまま最早人と人との信頼関係の世界から通り過ぎてしまったと思う。
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手紙フリークの僕は小中と20人ほどと文通し、結婚した妻にもたくさんの手紙を書きました。
トム・ハンクスとメグ・ライアンの「ユー・ガット・メール」は残念ながら期待はずれ。
その映画の元ネタとなった「桃色の街」も文通のシーンがまったく希薄でがっかりだった。
しかし「ユー・ガット・メール」に2年先駆けて作られた本作「 (ハル) 」は、文字になった人間の言葉がしっかりと言霊を持って往復しており、二人の男女も主人公。
そして二組の私信の文字が主人公。
往復書簡のやり取りが主人公だったのだと思う。
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【きりんの自分語り】
せっかく思い出したのでメモ
《ハンカチを振るシーン》良かったなぁ。
思い出したっけ、うちの子を連れて近くの山に登ったとき、時間を決めて、うちの玄関先で妻に白いバスタオルを振ってもらったんだ。
携帯電話など無かった時代。
山の展望台からそれが見えたときのえも言われぬ感激ね。
もういいのにいつまでもタオルを振ってくれていた妻が、遠くふもとにいた。
(ほし)
文字にする事で見えてくるもの
『ユー・ガット・メール』よりも前に日本でこのような映画が作られていたとは知りませんでした。
ネット上の交流を通し、顔も名前も知らなかった誰かが次第にかけがえのない存在となっていく様子が丁寧に描かれていて惹き込まれました。
ネット上のやりとりだからこそ、適当な作り話を書く事もあれば、誰にも打ち明けられなかった本音を綴る事も出来て、その時その時の文面に繊細な感情が表れていて胸を締め付けられました。
また、マイペースで前向きな(ハル)と、慎重で繊細な(ほし)、あけすけで直感で動く(ローズ)、それぞれの性格が表れた文面を読むのも楽しかったです。
辛い思い出も何もかも長い間一人で抱えてきた主人公が、おそらく初めて自分の気持ちを文字にして誰かに伝える事で、ゆっくりと丁寧に自身の過去を整理し、前に進んで行こうとする姿に感動しました。
時代ならではの輝き
約束された場所で、はじめまして
何から何まで鼻につくほどトレンディ。と言い切ってしまえばそれまでだが、そこにはインターネット黎明期の何かが起こりそうで起こらない予感のようなもの、そしてそれに対する漠然とした希望のようなものがまだ存在していた時代の空気がそのまま封じ込められている。田中康夫『なんとなく、クリスタル。』を読むような気分で視聴した。
作中ではしつこいくらい村上春樹もとい『ノルウェイの森』が意味深長なオブジェクトとして登場する。確かにハル、ほし、ローズの三角関係はワタナベ、直子、緑の三角関係に、電子メールという(当時は)利便性と不便性を同量に抱えた伝達手段はワタナベと直子のもどかしい手紙のやりとりにそれぞれスライドさせて考えることができるが、だから何?というのが正直なところ。
とはいえ不安定なツールだけを頼りに丁寧に切実にコミュニケーションを重ね続け、その途上に待ち受けるさまざまな障害や試練をも乗り越えた果てにハルとほしが「はじめまして」へと辿り着くラストシーンにはそれなりの感慨がある。
この映画が撮られた1年後に、村上春樹は『アンダーグラウンド』というノンフィクションを上梓した。これは、地下鉄サリン事件を題材に、それに巻き込まれてしまった「普通の人々」へのインタビューをまとめたものだ。当時のマスコミや世論はサリン事件を画策したオウム真理教やその信者たちといったセンセーショナルな部分ばかりを取り上げたが、村上春樹はむしろそこにおいて「被害者」として背景化していた「普通の人々」にスポットを当てた。
デビュー作『風の歌を聴け』以降ある種自閉的な作風を固持してきた彼が、このような社会の人々へ耳を傾ける「コミットメント」の姿勢を示したことは一つの大きな転換だった。
コミットメントとはコミュニケーションの継続に他ならない。そこでは軋轢があり、誤解があり、破綻がある。しかしそれでも決してコミュニケーションを諦めない。数多の困難を乗り越えてこそコミットメントは初めて功を奏するのだ。
ハルとほしは電子メールのやり取りを諦めなかった結果としてあの幸福なラストシークエンスに辿り着くことができた。それは村上春樹が不断のコミュニケーションの結果として『アンダーグラウンド』を書き上げられたことと同じなのだ。
心がほっこりしました
ネットの時代の愛の神話 コロナ後の世界に必要とされる映画です 今こそリメイクされるべきです
大きく感動しました
そして深く深く心に染み入りました
これこそ現代において作られなければならない映画です
匿名、虚実が入り交じる、性別、年齢すら定かではないネットの世界
それってネットだけの世界なのでしょうか?
大都会ですれ違う人々
私達は相手の何を知っていると言えるのでしょうか?
居酒屋やバーやクラブで偶々隣あって意気投合した相手の姿が、本当の姿かどうか何も知らない
自己紹介した名前、住んでるところ、仕事
全部嘘かも知れない
いま向かいあって見ている相手の姿形は真実?
歳だって、もしかしたら性別だって本当かどうかわからいない
ネットもそれと同じに過ぎません
馴染みのバーで良く遭う人物の何を知っているのでしょうか?
彼女、あるいは彼の身の上話だって、それは本当なのでしょうか?
人間は言語で考える存在です
見たもの、感じたことを言語化してテキストとして脳内で独り言をしているのです
であるならば、最初から言語だけのコミュニケーションはよりダイレクトに心に響くのは当然のことです
昔から文通が深い人間関係を繋ぐことは良く知られています
だからネットでのコミュニケーションは、それがより簡単にできるようになっただけのことです
それが一般的になったということが昔との違いということだと思います
だから本作は作られなければならない必然性があったのです
都市化して、核家族どころか個人化して、砂のように人はバラバラに暮らしているのが現代です
限りなく独りで暮らして行けるのです
でも寂しい
だってここにいる自分を知って欲しい、何を考えているか、何を感じているか知って欲しい、共感して欲しいのです
かといって過剰にパーソナルスペースに踏み込んで欲しくない
何故って傷付きたくないから、不愉快な思いをしたくないから、楽しい時間を潰されたくないから
ストーカーなんか絶対に御免です
逆に人格同士が触れ合うことの無い関係性はどうでしょうか?
ほしがプロポーズを断ったのは当然です
そんなコミュニケーションに何の値打ちがあるというのでしょうか?
これこそ疑似恋愛です
お互の人格同士が触れ合うコミュニケーションは、相手を深く知らなければできるわけは有りません
相手の本当の姿を知ってはいなくても、何往復も何十通もメールを何ヶ月も交わしていれば、相手の人格は滲んでくるものです
知らされたプロフィールが嘘か本当か分からなくても、考え方や共感は嘘ではないと思えるのです
だからネットでのコミュニケーションは余計に心に響くのです
本当の恋愛とは人格に惹かれ合うことなのだと思います
1996年バブル崩壊の最中の作品です
人はより内向きになっていった時代です
人に積極的にリアルに踏み込んで関係性を結んで行く積極性が薄れて行ったのです
インターネットは1993年頃から一部で使われるようになって来ましたが、本格的に普及しだしたのは1995年のwindows 95 の発売からでした
パソコン通信はそれ以前の1985年頃から始まって
インターネットとwindows やMac の時代となっても人気でした
ちょうど今の某巨大掲示板のような存在でした
ただパソコン通信の場合は匿名でありながらもID とハンドルネームで特定された個人でのコミュニケーションできるSNSにも似たシステムでした
だからダイレクトにハルとほしのように直接メールのやりとりができたのです
というかインターネットが普及するまでは、パソコン通信の同じサービス会社同士でないとメールのやりとりすら出来なかったのです
今のSNSのようにはコミュニケーションできない世界でもありました
携帯も既に有りましたが、メールをやりとりできるように人なったのは本作の3年後の1999年頃からです
本格的にモバイルでSNSが利用出来るようになったのはiPhoneが日本発売された2008年以降のこと
Android携帯もできたここ10年程でSNS のコミュニケーションは最早モバイルが中心に変わりました
今ではPC を使うなんて仕事とか、何かするために特定のアプリケーションを使う時くらいになっています
だから人はより個々のコミュニケーションになり、常時オンラインとなってしまったのです
それが現代の姿です
それでもハルとほしの物語は、このコミュニケーションの原形です
モバイルSNS の現代であっても変わりは無いのです
ネットの時代の愛の神話なのだと思います
通過する新幹線で互いのリアルを確かめあうシーンこそは本作のクライマックスです
そしてラストシーンのテキストメッセージはリアルもネットも変わりのない等価であると証明された感動のシーンでした
深津絵里、内野聖陽の二人の孤独と空虚感は見事な実在感がある配役と演出でした
そしてその二人のラストシーンの互いを見つめ合い実存を確かめあう姿に涙がこぼれました
互いの人格が認められ、その信頼する人格が本当に実存する事を確かめあったのです
これ以上のラブシーンは有りません
大量のテキストは洋画の字幕と思えば大したことではありません
結局のところ、普通の映画だって脳内で台詞を無意識にテキスト変換して意識に流し込んでいるだけに過ぎないのです
新型コロナウイルスの猛威によって、世界的に外出制限になっています
人と人との接触を避けなければならない世の中なのです
コロナウイルスが収まったとしても、これからは昔のように直接に人とあってコミュニケーションするようには、もう戻らないかも知れません
人はより孤立して、ネットによるコミュニケーションで生きていく社会になってもいくことは間違いないことと思います
今こそ本作はリメイクされるべきだと思います
21世紀のコロナ後の世界にこそ必要な映画なのです
想像力を掻き立てる
現代はSMSがコミニュケーションツールのメインなので、どこに居てもあっという間に連絡が取れてしまいますし、相手が嫌になれば良くも悪くもブロックをする事もできますし、SMS上でどんどん色んな人と出会う事ができます。今作の公開年度は1996年なので、人のコミニュケーションの方法が24年で随分変わったなあと、私も昔はあんな風にしてたんだなあと懐かしくなりました。
ハルとホシは、パソコン通信というツールを使っているにも関わらず、文通をしている様にみえました。メールを待つ時間、相手は今どうしてるかな?相手の文面からどういう人なのかな?新幹線越しにチラリと相手が見えるだけで1日中妄想に取り憑かれたり。人間は想像力を掻き立てられると、途端に興味がでる生き物ですが、そんな人間の性質を上手く突いていたラブストーリーでした。おかげで私もラストまで引っ張られて、とても幸せな気持ちになりました。ホシは村上春樹のファンだと思っていたのですが、「春」を探していたのですね。
はじめまして
チャット全盛時代のちょっと前の映画。ちょっと先取りしてたんだな。なんせ“パソコン通信”という言葉使ってるからなぁ。映画の画面上でもパソコンという雰囲気は伝わってこないが、邦画では初の試みだから許されるのか・・・文字数が多いのも欠点。どうせならハルとほしの文章の背景色を変えてくれればいいのに。すべてブルーの背景はセンスがない。
付き合ってた女性(山崎)と別れてしまったハル。ほしと会いたかったけど、彼女は森岡に住んでいいたのだ。そんなとき、歯科衛生士のローズ(戸田奈緒)という積極的な女性が登場。彼女から会おうと言ってきて、エッチな話ばかりをする。もしかして二人はやっちゃうのか?と思っていたら、やらずじまいでローズには別の彼氏ができてしまった。ただ、ほしにはローズとカラダの関係になったと嘘のメールを送った。このメールだけが赤文字。
実はほしとローズは姉妹だった。ローズといえば、ハルとセックスした・・・と、ほしは戸惑うばかり。メール交換を続けてきただけで、恋人同士というわけじゃない。一度、新幹線に乗ってるところを互いにビデオに撮っただけの関係なのだ。終盤にきて、しかも逢うこともなくお終いになっちゃうかと思う展開にして、救ってくれたのはやはり妹のローズ。ほしは思い切ってハルに会いたいとメールを送り、新幹線のホームでの出会いがラストシーンとなる。そのラストの台詞が文字として「はじめまして」となるところはなかなかいい。
見知らぬ男女がインターネットで知り合い、実際に会う。こうした図式を描いた初めての映画なんだろうし、その斬新な手法は買う。ただ、主人公の二人が純情すぎることがリアルさを欠いているのが残念。別れたばかりの恋人をまだ思い続けているハルと、死んでしまった恋人を想い続けるほし。ちょっとスケベなローズという存在をもっとミステリアスに描くとか、実際にセックスしてしまったのなら納得できるのに・・・
トム・ハンクスとメグ・ライアンの『めぐり逢えたら』('93)から流行り出したと思われる、物語の最後に主人公たちが出会うというプロット。そしてメールのやり取りという手法はそのまま同主演の『ユー・ガット・メール』('93)に繋がるのだろうか。まさかノーラ・エフロン監督はこのハルも観た?
たくさんの人がこのハルを参考にすればいいと思います
主人公が,(^_^)ってなんなの?
って尋ねるような,時代はパソコンが普及過程の頃。
映画のコミュニティでのコメントで,独特な意見を持つハル(内野聖陽)に興味をもったホシ(深津絵里)。
ホシからメッセージを送ることでお話は始まります。
この映画を一言でいうと 純粋 です。
きっとあたしは知らない人と絶えずやりとりするなんて
絶対めんどくさくなっって途中で投げ出すな
はたして今の時代でもこんな素敵な出会いがあるのかなーと思いきや
現在アメリカにおける結婚したカップルの出会いの3割はネット上によるものらしいので
きっとたくさんの人がこのハルを参考にすればいいと思います
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