「アメリカ建国の失われた大義の復活を願うヒューマンドラマの名作」スミス都へ行く Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5アメリカ建国の失われた大義の復活を願うヒューマンドラマの名作

2024年7月5日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル、DVD/BD

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理想主義を衒いなく謳い上げ、現実の巨悪に対峙する説得力と爽快感を映画の世界で貫徹したフランク・キャプラ監督渾身の傑作。製作されたのはフォードの「駅馬車」やヴィクター・フレミングの「風と共に去りぬ」と同じく1939年で、日本公開は2年後の1941年10月でした。淀川長治さんのお話では日米開戦直前まで上映されていて、その公開期間はとても短く2ヵ月あまり。開戦の前の日までの映画館は、もうアメリカ映画が観られなくなるという危機感を持った人たちと思われて、どこも超満員だったと言います。この戦前時代の作品で個人的に印象深いのは田坂具隆監督の「五人の斥候兵」や「土と兵隊」、それとドイツのカール・リッター監督の「最後の一兵まで」の戦争映画にあるナショナリズムのプロパガンダです。このキャプラが求め描いた純真なパトリオティズムと比べて、日独とアメリカの大きな違いを感じてしまいます。勿論戦争映画と一般映画では比較にならないのですが、この新米上院議員ジェフ・スミスを主人公にした民主主義の不滅を願うストーリーには、アメリカの魂を鼓舞する意図が明確にあり、感動的なクライマックスを構築していて魅せられました。社会背景は政治腐敗と大資本の支配下という形骸化した民主主義に陥ったアメリカで、国家創設の憲法の理念と当時の大統領の記念碑が過去の遺物化し観光地扱いの現実でした。映画の中でそれを、“失われた大義”と言っています。独立宣言やリンカーンの民主主義の精神を改めて語る政治家はいなくなってしまった。ルイス・R・フォスターの原作『モンタナから来た紳士』から創作されたこの脚本は、ダム建設に絡む腐敗告発のリアルさ、そして議会妨害のラストで展開する孤軍奮闘の主人公と新聞・ラジオのマスメディアすべてを掌握しスミス一人を集中して弾圧する新聞社社主ジム・テイラーとの攻防を大胆に描き切っています。当時としても勇気ある内容でしょう。80年以上経った今、このような鋭い政治批判とマスコミ暴露をハリウッドが映画化できるのかと思うと、難しいのではないかと思います。

この作品で特に注目したい点は、大きく二つあります。一つはジーン・アーサー演じるクラリッサ・サンダース秘書の優秀な仕事振りとスミスに寄せる恋愛心情の描き方の繊細さでした。西部の田舎の自然を愛するボーイスカウトのリーダーが突如としてアメリカ連邦上院議員に選出される序章は、テイラーの傀儡となるホッパー州知事の8人の子沢山の設定からキャプラタッチ全開です。歓送会で少年たちから記念の鞄をプレゼントされて、意気揚々とワシントンに着いたスミスは、先ずペイン上院議員から令嬢スーザンを紹介されます。この都会的に洗練されたスーザンの美貌の虜になるスミスに対して、秘書サンダースが退職を考えているのが巧みな設定と言えるでしょう。スミスが地元の渓谷を国立のキャンプ場にする法案作成は、既にダム建設予定の別の法案の不正を知っていたサンダースの最後の賭けでもあったのです。このスミスを利用して彼女なりの復讐を果たす法案提出の議場シーンでは、新聞記者ディズ・ムーアに予言した通りのペイン議員とテイラーの部下の慌てぶりが面白い。そしてサンダースの正義感と新米議員を指導する能力の高さがあって展開する物語は、スミスを議会欠席させるためにスーザンから協力を頼まれるサンダースの立場の弱さが、次第に嫉妬を含めた恋愛感情を抱いていきます。ここでムーアを演じるトーマス・ミッチェルが損な役回りで存在感を出していました。スーザンへの腹いせから結婚を求められたムーアは、事務所に戻ったサンダースが法案のカラクリの全てを怒りに任せてスミスにぶつけるところに居合わせます。しかし、事務室から廊下に出て泣き崩れるサンダースの姿をみて彼女の真意を察するのです。この男と女の三人の心理のきめ細やかさ。と言って、スミスにはまだ彼女の思いに気付くほどの余裕が無いのが、また彼らしくていい。スミス一人では成し遂げられない方法論を伝授するサンダース秘書の存在があって展開する脚本のハリウッド映画らしさ、それは男の純真さを才能の1つとして認める女性を影の主人公にしている人間ドラマとしての面白さであり、深さでもあるのです。スミスをドン・キホーテとあだ名するサンダース秘書の慧眼が勝利した政治映画とも捉えられるからです。

もう一つの注目すべきは、クライマックスの議事妨害の議場と新聞などのメディア操作の地元のカットバックの映画的な表現です。このテレビのない時代の首都ワシントンとスミスの地元西部の静と動の対比が、どう決着するかの盛り上げ方を的確且つ簡潔なモンタージュで見事に描写されています。テイラーがスミスに冤罪の罠を仕掛ける公聴会を挟んで、マイナスから立ち上がるスミスの25時間ぶっ通し演説の無謀ともいえる作戦の目的は、地元の人たちに戦う姿を伝えたかったに過ぎません。しかし、テイラーのマスコミ独占と徹底的な非難のキャンペーンによって、スミスの真意は全く伝わらない。民主主義においてマスコミの扇動が如何に恐ろしいかが判ります。またそれによって民衆が簡単に洗脳される事実も加わります。最後の手段として、スミスを慕うボーイスカウトの少年たちが機関紙を発行し、街にばら撒く抵抗を見せます。ここで個人的に衝撃的なシーンがありました。それは少年たちを妨害するテイラーの手先の大人たちが新聞紙を奪うだけでなく、少年たちが乗る車をトラックで襲うカットです。映画だからこのような表現が出来るとも言えますが、これが現実に起こらないとも限らない。そう思わせるキャプラ監督始め制作に携わったスタッフ・キャストの真剣さが感じられます。

最後議場にスミス排斥の大量の電報や手紙が持ち込まれて、スミスがそれを一つひとつに目を通し絶望するシーンの悲愴感は、民主主義の敗北そのものです。そこでハリー・ケリー演じる上院議長がスミスと眼を合わせ微笑むカットの意味は、キャプラ監督の視点がこの議長にあるからでしょう。そして現実には権力者の資金援助と情報操作によって大統領候補にまで上り詰めた上院議員が、“正義に寝返る”ことは滅多にないでしょう。ペイン上院議員がスミスの父親と盟友で、かつて失われた大義のために青春期を送った彼個人の良心の呵責で劇的逆転劇を演出しています。

主演ジェームズ・スチュアートの文字通りの熱演は、ジェフ・スミスの正義感と一途さと共に田舎青年の純朴さや鈍感さも表現していて、理想的なアメリカ男性像を映画に遺しています。本来主演扱いのジーン・アーサーは、スチュアートの8歳年上のサイレント時代から活躍したベテラン美人女優。キャプラ映画では、「オペラ・ハット」「我が家の楽園」にも出演してスチュアートとの相性もいいですね。西部劇の名作「シェーン」の名演も忘れ難く、ハリウッドを代表する女優の一人に挙げるべき人でした。資本家ジム・テイラーを演じたエドワード・アーノルドもスミスのスチュアートと対峙して貫禄の存在感です。ホッパー州知事のガイ・キビーのユーモラスな言動は作品中唯一の息抜きできる存在で、キャプラ演出の妙を感じます。そして、トーマス・ミッチェルとハリー・ケリーの地味なキャスティングまで登場人物の充実度は非常に高いと言えます。

政治的な内容と人間ドラマの絶妙な配分によるキャプラ監督が求め描いたアメリカの魂の復活劇。民主主義のあり方を説いた素晴らしいヒューマンドラマの名作でした。そして改めて思うのは、どんな政治家や資本家がいようと結局マスメディアだけでも中立で平等で、自由の権利と義務を果たし、民衆に真実を伝えていけば限りなく民主主義の社会に近づくという事です。映画もその一つの責務を負うことを、個人的に願っています。

追記
2024年のアメリカ大統領選のマスコミ報道を見ると、この映画の希少性に気付かれると思います。映画は虚構の世界だけれど、良い映画の作家には、人間の真実、社会の真実について真摯な考察と熱量があります。それが時代を超えて残っていくのだと、このキャプラ作品が証明しています。        2024年 11月 15日

Gustav