都市とモードのビデオノートのレビュー・感想・評価
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世界的な名匠が仕方なしに撮った低予算な駄作と解釈する。
フランスかぶれの髭面の爺さんのどこにモードなファションがあると言うのか?
申し訳ないが、この爺さんの事を全く知らない。
『黒の生地で作る』とかのたまい『それが落ち着いている』とくくる。
そう言ってんだから、首都高速も白黒で撮ればよかんべぇ。これじゃ、タルコフスキーのリスペクトにしかならない。
首都高速とか、パリコレとか、S◯NYとか、絶滅危惧種大和民族のだいぶ前の思い上がりと思うが。
因みに
アイデンティティの反対語はモードでもファションでもない。この演出家の言うアイデンティティの反対語はおそらく『イデオロギー』何だけど。
語感で言えば『イデオロギー』の方が薄気味悪い。
ドイツ人よ!同じ様に戦争に負けたからと言って、戦勝国に対して卑屈になるこたぁないだろ。
『シンメトリーは美では無い』とのたまう。あんたのアイデンティティはわれわれのアイデンティティでは無い。
『ヒモ』でいたいそうだ。髭面の真ん中から半分で良いから剃れ!
総括
女性を奴隷の如くこき使って、彼女達の才能を搾取して、安穏とタバコを吸うヒモジジイがのたまう言い訳の様に見える。それで良いのか?だから、映像としては評価して良いのだろうか?まぁ、偽善だろうが。
本当は-5点何だけど。仕方ない。
最近見た映画にこの2人が登場していた映画があった。何だっけ?
まぁ、業界のヤラセ作品の部類かもね。どうでも良いが。
『天才たちの頭の中 世界を面白くする107のヒント』と言う映画だった。加えて、日本の芸人が登場する。そして、この髭面の爺さんはこの芸人の衣装を担当している。全てが繋がった。
YohjiYamamoto
「僕の人生は偉大な母のものなのです」
という衝撃的な言葉
自分の人生にあまり執着していないのか?
パリコレを圧巻したデザイナーとは
思えないほど「私が」感がない
つい、マルタン・マルジェラを想起する
マルタン・マルジェラもお祖母さんの側でお裁縫を見て覚えた
町の仕立て屋さんだったお母さんの側で育って、洋服の仕立てを備に見て修行なさった氏は
偉大なの女性の為に
「お役に立てますでしょうか」
というスタンスで仕事をしているそうだ
衣服は友達であり家族であり
必要なアイテムであり
消費されるものではなく一生物なのだ
そういう哲学から
洋服は着やすさが最優先で
デザインは左右非対称が飽きない
私も20代後半から30代はY'sの洋服ばかり着ていたからその着やすさは充分実感してるし、長持ちしている
先日は30年前のコートを出してスチームをかけたら
まったく劣化していなかった
堂々と美術館で催されたパフォーマンスライブに着て行った
娘もY'sの服は全部もらう、と言っていて
本当に譲れるお宝を持っていて良かったな、と思っている
そして、ヴィム・ヴェンダースの撮り方
小さなカメラで再生しながら撮影したり?
アート感ぷんぷん
なにを撮っても味があるな〜
と言っても数々の他の名作から比べたら
簡単なドキュメントだったけどね
ヴィムヴェンダース×山本耀司
まさかの組み合わせ♡
ふたりの語り…これは貴重
冒頭ヴィムヴェンダースは
デジタル作品はコピーも本物もややこしいと
終始ぶつぶつ考えながら呟き
Yohjiは日本語と英語で呟く
ファッションとアート、考えを整理させられる
*先日、クリスチャンマークレーはヴォーグのインタビューにアートは今やファッションより商業的だと、ファッションの方が真面目に取り組んでる、みたいな発言してたなー
【多様性と変化を考える】
ヴィム・ヴェンダースが、この作品は断ろうと思っていたと回想して話すところから、この作品は始まる。
しかし、撮影が進むにつれて、ヨウジヤマモトとヴィム・ヴェンダースほどしっくりくる関係は、あまりないだろうと思うな内容になっていく。
実は、今回のヴィム・ヴェンダースのレトロスペクティヴで、もう少し多くの人に観てもらいたいなと思ったのは、この「都市とモードのビデオノート」だった。
あまり観る機会はないだろうなと考えたこともそうだが、当時のヨウジヤマモトの考え方が、現代社会によりマッチしていたんだと改めて気づいたこと、更に、ヴィム・ヴェンダースも、この撮影を通じて考え方を改める場面があったり、それも、僕たちには大切なことだと思ったからだ。
この作品は、「未来を信用していない」と語っていたヨウジヤマモトが、過去から未来の、つまり、現代の僕たちに発したメッセージのように思える。
映画の場面と、この作品で使われたビデオカメラのディスプレーに映る場面は似ていて、一瞬、映画をビデオカメラで録画している場面も収めながら、映画全体として撮影しているのではないかと勘違いしてしまうのだが、実は、既に録画した映像と、似た場面の撮影を同時に見せていることが気が付く。
冒頭から、こうした場面が何回かあるのだが、終盤でヨウジヤマモトが話す「未来を信用していない」という言葉が、実は、ヨウジヤマモトがそこに居ながらにして、ずっと先の未来を生きていると表現しようとしたのではないかと思わせる。
少し話は逸れるが、ヴィム・ヴェンダースは、タルコフスキーも敬愛している。
そして、高速から公道に場面が変わる際、映し出されるのは、新一の橋の交差点の向こうの坂で、そこには、タルコフスキーが「惑星ソラリス」で撮った秀和のマンションがある。今でも、このマンションはある。そんなところもこの作品は楽しい。
戦争で父親を亡くし、女性向けの仕立て屋を営む母親の女手ひとつでヨウジヤマモトは育てられた。
当時は、反発心から女性の服が大嫌いだったと話すが、ヨウジヤマモトは、慶応大学を卒業後、服飾学校で服飾をさらに学び、パリなどを経て、日本を代表するデザイナーとなる。
だが、ヨウジヤマモトは、「日本を代表する」という枕詞にものすごく違和感を感じていて、自分自身を形作ったのは、東京という大都市に生まれ、日本人であることを意識しないで育ったことが要因だと思っている。
更に、こうした多様性の中で生きているだけではなく、自身が大切にしているジプシーの写真集を眺めて、この人たちが身に着けている、こんな洋服を作りたいと言う。
洋服は消費されるものじゃないんじゃないか。
現代の僕たちには耳の痛い話だ。
もう一つ、ヨウジヤマモトは、シームレスのストッキングでハイヒールを履く女性は、自分より年下であっても、大人のようで近寄りがたいと話す。
確かに、ヨウジヤマモトの洋服を纏った女性がハイヒールを履いているというイメージはない。
彼は、女性を窮屈なところから解放したかったのかもしれない。
もし生まれ変わったら、ヒモになって女性の身の回りのお世話をしたいと話す場面で、ヒモを、英語のストリングと表現したところで、なんだかんだで、ヨウジヤマモトも日本人だと思ってしまう。
ヨウジヤマモトの話す英語は、わかりやすい。
ネイティブじゃないからこそ、話す内容の骨子をまとめ、要点をずらさないように話しているような気がする。学歴からもだが、頭も良いんだなと改めて思ったりした。
ヨウジヤマモトは、1989年のこの作品を通じて、生まれた場所が、その時に属するコミュニティがアイデンティティを決めるのではなくて、どう考えたのか、どう過ごしたのか、行動したのかが重要なのだと言っているような気がする。
そして、ヴィム・ヴェンダース自身も、途中で、映画と機材のかかわり方について、ビデオの良さを再考し、今後の映画撮影の変化にも言及する。
「さすらい」でも示されるように、変化の重要性が示されるのだ。
#KuTooのムーブメントにかかわった人、気になった人、女性の社会進出や変な縛りからの解放の重要性を考える人、多様性が重要だと信じる人は、是非、ご覧になってはいかがかと思う。それも、この作品をもっと観てほしいと考えた理由の一つだ。
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