「ストーカーを描く」デュエリスト 決闘者 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ストーカーを描く
この映画を見た頃(映画は1977年だが、見たのは80年代後半)には、まだストーカーというコトバがなかった。
わたしはタルコフスキーのストーカー(1979)のレビューをこう書き出している。
(ちなみにタルコフスキーのストーカーは案内人という意味)
『ストーカーという用語が一般化した当初、タルコフスキーが脚光を浴びていると勘違いしたことがある。
ストーカーの呼称が無かった時代──おそらく80年代の半ばまで、それは変質者とかしつこい奴とか変態などと呼ばれていた。もしその当時誰かがストーカーと発したなら1979年のソビエト映画を指しているはずだった。』
The Duellistsは「しつこい奴」を描いた忘れられない映画。
舞台は1800年のフランス。軍令しただけのことを侮辱されたと感じ、逆恨みしたフェロー(カイテル)がデュベール(キャラダイン)に決闘を申し込み、引き分ける。が、根に持って、その後もまとわりつき、事あるごと因縁をつけては、決闘をしかける。それが15年間つづく。
以後ハーヴェイカイテルがトラウマとなり、この映画中の役柄のように貼り付いた。
どんな悪役でも経年で好々爺に転換するときがある。
リーバンクリーフ、ジャックパランス、リチャードウィドマーク、ルトガーハウアー、レイリオッタ・・・強面でもいずれは善玉を演じることができる。
ハーヴェイカイテルはそうならなかった。神経質で、疑い深く、狭量──真性な悪でなかったとしても、どこかに性根のねじれが見え隠れしてしまう。
たぶん、はじめて見たストーカー行為の映画である。
人が人にまとわりつく(ストーカーする)とき、愛と憎しみは表裏になっている。
昔は、結婚する男側の方法として「どこまでも食い下がる」が、有り得ていた──と思う。
押しまくって、辟易させ、つき合わせる──は、封建時代には、比較的常用された手段だったはずである。
そうやって屈服の伴侶となった結果、苦楽をともにして幸せになる──こともあるが、いやいやながら添い遂げた人生が、昔は多数あったに違いない。
時代は変遷し、いまはストーカー行為に対する法律がある。
先般(2021/06)、大阪で、カラオケパブの女性オーナーが、勘違い男に○害される事件があった。
そんなことがあってみると、人の置かれている環境に、無防備を感じざるをえない。そもそも人は、愛憎から逃れる術をもっているだろうか?
○害に至るほどのき○がいは稀、とはいえ、女でも男でも、まったく気のない異性の偏愛をかわすのは、ほんとうに煩わしく、嫌なものだ。
(まっとうなにんげんならば)そういう局面は、軽くあしらってはいけないことを知っているがゆえに、真摯に向き合ったうえで、自分への興味を失ってもらうよう仕向けていくほかない。ところが「自分への興味を失ってもらうよう仕向ける」なんて芸当は、ムリなわけである。
若かった頃、分不相応な女性を一方的に好きになってしまったことがあり、まったく気がない女性から一方的に好かれたこともある。(もちろん好かれたことのほうがずっと少ないが。)
だれにでも、大なり小なりそんな片思い経験はあるだろう。
ない──なんてのは嘘である。
そのような経験を通過すると、軽率に、だれかを好きになったり、軽率に、好かれるようなフェロモンも振りまいたりしなくなる──わけである。
それが、ほんとにロクでもない結末──じぶんが深く傷ついたり、相手を深く傷つけてしまう──になるのを知っているからだ。
恋愛なんて、煩わしいだけで、いいことなんかない。(個人的見解です。)
ましてや、ある程度モテる人で、野望があるならば、寄ってくる者たちを振り払うのに、どれだけ多大なエネルギーを消費しなければならないだろう。
いわゆる「将来の夢」に向かって走っていた人が愛憎によって中断・頓挫しなければならなかった──そんな顛末をどれだけ聞かされてきたことだろう。
わたしは若かったとはいえ、ひとを一方的に好きになったことを、悔やんでいる。まっとうなひとは、犯罪をおかさない。ただし、まっとうなひとは、片思いの経験をかならず、持っている。なぜなら失恋は、じぶんというにんげんを自覚するもっともスパルタンな体験だからだ。その体験者は、人がいやがることをしない。ましてストーカーなんてしない。年を食ってさえ、ふと何年も昔の苦い思いがこみ上げてくる。嫌なものだが、体験しなければならない苦みだった。概して、悔恨とは正常な情動ではなかろうか。それがなければ人の気持ちがわからない。
ただ、知っての通り、男が女に(女が男に)関わろうとすることを止めれば、じんるいは滅亡します。笑
楽しく恋愛して、問題から解放されている人生は幸せだと思う。
映画とは関係ないの恋愛の話をしている──とお感じになるかもしれないが、愛と憎しみは表裏であり、ストーカー化の発火点には共通するものがある。
なんらかの嫉妬心がフェローを燃やした。デュベールが若くしてじぶんより高位にあるからか、自分より背が高いからか、かれがハンサムだからか、美しい妻がいるからか、些細なことをきっかけに、愛憎の虜(とりこ)となり、どこまでも追ってくる(自覚のない)人──がストーカーであり、それを描いた映画がThe Duellistsだった。
I have submitted to your notions of honor long enough. You will now submit to mine.
(貴殿の名誉とやらにさんざん付き合ったんだ。(決闘に勝った条件として)今後は私の言うとおりにしろ。)
最後は、おまえは俺との決闘に負け、もう死んだも同然だが、殺さないから、そのかわり、もう二度と俺に関わるのをやめろ──と告げ、デュベールは長く続いたストーカーを振り払った。のである。
このセリフはわたしがこの映画のことを思い出すたびに再構築され、最終的に、デュベール(キースキャラダイン)は、世のストーカー行為をする輩に対して、こう言ったのだ。
『これからおまえは、俺に話しかけてはいけない。俺を見ても、声を聞いてもいけない。風上に居てはいけないし、近寄ってもいけないし、俺のことを考えてもいけない。それを死ぬまで守り通せ。』
人にまとわりついた人に処罰はない。今でも、法律があるとはいえ、適用には限度があり、その行為が罰せられるのは、氷山の一角に過ぎない。ニュースになるストーカー事件には、その犯人に対して、再三の警告がされていた──との尾びれがかならず付いてくる。冒頭に紹介した事件も十数年続いている。犯罪が実行されていないなら、定型の予防策しか、やりようがないからだ。
この映画のように、どこまでも遷延し、犯罪へ至らなかったとしても、相手を除去するのに、何年もかかるうえ、その間、心身が著しく疲弊する。
全く理不尽のきわみ。
ところで、この映画はリドリースコットのデビュー作。
記憶ベースだが、昔のリドリースコットは──コマーシャルの仕事をしていた若い英国人の監督──と紹介されていて、CM作家がつくる映画──と解釈されることが多々あった。
海外には本作の研究者が多く、絵画的なカットシーンに(キューブリックの)バリーリンドンが引き合いにされているのをよく見かけた。
個人的なお気に入り俳優のエドワードフォックスも出ていた。
現代はネット社会があり、粘着する輩もいる。いずれにしてもストーカーの原型をあらわした本作が古くなることはない。
しつこくされている人に一つのアイデアだが、その当該相手に、おまえはこの映画のハーヴェイカイテルのようだと釈を入れて、本作をお薦めするといい。(軽微なストーカー行為にたいしてやってください。本気の相手には逆効果です。笑)