「明治時代の話し言葉をリアルに聴かせるという目論見は…」それから(1985) いたりきたりさんの映画レビュー(感想・評価)
明治時代の話し言葉をリアルに聴かせるという目論見は…
久しぶりに再鑑賞。ううむ、もう少し面白かったように記憶していたのだが…。今回とくに強く感じたのは、演技レベルがてんでばらばらな出演者がごった煮のように放り込まれている、ということだ。主役の松田優作は終始抑えた演技に徹しているが、ここで新境地を拓いたというほどでもない。それより気になったのは共演者の面々だ。
まず、羽賀健二は映画冒頭の第一声からして違和感がハンパない。明治特有の言い回しについていけず、台詞との折り合いの悪さを露呈する。同じことは森尾由美と藤谷美和子の二人にもいえる。森尾のアイドル全開のしゃべりも酷いが、藤谷の幼児みたいな声質も気になって仕方ない。とくに後者はヒロインとして台詞が多いだけに困ったものだ。
終始ハラハラさせられるこの三人に対し、舞台役者のような口跡で異彩を放つ一群が、小林薫とイッセー尾形だ。二人の出自はともに舞台。唐十郎率いる「状況劇場」出身の前者は、芝居がかったセリフ回しで観客の耳目を惹く。かたや、当時まだ渋谷ジァン・ジァンの舞台に立っていた後者は、松田優作と相対してなお、自らの一人芝居のスタイルを崩さない(その是非はあろうが)。
もうひとつの一群は、笠智衆、草笛光子、中村嘉葎雄といった日本映画界の重鎮たちだ。さすがにこの三者は各人の存在感そのままに日常的な所作をリアルに再現してみせる。台詞も変化する表情に寄り添うように発せられ、齟齬がない。
その中で、笠智衆だけをカメラはやたらとローアングルで捉える。それでも醸し出されるイメージは「世界のOZU」というより「寅さんシリーズの御前様」に近いのはご愛嬌か(笑)。
そんなわけで個々人の演技にかなり温度差があるため、今日び絶対に耳にすることのない時代がかった「話し言葉」を、説得力あるリアリティをもって聴かせるという目論見はもろくも崩れ去っている。
では、ほかに見どころがないかといえば、そんなことはない。たとえば豊田四郎監督の文芸作品のような日本家屋のセットなど、実に見事なものだ。手がけた日活の美術部門は大健闘である(宿屋のセットなど一部は東宝がやったようだが)。
また映像表現に目をやると、静止画ふうの雨中のショットや陽炎のように揺らめく映像は、どこか鈴木清順監督の『ツィゴイネルワイゼン』(1980)や『陽炎座』(1981)を想起させるし、くりかえし挿入される路面電車内の幻想的な光景は、70年代後半以降のフェリーニ作品に見られるような作りもの性が充満していて面白かった。
なお、この市電のショットに流れる「空気感」は、本作と同じ1985年に公開された杉井ギサブロー監督作品『銀河鉄道の夜』のムードにも一脈通じるように感じられた。こういうのを「時代の気分」と呼んでもいいのかもしれない。
以上、国立映画アーカイブの特集上映「映画監督 森田芳光」にて。
