劇場公開日 1985年11月9日

「映像、音楽、俳優は見事だが家制度からの圧迫の描写が弱く恋愛のリアリティが希薄」それから(1985) 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0映像、音楽、俳優は見事だが家制度からの圧迫の描写が弱く恋愛のリアリティが希薄

2021年11月26日
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1 夏目漱石の原作の内容
江藤淳によれば、『それから』は自分の足元だって危ないくせに社会を高みから眺めるインテリの転落を通じて、日本の近代化を批判した小説だという。

主人公代助の性格には「一方に於て社会的類型であり、他方において『我執』に取り憑かれた個人」という二面性があり、文明批評的性格が表に出ているため、三千代との恋愛は明瞭ではない。

二面性のうち社会的類型の面では、代助は家制度下における長井家の次男坊として、家長の扶養に甘んじる経済的基盤の薄弱な人物だが、そこから脱け出そうともせず、「こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、ろくな仕事はできない。道徳の敗退もいっしょに来ている。僕一人が、何といったって、何をしたって、しようがないさ」と、文明批判を口実に仕事にさえ就かない。
これに対して漱石は、三千代に「私よく分からないわ。けれども、少し胡麻化していらっしゃるようよ」と批判させている。「高等遊民」なるものは所詮浅薄なものだという、インテリの戯画化である。

我執の面でも、好きな女三千代と友人の結婚を周旋して自己犠牲を見せながら、最後は徹底できずに彼女に引き寄せられていき、自分の言葉を裏切り、友人を裏切ってしまう。
その結果、あっけなく経済基盤を失った代助は電車に揺られながら、「日本の風土と近代化との間に生じる不協和音、炎症という現実」(江藤)そのもののようなジリジリ焦げ付く世の中の動きを初めて実感し、「自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってゆこうと決心」するのである。

2 家制度の影響
集英社文庫版の石原千秋の解説には、作品の背景である家制度が詳しく書かれている。
当時の家制度は明治以前の公家、武家の慣習を法制化したもので、家長は財産管理、家族の居所指定、婚姻同意の権限を持つ反面、家族の扶養義務を負う。
男性血族の継承が重視され、家督は長男の単独相続。亡くなったら次男が引き継ぐ。三男以下は無用の存在だから分家していく。

次男は長男に事があった場合の予備、代役だから、長男の承継者の目途が立つまで家族の中で扶養され続ける。まさに代助は代役で、扶養されるがまま好き勝手にしているが、長男の息子が大きくなってきたこともあり、お役御免の時期が近付いている。

代助の結婚話が急に進むのは、①分家させて今後の扶養義務を免れること、②贈収賄事件の余波で一家の事業が危うくなる中、地主階級を一族に取り込むこと――という実家の2つの意図によるものだという。

また、当時の刑法には姦通罪があり、「有夫ノ婦姦通シタルトキハ二年以下ノ懲役ニ處ス其相姦シタル者亦同シ」とされていた。民法にも、姦通によって離婚または刑の宣告を受けた者は、相姦者と婚姻することはできないとの規定があった。
仮に代助と三千代が肉体関係を結んでいたとすれば、平岡の告訴次第で2人は刑事罰を受けるばかりか、刑を終えた後も結婚できなかったはずだが、小説ではその一歩手前で踏みとどまった形になっている。

3 映画との差異
原作はインテリの転落物語だが、森田監督はそうした社会的側面ではなく、恋愛に焦点を当てており、その理由を次のように語っている。
「愛に飢えた男女が言葉遊びをやっていると考えれば、こんな現代風な恋愛ゲームはないんじゃないかと思えてくる。そこまで漱石が描こうとしてたかどうかは分かりませんが。僕は、この漱石ロマンの根底にある"純愛"も今だからこそ新しい愛の形だと思うんです」

そのためかもしれないが、原作の文明批評的な要素がかなり削られており、高等遊民の脆弱な立場や、代助の虫の良すぎる言い分がよくわからない。

また、原作では代助が実家から結婚にじりじり追い詰められていくさまがしつこく描かれているのに、映画ではあまり緊迫感が感じられない。だから実家からの追及が激しくなればなるほど、代助が八千代に引き寄せられていく流れが伝わってこない。

4 映像について
1)映像美への拘り
冒頭に近く印象的なのは、代助と平岡が再会を祝して飲むビールのグラスに夕陽が差し込み、キラキラ黄金色に輝くところだろう。さらに古い街灯の柔らかな光に照らされた石畳の道、路面電車、逆光に輝く屋台店…等々。
これらはやがてセットの書割的安っぽさが鼻についてくるのだが、全体的に華やかながら落ち着いた色調の画面、女性たちの和服姿、洋館の佇まい等、レトロで美しい画面作りは秀逸である。

2)イメージカットの意味
①百合の象徴するもの
百合はさまざまな象徴に利用されるが、ここでは清楚と男根を意味する。
結婚前の三千代と代助が百合を囲んで向き合うとき、百合は清楚の象徴だ。
次に、再会したとき三千代が買い求めてきた百合は、もはや清楚ではなく、夫に邪険にされ寂しい人妻の性的ニュアンスを漂わせている。
最後に代助が三千代に告白する時は、2人の背後に大きな百合の生花が置かれている。これは2人の関係がプラトニックから、肉体的な性愛に移行することを暗示しているのである。

②電車内のシーン
シーンⅰ)夕日の射す電車内に代助1人が乗っており、そのまま夕焼けに向かい走っていく。

これは代助の経済的基盤の脆弱さを比喩的に描写した、原作の次の箇所を少々変更したものだろう。
「乗り込んでみると、誰もいなかった。黒い着物を着た車掌の運転手の間に挟まれて、一種の音に埋まって動いて行くと、どこまでも電車に乗って、ついに下りる機会が来ないまで引っ張りまわされるような気がした」

シーンⅱ)夜間、暗い車内で左右の座席に10名ほどの乗客がいるが、彼らはそれぞれ花火を手にしており、それが順々にスパークを散らし始める。しかし、代助だけは花火を持っていない。

このシーンは、漱石『草枕』にある次のような汽車に関する記述を引用して、文明批判を暗示していると思われる。
「何百という人間を同じ箱へつめてごうと通る。情け容赦はない。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆるかぎりの方法によってこの個性を踏みつけようとする」
近代化という名の電車に否応もなく詰め込まれた国民が、西洋の真似をしてエゴを発達させ、自分勝手に振る舞い始めたのに、代助はそれになじめないという意味だろう。

シーンⅲ)夜、電車の天蓋がないため夜空の満月が見え、何人もの背中を向けた同じ服装の人物がその月に向かって進もうとしているのに、代助は1人見向きもしない。

これも前述『草枕』の引用で、こちらは文明の電車が個性を無視して、西洋文明に向かって発展していこうとするさまを描いている。

③芸者遊び、桜の花びらに包まれる代助
肉体的な享楽に耽っても、代助がどうしようもなく孤独であることを表している。何故なら彼は愛情を求めているからで、だから「僕の存在にはあなたが必要だ。どうしても必要だ」という告白につながっていく。他方、三千代に対する愛のない平岡は、芸者遊びを楽しんでいるかのようだ。

5 俳優、音楽について
俳優陣は芸達者揃いだが、とくに目立つのは兄夫婦。
機転が利いて代助思いの兄嫁を演じる草笛光子、豪放磊落で代助の屈折した心中など理解出来そうもない兄・中村嘉葎雄が素晴らしい。

三千代役の藤谷美和子は、タイトルシーンに浮かび上がるくすんだセピア色の写真が何とも魅力的で、心を鷲掴みにされる。儚げだが実は重い恋愛を受け止める強さのある女性が十分伝わってくる。

代助の松田優作は達者に軽やかな高等遊民と、恋愛に真摯な若者役を演じわけている。

本作で唯一日本アカデミー賞(助演男優賞)を獲ったのが平岡役小林薫だが、受賞にはやや疑問がある。作り物めいた大仰なコトバ遣いは原作通りだからやむを得ないにしても、口調が一本調子だし、友人と再会した嬉しさや、親しさが感じられない。

特筆すべきは、破天荒な食い詰めインテリを自在に演じ切ったイッセー尾形。蕎麦屋で自分を真似る噺家を揶揄って、突然ロシア語の演説をし始めるところなどは笑える。

最後に梅林茂。本作には全編を通して、1つのメインテーマとそのいくつかの変奏曲が流れているが、その上品でさり気ない哀感が、映画に調和し引き立てている。見事な楽曲だ。

6 評価
映画は原作通りである必要はなく、代助と三千代の恋愛パートだけを抜き出してきても問題ない。

ただ、原作では再会後の代助、三千代の行動には派手な部分がなく、彼らの恋愛は明治期の家制度との関係でリアリティを付与されているのに、映画ではその家制度の部分の描写が希薄であり、かといって独自の内面描写を付加しているわけでもないから、あまり2人の心の起伏が伝わってこない。恋愛映画としては、いま一つ印象が弱い理由である。

最大の欠点は、ラストに近く代助と平岡が面談する際、代助が三千代と愛し合っていることを打ち明けるセリフがひと言もないままなことだろう。だから会話の流れがぶっつり切れたまま、3年前に結婚を仲立ちしたのがどうしたこうしたという変な話になっている。

それはさておき映像は秀逸だし、役者も芸達者揃い、音楽も見事で、傑作と呼ぶに吝かではない。

徒然草枕