チャンスのレビュー・感想・評価
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思っていた内容と違った…
コメディかと思ってみていたら中身はホラーっぽい。
庭師のチャンスが周りの勘違いによってあれよあれよと国のトップまでなるのかなと思われるラスト。思い込みってほんま恐ろしいし、あれだけ周りの人に支持されていたらチャンスに対するマイナス意見も抹殺されそうやよね。
最後の池のシーン、あれはもしかしてチャンスは人間やなくて神みたいな存在なんかな?普通あそこまで歩いてたら水に沈むもんね。妻も、夫が病気で長くないとはいえなぜチャンスに惹かれるのかよくわからず。
エンドロールがまさかのNGシーンで終わるという最後まで不思議な映画でした🎬
ピーター・セラーズといえば「ピンク・パンサー」でいっぱい笑わせてい...
【純真無垢に生きる庭師チャンスを崇め奉り、且つ疑惑を持つ政治家たちの姿をシニカルな視点で描いたコメディ。恩人の葬儀の際、ホワイトハウスに向かってチャンスが”池の上を歩いていく”シーンは、忘れ難い。】
■数十年間大富豪の屋敷の庭師を務め、一歩も外に出たことがないTVだけが世界の全てであったチャンス(ピーター・セラーズ)。
ある日、屋敷の主人が静かに亡くなる。
管財人に屋敷を出ていくように言われたチャンスは、街のあちこちで見かける物珍しいものに気を引かれていると、同じく大富豪で、大統領のご意見番だったベン・ラッドの妻イヴの高級車と接触してしまう。
◆感想
- 今作は、本日観た映画のラストシーンで流れた映画である。細部を忘れていたので、再鑑賞した。-
・チャンスの何の政治的知識も無いのに、軽度の知的障害を持つが故に、純真無垢なる言動。
それが大統領の”経済を上向かせるためには・・、”という問いに
”秋、冬が有っても愛が有れば春になり、芽が出て、育ちます・・。”というチャンスの庭師としての言葉を勝手に解釈して、彼を崇めつつ、一方では彼の出自を探る大統領の滑稽な姿。
・だが、そんな彼の無垢なる姿を見て、病末期の恩人ベン・ラッドが”妻イヴを頼む・・”と言う姿。
可笑しくも何だか切ないシーンである。
<”人生とは心の姿なり”を地で行く、見事なるコメディ要素を絡めた作品。
恩人、ベン・ラッドの葬儀の際に、政治的思惑が飛び交う中、独りホワイトハウスに向かってチャンスが”池の上を歩いていく”シーンは、忘れ難い。
流れる曲は「ツァラトゥストラはかく語りき」である。
今作は、示唆に富んだ作品であろう。>
もう一度観てちゃんと理解したい映画
タイトルと星の数、ピーターセラーズということだけでずっと観たかった。やっと観ることができた。
ピーターセラーズの穏やかな喋り方、邪気を感じさせない不思議な人物の演技が良かった。どこから来た何者なのかみんなわからないけど、話す言葉にみんなそれぞれ自分達で解釈して感動してしまう。みんなに受け入れられて良かったねと思う反面、いつかバレたらどうなってしまうんだろうとハラハラしながら観た。
だけど、観終わった後にそれは自分の取り越し苦労だったんだと知った。
映画のラストで正直、あれ?ここで終わるの?
と思ってしまったので、Wikipediaを検索したら
風刺映画と書いてあり、
話の内容はあの哲学者ニーチェの書いた哲学の本になぞらえられてあるというようなことが書かれていた。
ニーチェの本を検索したら、
愚者が神が死んだことを知り、山を降りていって超人になる話と書かれていた。
不思議な映画だという印象が残った水に浮かんで歩く姿も、キリストの話からだそう。
感覚的にとてもいい映画だと思ったけど、まったく理解していなかった。
永劫回帰の思想とはなんだ?
ニーチェの本を読んでから、もう一度観て理解したい。
唐突な設定をリアルに演出
"人生とは心の姿なり"
チャンスは素朴な善人だが、周囲の裕福な人々は彼の言葉のすべてを神の言葉のように礼賛する。反対に、彼がちょっと頭の弱いただの庭師だということを知る人々は、彼の言葉に悪意さえ見出す。
誰の見解が正しいとか間違ってるとかそういうことはどうでもいい。というか人によってバラつきがあることこそが本質だ。チャンスは多くを語らない。彼が大事にしているのは庭とテレビだけで、それ以外のことにはあまり関心がない。何を考えているのかよくわからない。だから誰もが彼を好きなように理解する。よくわからないからこそ、自分の好きなように編集することができる。
こうやって書くとなんだか悪いことのような気がするけど、誰もがやっていることだ。いくらひっくり返そうが顕微鏡で覗き込もうが人の本心なんてものは見えないから、限られた言葉や所作の節々を線で繋いで出来上がった虚構を、我々はとりあえず「あなた」とか「君」とか呼んでいる。
チャンスと出会うさまざまな登場人物に心境の変化が訪れるが、それはチャンスと向き合った結果というより、チャンスを通じて自分自身と向き合った結果という感じがする。
だからチャンスとの出会いによって必ずしも善の方向に上昇していった者ばかりではない。ラストシーンでベンの棺を運んでいた権力の亡者たちなどがいい例だ。
一方でベンはチャンスとの出会いによって自分の死を乗り越えることができた。ただしこれはベンが生来的にそういう精神的素地を有していたからだと思う。あと金持ちだったから。
おそらくベンはそういうことも薄々悟っていて、だからこそ彼の遺書の結びには「人生とは心の姿なり」という一節があったのだろう。たとえば微積分を知らない人がいたとして、その人が微積分を問いている人を見たところで「この人は微積分が解ける人だ」という所感を得ることはできない。
チャンスはある種の超越的存在だったから「彼をサンドバッグにして自己を知る」みたいなコミュニケーションの取り方がそこまでグロテスクに見えなかったけど、現実世界に彼はいない。ハナから「自分を知るために相手を利用しよう」みたいな魂胆で他者に臨むのはよくないなぁと思った。
シリアスか、コメディか
最初は重厚なストーリーかと思いきや、蓋を開けてみれば漫画ラッキーマンのようなストーリーであった。
ただし演技は本気で、そのシリアスさとストーリーのコミカルさが相まり非常にシュールな内容となっている。
恐らく予告だけ見て重厚な映画を期待して裏切られた人も多いかと思うが、私はこれはこれでコメディ映画として楽しかった。
ただ、テレビが好き。
主人が亡くなって庭師として住み込みで働いていた家から初めて外に出たテレビ大好きおじさんの話。
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このおじさんテレビか庭関係のこと以外全く頭にない。だから周りの人が言うことなんて何一つ理解できてないし、テレビがあると何よりもテレビに夢中になってしまう。
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それを見て完全に私だと思ったね。この映画の時代はスマホなんてない時代だけど、今はテレビを持ち歩けてしまっているから主人公以上にテレビ人間。
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電車の移動時間、ドライヤーで髪の毛乾かしてる時間、化粧する時間、最近は在宅で仕事中すら何かしらのコンテンツを見てる。さすがに人といる時は見ないけど、ちょっとでも退屈だと思ったらすぐにドラマ見たくなっちゃう。
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客観的に自分の状態を見せられているみたいでちょっと反省した(笑).
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だからテレビに夢中になりすぎるおじさんに自分を重ねてどこか嫌悪感を抱きつつも、人との関係もおじさんのように、テレビついでにぐらいであしらうのが案外上手くいくのかもしれないと思った。
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最高峰のコメディ
タイトルなし(ネタバレ)
ピーター・セーラーズ主演のチャンス、ミスタービーンを思わせる役柄に心が痛くなるかなと思ったけどそうでもなかった。博士の異常な愛情で1人で3役演じていたのにこの映画ではほぼ”庭””テレビ””お腹すいた”の全肯定マン、だけど周りが勝手に解釈しこちらの心配もよそに良い方へ向かって行き、ラストの水の上を歩くシーンは神的な何かかと思った。欲のまみれた情勢に意見するように見えるチャンシーはテレビが好きだと記者たちに切りつけるが、深い意味はなく単純にテレビが好きなだけだし子ども向け番組しか見ない。そんなチャンシーが何万人もの視聴者の心を動かしてしまう。流石にそんなにうまくいくか??と言うところもあるが、それはコメディーだから目を瞑ろう。最近の何でもかんでもセクシーに比喩で例え、はっきりしない政治も考えものだなと考えさせられた。笑
チャンス
シャーリー・マクレーン見たさに
哲学的な寓話と観るべき作品
住み込みで働く庭師のチャンスは、主人の死により家も仕事も失う。
家を出たチャンスが町を彷徨うシーンに流れるのは「ツァラトゥストラはかく語りき」。つい昨年、「2001年宇宙の旅」を観たばかりだったので、関連があるのかと調べてみたら思わぬ発見があった。
この映画自体がニーチェの著作「ツァラトゥストラはかく語りき」を土台にしているのだ。
ニーチェの著作は、山に籠っていたツァラトゥストラが、神の死を知って山から下りて、人々に教えを施すというものだ。
日本の作品紹介を読むと、「善人が無垢な心で周囲の人々を魅了し、成功していく物語」といったものが多いが、実際に観た印象は相当異なる。邦題も、そういうミスリードを誘ってはいないか。
本作は、非常に哲学的で暗喩に満ちた寓話と観るべきだろう。原題はBeing There、ハイデッガーの「存在と時間」から取られたとのことである。
チャンスは何らかの知的障害があるようだ(情緒障害もあるようにも見える)。
冒頭、主人の死を、同じ使用人仲間のルイーズから教えられるシーン。しかしチャンスは理解が出来ない。ルイーズはチャンスの反応に腹を立てて彼を叱るが、すぐに我に返り「大きな声を出して悪かった」と詫びるのだ。つまり、ルイーズは、「チャンスは主人の死を理解出来ない人」と捉えていることになる。
それから、チャンスが自分のことを語る場面で、「物心ついた時から庭師をしていて、家から外に出してもらえなかった」と言うセリフがある。何らかの事情でチャンスは引き取られ、外に出さないように育てられた、ということだろう。
そして、彼は読み書きが出来ない。チャンスが育った家はそこそこ裕福な家だが、学校には通わず、教育を受けてこなかった、ということである。
チャンスはテレビを観ることに強いこだわりを持っている。自閉症スペクトラムを思わせる。
チャンスは庭仕事のことしかわからない。しかし、周囲の人には彼の言葉が予言めいたもののように聞こえる。最後にはチャンスは次期大統領とも目されるようになる。
物語の舞台はワシントン。アメリカの政治の中心地である。
チャンスの言葉に踊らされるマスコミ。マスコミに踊らされる人たち。ところが、そのマスコミの権威すら、もはやなくなっていることも示唆される。FBIやCIAは情報操作をやっている。出世欲にとらわれた弁護士。理性や秩序を喪ったワシントンの様子は、まさしくニーチェが考えた神の死んだ世界であろう。
そこに表れたチャンスの存在は果たして何なのか?
ラスト、浅い池を歩くチャンスは水上を歩くようである。まるで神のように。
当時40代半ばのシャーリー・マクレーンが気品と可愛らしさの同居する女性を演じていて魅力的だ。
タイトルは主題の逆説
午前十時の映画祭にて、初見。
'79のアメリカ映画。シャーリー・マクレーンは当時44歳。いやー、大女優の年齢を追い越しちゃったよ、ってのが最初の感慨としてある訳で。「年下」のシャーリー・マクレーン、めちゃくちゃ可愛い。ちょっとシワあるけど全く気にならないです。
映画の方は、「庭の事しか判らない」男の言葉を、奇妙に拡大解釈した周囲の勘違いから、男が大統領のフィクサー的存在になってしまう物語。当時の政界に対する皮肉と風刺、と言う要素もあるにはあるが、純粋にコメディとして見るべきで、声を上げて笑ってしまう場面がいくつかあった。なんせ主演はピーター・セラーズだし。
最後の場面、チャンスは水没することなく池の水面上を歩きます。これが、現在の状況を象徴するものなのか、未来の事までを含めた示唆なのかは不明ですが、まぁ、あまり問題では無いと思われ。何がどちらにどう転ぼうが、チャンスにとっては大した話では無いと考えられるからです。テレビがあって、食べられれば幸福なんだから。
周囲のほぼ全員が理解しているチャンシーなど、何処にも存在しない。これが主題だと思う。being there の逆。世の中のあれやこれやは勘違いと幻想かも知れないけれど世界は回り続ける、って言う映画。
読み書きができないチャンスの脳は、テレビに依存しています。放送されるテレビ番組は、当時の世相を伝えてくれるものなんだと思いますが、「セサミストリート」、条件付き確率の議論を巻き起こした「モンティ・ホール」、「ゲーターレードのCM」くらいは判った。Deotatoの「ツァラトゥストラはかく語りき」の乗って家を出、ワシントンのダウンタウンに繰り出すシーンも印象的。この曲を聴くと、「あーーー、'70年代だぁ!」って思う。
やすらぎ
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