「自分を裁くのは誰か?」天国と地獄 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
自分を裁くのは誰か?
黒澤明監督のフィルモグラフィの中でも、最も硬質で冷徹な視線を貫いた作品が『天国と地獄』である。三船敏郎が演じる主人公・権藤は、靴メーカー「ナショナルシューズ」の専務。企業内部の権力闘争の渦中にある彼のもとに、息子が誘拐されたという知らせが届く。だが誘拐されたのは実子ではなく、使用人の子供だった──。ここから物語は、倫理と決断の地獄に突入する。
本作は前半と後半で明確に構成が分かれている。前半は権藤の屋敷内──すなわち“天国”からの視点で語られ、後半は誘拐犯・竹内の潜む“地獄”へとカメラが降りていく。この空間的な対比は、単なるメタファーにとどまらず、倫理と虚無、実存と幻想、自己像と現実の乖離といった深層的構造をもつ。
三船が演じる権藤は、企業の論理と個人の倫理のはざまで苦悩する男だ。当初は「5,000万円を持って大阪に行け」と語るほど、会社の主導権を取ることに執念を燃やしていたが、やがて自らの損失を顧みず誘拐犯の要求に応じる。ここには明確な倫理的な転換点(回心)がある。だが彼はそれを劇的に語らない。ただ決断する。黒澤はその沈黙の中に、戦後日本における新しい倫理観の可能性を探っているようにも見える。
一方で、犯人の竹内(山崎努)は、天才的な頭脳を持ちながらも社会の底辺に生き、他者を支配することでしか自分の実存を保てない人物として描かれる。彼は権藤の家を見上げる視線の中に、憧れと嫉妬、そして復讐心を凝縮させていく。だが彼の中で育った“権藤像”は、あくまで自己の内面で構築された幻想にすぎない。権藤に親しげに脅迫電話をかけたり、他人の息子でも見捨てないはずだと断定したりする彼の姿は、その幻想への執着を物語っている。
ラストシーンで、実在の権藤に面会した竹内は、その幻想の崩壊と直面し、自分が欺いてきたのは他人ではなく、自分自身だったことに気づく。そして絶叫と共に崩壊する。彼の狂気は犯罪そのものによるものではなく、自己欺瞞の発見と、それに耐えられなかった内的破綻によるものだ。
そして注目すべきは、仲代達矢が演じる警視庁の若手刑事である。彼は粘り強い捜査で竹内を追い詰めていくが、その姿勢はやがて「捕まえる」から「裁く」へと変質していく。その結果、警察の仕掛けた罠に巻き込まれた麻薬中毒者が竹内によって殺されるという、痛ましい犠牲が生じる。「正義」の名のもとに、一つの命が冷酷に切り捨てられる──それは明らかに傲慢であり、自己欺瞞である。
また、権藤の秘書・川西(三橋達也)の存在も重要だ。彼は企業内のパワーバランスを敏感に察知し、権藤が失脚すると情報を流す裏切りを働く。しかし誘拐事件の影響でナショナルシューズが世間から非難を浴びると、今度は手のひらを返すように権藤に復帰を促す。この人物の変遷は、企業倫理とは利害に応じて変節する脆弱な価値体系であることを示している。そこには、戦後日本が抱えた「合理性の空虚さ」への静かな批判が込められている。
そして、竹内が死刑台に送られる直前、権藤と面会するラストシーンは、黒澤映画屈指の緊張感と哲学的深度に満ちている。そこに描かれるのは、他者のまなざしによってはじめて「自分」という虚構が崩れ落ちるという、自己像の決定的な崩壊である。権藤はただ「わからない」と静かに語る。しかしその沈黙には、他者を断罪しないという倫理が宿っており、同時にそれは、人間に許された最後の真実の声でもあることを示している。
黒澤は『天国と地獄』において、勧善懲悪でもなければ単なる社会派映画でもなく、「倫理とは何か」「人は何をもって誰を裁くのか」という、より根源的な問いに踏み込んだ。そこには、日本の戦後社会が築いてきた「合理的な正しさ」への不信と、そこから外れた個人の“魂の葛藤”が透けて見える。
『七人の侍』や『用心棒』のような英雄譚とは異なり、『天国と地獄』は一見ヒーロー不在の映画だ。しかし、その冷徹な構築性と抑制された情動の底には、人間が虚無とどう向き合い、どう倫理を取り戻していくかという、極めて普遍的かつ切実な問いが、作品の語られざる核として深く織り込まれている。
4K UHD Blu-rayで鑑賞
97点