劇場公開日 1975年8月2日

「虎(アンバ)とは?」デルス・ウザーラ neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0虎(アンバ)とは?

2025年6月20日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

『デルス・ウザーラ』は、黒澤明が旧ソ連との合作という特異な条件のもとで撮りあげた作品であり、その制作背景自体がすでに黒澤にとってのひとつの転機となった作品です。この映画では、『七人の侍』や『椿三十郎』に見られたような巧緻な多重構造や構図の反復、弁証法的な語りといった構造的な美しさはあまり見られません。むしろそれは、自然という主題にふさわしく、一本の川のように流れる“直線的な語り”として描かれています。

物語は、探検隊の隊長とデルス・ウザーラという人物の出会いと別れが描かれています。自然に深く根ざしたデルスは、文明の側に立つ隊長とは対照的な存在であり、彼らの交流を通じて「人間」と「自然」の関係、そして「理性」と「理性を超えるもの」との関係が浮かび上がってきます。

舞台となるシベリアの大自然は、あまりに強大で苛烈です。猛烈な寒さ、果てのない雪原、襲いかかる風。そこには人間中心の視座は存在せず、ただ「在る」だけの、容赦なき世界です。デルスは、風に、火に、獣に、そして星に語りかけます。彼にとって自然は他者であり、対話の相手であり、決して征服や支配の対象ではありません。そこには文明人には欠けている「聴く知性」が宿っているのです。

印象的なのは、雪原で日が暮れかけた時、草を刈って一命をとりとめるシーンです。死を目前にした状況から、デルスは測量機とロープを使って風除けの草の山を築き出します。自然のなかで生き延びるには、理性や計画ではなく、直感と知恵、そして自然との「関係性」が不可欠であることを示しているように思えます。つまり、「文明」(測量器)と「自然」(草)の融合によって命をつなぐことができたのです。

しかし、やがてデルスは老いに直面します。目が見えにくくなり、かつてのように自然と対等に生きることができなくなる。老いは、どれほど自然を知り尽くした者にとっても未知であり、経験の積み重ねではどうにもならない、時間というどうやっても立ち打ちのできない存在です。デルスは老いを通じて、自らの限界に気づくのです。

この恐れの感覚は、劇中で繰り返し言及される「虎(アンバ)」という象徴に集約されています。かつて撃った虎に後悔の念を抱き、以後も虎に追われる感覚を抱いているデルス。虎とは何なのでしょうか。おそらくそれは、「人間の理性の届かないもの」の総体──自然の恐怖、老い、死、喪失、虚無──そのいずれとも言えるし、すべてであるとも言えのではないでしょうか。

都市に移住したデルスは、もはや自然と対話できない場所で急速に衰弱していきます。暖炉の火を見つめる姿は、かつて火と語り合っていた男の、沈黙の象徴のように見えます。対話の不在が、彼を虚無へと誘います。

新型の銃を受け取ったデルスは、虚無から逃れるため、再び森に戻ろうとします。しかし、彼はもはや“自然と対等”ではありません。デルスは森の中に帰ったつもりだったのですが、「理性の道具(銃)」を手にしたために、もはや対等ではなくなっていたのです。デルスはそれまで「自然と語る者」だったのに「自然に命令する者」になってしまったのだと思います。結局その銃が原因で命を落とします。理性と自然のあいだにあったデルスという存在が、その中庸性を失ってしまい、理性の方に傾きすぎたために自分の命を失うことになったのでないでしょうか。

本作は、『どですかでん』における黒澤の創作的断絶を経たのちの「執着の放棄」や「問いなき創作」への再出発が感じられる作品です。かつてのように人間を賛美するでもなく、劇的な構造を持たせるでもない。ただただ、不可逆な時間と老い、喪失と虚無を静かに受け止める。そのなかに、かつて黒澤が正面から描くことができなかった「自然」と「死」というテーマがあらわれているんだと思います。

この映画で黒澤は、問いをぶつけるのではなく、問いに身を委ねています。デルスの老いと死を通して、「人間の限界」という避けがたい真理を描き出しているのです。

イマジカBS(過去の録画)で鑑賞 (HDリマスター)

96点

neonrg